支倉ミキ
銀座の完全会員制の高級クラブに勤めていた頃、その場所はミキにとって一つの舞台だった。
夜の扉の奥で繰り広げられる華やかな宴。外部に一切情報を漏らさない徹底した秘密主義を貫いており、厳選された顧客には政治家、企業の重役、そして時に外資系のエリートたちが名を連ねていた。いわゆる社会の頂点に立つような人々だ。
ミキがその店の中でナンバーワンでいられたのは、なにも美貌だけが理由ではない。彼女は時に無邪気に、時に知的に、巧みに会話を操る。
そうしてミキに魅了された客が新しい客候補を連れて来店し、彼女を傍らに置いて気持ちよく喋って帰っていく。そうすると紹介客が次のミキの得意となってまた新たな客を連れてくる。
「この子、ミキちゃんって言って凄く頭のいい子なんだよ」
「また今度、得意先連れて来るから、ミキちゃんよろしく頼むよ」
「君と話すのが楽しくて、ついつい飲みに来ちゃうんだなぁ」
そんなふうに言ってくれる客達との会話に一瞬の言い淀みもないように、客前に出ていない時は常に国内海外の新聞、経済紙や業界紙、季刊誌にも目を通し続けるのが当たり前。
来店予定がわかっている時には事前に彼らの所属する会社、組織に関するニュースに隅々まで目を配る。明るい報せがあれば祝い、重い話題があれば労い、年上の男達の心を最初の一言で解きほぐす。
そんな風に努力を惜しまなかったお陰で、政財界の大物達を相手に、彼らの心をくすぐりながら、ビジネスの裏話や決して表には出ない将来の展望に関するヒントを聞き出すのも日常茶飯事だった。
「ミキちゃん、これからこのあたりの株どうなると思う?」
二週間ぶりに来店した上得意の政治家が、手元のスマートフォンにチャートを出して気軽に尋ねてくる。
彼は日本の経済政策に深く関与する立場にあり、よくこんなふうにミキを試すように今後の先行きを聞いてくる。ここで彼の眼鏡に叶うような返事ができれば合格、読みを外せばミキは贔屓の顧客を失うことになる。
彼の隣に自然と身を寄せ、手元の画面を覗き込みながらミキは答えた。
「今の状況なら、今月末までに若干の調整が入るかな。でも長期的に見れば強気でいいと思います」
確固たる自信を持ったミキの微笑に応えるように、彼は満足そうに頷いた。
「さすが。この移動平均見てそれが判断できるからミキちゃんは偉いんだよ」
「そんな。先生のご指導のおかげですよ」
くすくすと笑みを零しつつミキは彼の胸元に手をやって下品にならない程度にボディタッチする。満更でもなさそうに政治家は大きな体を揺らして笑った。
◆
もともと、彼女の出発点は大手証券会社だった。
せっかく狭き門をくぐり抜けて入ったその職場は、実力主義の男女平等を謳っていたが、実際には見えないガラスの天井が存在していた。
スタートの給与テーブルが同じでも、女性は世間へのアリバイとして選ばれた僅かな数を除いて一定以上の出世は見込めない。
更に、そういう場面でお飾りの出世頭に選ばれるのは元よりコネのある女性だけなのだということが、入社してしばらくするとわかってしまったのだ。
(どれだけ頑張っても、ここでは限界がある――)
その気づきは、彼女に新たな選択を迫った。
そして、ミキは自分自身の力で上へと登り詰めるため、夜の世界に足を踏み入れる決意をした。
夜職は完全なる実力主義の世界だ。顔も頭脳も肉体も、あるいはそれらを操るテクニックも、持てるものすべてで勝負する。
最初からコネのある者などおらず、条件は平等。そのかわり一度掴めばコネさえも実力のうちになる。
客筋のいい銀座の一見さんお断りのクラブからスタートしたミキは、そこで評判を呼んでナンバーワンの座を獲得。系列の更に高級な完全会員制クラブへとトントン拍子に移籍して、この店でもトップに立った。
ユウジはミキの上客である大企業の取締役に連れられてクラブに現れた。
彼もミキと同じく、年長者に可愛がられる気質をもっていて、その取締役はユウジを「将来有望なビジネスパーソン」としてミキに紹介した。
年齢を重ねた客の多い店において、常連たちとは異なり若さと自信に満ち溢れたユウジは、その恵まれた容姿も相まって店にたつ女性たちの目を惹いた。
「こんな凄いお店で美味しいお酒の味を覚えてしまったら同僚と飲みに行けなくなっちゃいそうですよ」
連れてきてくれた取引先の取締役の自尊心をくすぐるような台詞をそつなく口にする。
ある夜、取引先の社長たちをハイヤーまで見送ったユウジが「忘れ物をした」という口実でクラブに戻ってきた。ミキが「飲み足りない?」と冗談めかして声をかけると、彼は「君ともう少し話したいんだ」と小声で囁き、いたずらっぽく微笑んだ。
それが彼らの個人的な関係の始まりだった。
◆
連絡先を交換し、外で個人的に食事をした。
間もなくホテルで夜を共にするようになり、関係は更に深まっていった。
ミキは自分が元金融会社所属であることや、株をやっていることを隠さず、ユウジはミキが情報を株取引に使っているということをわかっていながら、それとなく自分が知る商社の動きを話して聞かせるようになった。
お陰で、二人が事後のベッドの上でする会話は、色気とは程遠い内容だった。
あるときユウジはミキを腕枕しながら言った。
「俺の資産を運用してみてよ。試しに500万くらい」
「500万?」
「そのくらいなら、溶かしても問題ないからさ。上手くいけばもっと増やしてもいい」
何度となく寝ている間柄とはいえ、いきなり他人に預けるにしては大きな額だ。
ミキは隣のユウジの顔を見やって彼の真意を見定めようと目を細める。
真剣な表情を見るにユウジはどうやら本気で言っているらしかった。
クスリと笑ってミキは彼の頬に触れる。
「本当に溶かしちゃってもいいの?」
「君は失敗なんてしない――だろ?」
覆いかぶさるようにしてキスをしながらそう囁いたユウジの提案にミキは乗ることにした。
インサイダーを疑われては困るから自分の金を動かすのには慎重にならざるを得なかったが、他人の金であれば、ユウジ自身から提供された情報を直接的に使わない限り、大きく動かしてもリスクは小さくて済む。
なるほど、他人の金を運用するのも楽しそうだ。
そうして二人は肉体関係のほかに、金銭的な関係も結んだのだった。
◆
そして、今に至る。
ミキは深く息を吐き出し、過去の記憶から意識を現在へと引き戻した。
彼女はその視線を真っ直ぐにカナミに向けた。
目が合ってカナミは一瞬、身を硬くした。だが、ミキの真摯な表情を見て次の言葉を待つ決心をする。
「彼に家庭があることを知っていながら、私は彼と肉体的、金銭的な関係を続けてきました。あなたに対しては言い訳のしようもありません」
改めて『愛人』の存在を噛み締めてカナミの顔がさっと曇った。ミキはそれを見逃さず、さらに続けた。
「私とユウジの間にあったのは――」