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夜は彼のため

 夜の街はいつもきらびやかだ。

 ネオンの光がガラスに乱反射して映り込み、現実から切り離されたような空間が広がる。

 その中でも一際高級なクラブの一室で、ユウジはソファに腰を落ち着け、グラスを軽く傾けていた。

 彼がこの店を訪れるのは二度目だった。前回は取引先の社長に連れられて、そして今回は一人で。

 気軽に入れるようなグレードの店ではないはずなのに、まるで近くのバーにちょっとばかり立ち寄っただけといった気楽さで訪問したユウジは、常連であるかのように落ち着き払って席についている。

 彼のテーブルには数人のホステスがついていた。そしていつの間にか、みなが彼の軽妙な話しぶりに引き込まれて、笑いをこらえきれずにいる。


「あ、ユウジさん、指輪してる」


 ユウジの隣に座ったホステスのリナは彼の左手を取って、するりと銀の輪の上を撫でた。


「うん、そうだよ」


 ユウジは軽く応じて逆に彼女の手を取る。

 甘やかに指を絡めて手を繋ぎ、「指、ほっそりしててすごく綺麗だ」と囁くと、リナのグロスで潤んだ唇が嬉しげに綻んだ。

 ここは名のある店だ。そこに在籍する女性が美人なのは当たり前。容貌を賛美されることが日常茶飯事の彼女たちにとって、普段あまり目にとまらない些細なパーツを褒められることはむしろかえって自尊心をくすぐられるのだとユウジは知っていた。

 爪の形、ネイルの装飾、指の細さ、手の華奢さ、体温。片手を握るだけでも彼女たちが喜ぶ褒め言葉をいくつも思い浮かべられる。

 そして、こういう場面で指輪に代表される『既婚』というラベルは彼にとって何の障害にもならない。


「指輪しない男もいるけど、俺はするタイプなんだ」


 そう囁く彼の声は落ち着き払っており、どこか信頼を感じさせる響きを帯びていた。

 だからこそ、ホステスたちも彼の言葉に心を許してしまう。いかにも物慣れた態度のユウジが、ただの遊び人ではないように思えてくるのだ。

 中でもリナはユウジの口説きに心を動かされていた。

 いくら高級クラブで客層が良いといっても、いやらしい視線を向けてきたり、偶然を装ってボディタッチしてきたりといった鬱陶しい客もいる。そしてそういう男に限って下手な口説きをしたがるものだ。

 でもユウジは最初からずっと穏やかで、時折見せる優しげな笑顔が、ほんのりと酔った目元の流し目が、何か特別なものを感じさせるのだ。

『この人は、他の客とは違う』と、彼女は無意識にそう思ってしまっていた。


「リナさん、今度店の外でゆっくり会わない? もっと色々な話をしたいな」


 繋いだ手を離さずに、ユウジはリナの耳元に唇を寄せてまるで当たり前のように彼女を誘う。

 リナもまた、ホステスとしての経験から、こうした誘いには慣れている。同伴出勤なら応じるが、それ以外なら躱すべきだ。そしてユウジの誘いは明らかに後者だった。

 それなのに、なぜか彼の言葉には特別な魅力があった。抵抗しなければいけないという理性が働く一方で、心の奥では『いいかもしれない』と思ってしまう自分がいるのを感じる。

 リナはグラスを手にしながら微笑んだ。


「ユウジさんって、本当に不思議な人」


 一口だけシャンパンで唇を湿らせてからリナはユウジの瞳を覗き込む。


「何でも許せてしまいそうな、そんな魅力があるっていうか」

「じゃあ、許してくれる?」


 耳元に甘えるようなユウジの囁きが吹き込まれ、リナは思わず「ん」と頬を染めて喘ぎのような吐息を漏らしてしまった。そして握られた手をきゅっと握り返す。


「特別に、ね?」


 彼の鼓膜を震わせるように囁き返したリナの返事にユウジが嬉しげに顔を綻ばせた。


    ◆


 一方、カナミは自宅のソファに身を沈め、ぼんやりと映画を見ていた。

 時刻は既に二十四時を過ぎている。

 画面に映る俳優たちの演技に心を奪われることはなく、繰り広げられるストーリーも頭を素通りしていた。

 カナミの意識は目の前の映画よりも、連絡なく帰りが遅いユウジのほうに向けられている。

 仕事に追われている時の彼は日付が変わってからの帰宅も日常茶飯事だった。

 でも予定があるときにはあらかじめ朝のうちに「今日は会食」とか「打ち上げがある」と言ってくれるし、後から予定が入った時でも「帰りが遅くなる」と一報を入れてくれるのが常だったのだ。

 それなのに今日は連絡がなく遅い。

 もちろんそんな風にマメな夫というのが、世間一般に珍しいことぐらいカナミも知っている。

 二人は今年、結婚4年目になる。夫婦仲は円満――のはず。

 それなのにいつしかカナミの胸の奥には、淡いもやがかかり始めていた。


「どこにいるんだろ…」


 ふと、カナミは小さくつぶやく。

 もちろんユウジを責めるつもりはない。だが、最近の彼の言動に小さなトゲのように引っかかるかすかな疑わしさを感じるのだ。

 最近では古い考えだと言われることも多いが、彼の働いている業種が飲みに行くのも仕事のうちに入るという現実をカナミも実際働いていたからよく知っている。

 ただ、ユウジが曖昧にする会食や飲みの話題を寄せ集めて考えたときに、どちらかというと接待しているというよりされている事のほうが多いように感じるのは違和感だった。

 妻とはいえ部外者であるため、あくまで概要だけしか聞かされていないが、今動いているプロジェクトの内容からすればユウジが接待する側で、接遇される機会はそう多いとは思えない。

 これは同じ職場で自分が働いていたが故に引っかかる点だった。

 直接問い詰めたことは一度もないが、その裏に何かが隠されているのではないか、という淡い不安がどうしてもちらつくのだ。

 カナミは実家が裕福で、いま彼女たちが住んでいる高級マンションも、実家の父母が二人に贈ってくれたものだ。

 カナミはユウジいわく『自慢の美人妻』であり、ユウジ自身も道を歩けば女性たちに振り向かれるような優れた容姿をもっている。

 そして二人は恋愛結婚で、今でも月に一度は必ずデートに出かける愛情深い関係。

 外から見れば、きっとすべてが完璧な生活のように見えるだろう。

 だが、その内側で、ガラスに目に見えないほどのうっすらとした亀裂が入るように不穏な気配が広がっていっているような気がするのだ。

 それは例えば将来のこと、子供のことを口にしたときにユウジが優しく笑って言う「当分はいいかな」という言葉がもつ曖昧さなどによってもたらされているものであるような気がカナミにはするのだった。


    ◆


 やがて、午前一時も過ぎた頃になって玄関が静かに開く音がした。

 リビングへ続くドアが開き、頬を少し赤らめたユウジが入ってくる。


「遅かったね。お水飲む?」


 カナミはできるだけ平静を装って言葉をかける。

 すると、ユウジは少し照れくさそうに笑いながら、「大丈夫」と断り、ソファに座る彼女の隣に深く腰を下ろした。


「待っててくれたんだ。ごめん、連絡するの忘れてたね。ちょっと飲みすぎちゃってさ」


 ユウジはそう言ってカナミの肩を抱いた。

 肩に額を寄せて「ごめん」ともう一度囁く彼に、カナミは抗うことができなかった。

 彼の腕はいつも優しくて、誠実さを感じさせるのだ。


「プロジェクトが一段落したから気が抜けたのかな。ようやく大々的にリリースも出るよ」

「そうなんだ、お疲れ様」


 断片的に進捗を聞かされてきた大きな案件がやっと船出するらしい。

 胸のモヤモヤを押し隠してカナミはユウジの髪を撫でて労った。


「カナミも、ずっと支えてくれてありがとう。明日は埋め合わせにディナーでも行こうか。ちゃんとしたところを予約するよ」


 そう言われると、カナミは心の奥にくすぶっていた不安が少しだけ和らぐ気がした。

 ユウジは忙しい中でもこんな風にカナミのことを気遣い、予定をあわせて埋め合わせをしようとしてくれる。


「わかった…ありがとう」


 カナミは静かに答えると、ユウジに軽く体を預けた。だが、心の中の霧が完全に晴れることはなかった。

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