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暗闇で猫は鳴く

「行ってらっしゃい」


 夫である牧野ユウジを玄関まで送り、カナミは微笑んだ。

 ユウジは少し腰をかがめて、いつものようにカナミの唇に口づけ、「行ってきます」と囁く。

 普段通りのやりとりのあと、玄関のドアが閉じる手前でカナミは足元のゴミ袋を持って表へ出た。

 だが、カナミは35階の住民の為に用意されたダストステーションが見えたところで、その前に二人の女性が立っているのに気がついた。いつものように夜に捨てにくればよかったと、一瞬引き返したい衝動に駆られたが、カナミが足を止めるより先に彼女たちに「あら」と気付かれてしまう。踵を返す機会を失ったカナミは仕方なくそのまま歩いていくしかなかった。


「どうも、おはようございます」


 柔らかくウェーブする長めの髪を抑えて軽く頭を下げ、挨拶すると先客二人は険しい表情を浮かべて口を開いた。


「牧野さん、ニュース見ました? 例の」

「また見つかったんですって」


 普段あまりテレビを見ないカナミでも、眉をひそめた彼女たちが何のことを言っているのかはわかる。

 都内某所で、ここ数日、人為的に殺されたとみられる猫の死骸が連続して発見されているのだ。

 警察がこれについて本格的に捜査を始めたというニュースを、今朝ユウジと一緒にテレビで見た。

 カナミはゴミ袋をステーションの投入口に入れながら「気味が悪いですよね」と、無難に同調する。

 よく知らない隣人たちとわざわざ長話をしたいような話題ではなく、カナミは一礼するとその場を失礼することにした。


 40階建てのタワマンの35階。

 別格である最上階には及ばないが、ここも十分、上層階である。

 よく言われるようなタワマンカースト――職業やら所有資産やらを比べて表立って争うほどの浅ましさこそ無いものの、同じ階に済む住人は皆、牧野夫妻より年長である。

 お陰で同階住民との接触は近所付き合いというほどの濃さもないのに、いつでもどこか居心地の悪さを伴っていた。

 カナミは自宅の玄関ドアの内側に身を滑り込ませて、小さな溜息をついた。


    ◆


 ニュースの中心地、今日また猫の死骸が見つかった公園は都内の北側。マンションからは離れた場所にある。

 都心にしてはそこそこの広さで、休日には家族連れがわざわざ電車で遊びに来るような場所だ。そこに、今日は朝から三台のパトカーと白いワゴンが止まり、警察官が忙しなく行き来していた。

 若い警官が通りかかった人に「お時間ありますか」と声をかけては、いつもこの場所を通るのか、近くで不審な人物を見なかったか――といった通り一遍の質問を投げかけている。

 もう一人、一目見てベテランとわかる白髪交じりの壮年の刑事がパトカーのそばで地図の印を眺めていた。そこへ鑑識の男性が透明ビニールで二重にした黒いゴミ袋を持って近づいてきて、車のほうを指し示す。


「矢須さん。俺はコレ調べるから先に戻るよ。周辺捜索に人は残すから」


 矢須と呼ばれた中年の刑事は地図から顔を上げ、鑑識男性に向き直って袋を指さした。


「一応、もう一回確認させて」


 わかったと言って鑑識が差し出して開いた袋からは強烈な腐臭が漂ってくる。

 中身は既に部位すら明瞭でない血肉の混在となっていた。

 思わず涙が出そうなほど強烈な臭気を浴びて、「もういい」と言って袋を閉じてもらう。鑑識男性は袋の内容物を詳しく調べるため、一足先に引き上げていった。

 現場に残った刑事の矢須は苦々しげに顔を歪めて公園内へと視線を投げかけた。

 ここ一ヶ月ほど、この付近で猫の死骸が見つかる事案が相次いでいた。現場は大抵ここのような公園で、住宅街のゴミ捨て場を避けているのは、おそらく監視カメラがない場所を狙ってのことだと考えられている。

 しかも見つかるのはただの死骸ではない。捨てられるまでか、あるいは見つかるまでに時間がかかり腐敗が進んだものも少なくなかったが、どれも切り刻まれ首を落とされ、腹を裂かれた明らかに人為的で猟奇的な加害の痕跡を残したものだったのだ。それ故に警察が捜査に乗り出している。

 いっぽう、通りがかりの市民に情報を求めていた警官の田町は、学校行事の代休で遊びに来たという少年二人組に声をかけていた。


「いつもここで遊んでるの?」

「うん。学校かここで遊ぶ」


 少年たちはボールを抱えて早く遊びに行きたそうにそわそわとしているが、それでも田町が尋ねたことには答えてくれた。

 そこで田町は更に問いを重ねる。


「怪しい人とか、変な行動をしている人を見たことはないかな」

「あるよ」


 少年の一人がさらりと答えたので田町はにわかに背筋を伸ばす。ここまでの聞き込みの成果は芳しくなかったが、思わずメモを取る手に力が入る。


「何を見たのかな?」

「怪しい女の人が、ゴミ箱に黒い袋捨ててた。超怖かった」


 警官の背筋に悪寒が走る。これはもしかしたら重要な証言になるかもしれない。

 怖がらせないように笑顔を交えながら、田町は「それはいつのこと?」と少年に問いかけた。


「わかんない、先週より前。木曜か金曜、塾の帰りに見た」

「お前の塾、七時終わりだっけ」


 ここでもう一人の少年が口を挟んだお陰で目撃情報の範囲が少しだけ狭まった。

 先週より前の木曜か金曜、午後七時以降。

 手元に控えて、田町はやはりなるべく穏やかに質問を重ねていく。


「どんな女の人だったか覚えてる? 顔は見たかな?」

「見ないよ。殺されちゃうもん」


 唇を尖らせ、少年は首をすくめた。

 子供らしい軽い口調ではあったがあながち否定も出来ず、田町は「なるべく学校で遊ぶんだよ」と忠告をして彼らを行かせた。

 そこへ矢須がやってくる。


「どうだった、田町。なにか情報は」


 田町としては以前にも捜査で一緒になったことのある刑事が担当してくれるのはありがたく、「お疲れ様です」とまずは一礼して彼に答えた。


「ほとんど情報ありません。でも今の子供達が、先週より前の木曜か金曜の夜に怪しい女がゴミ箱に黒い袋を捨ててるのを見たそうです。ただ今回の死骸があったのはゴミ箱の外ですよね?」

「そりゃあ、ゴミ箱の中身は収集して捨てちまうから」


 矢須からの指摘に田町は「あっ」と気づいてゴミ箱を見た。

 公園内のゴミ箱は全部で三箇所。公園の管理をしている業者が園内から一旦回収し、それを近くの収集所へ出す流れになっていると聞いている。


「そうか。収集時に気付かなければそのまま焼却場行きになってるのか」


 田町が呟くと矢須がそれを肯定する。


「そして後に残るのはゴミ箱の外に置かれたヤツだけってこと。現状それだけで8匹分な」


 矢須の口調は淡々としていたが、田町はつい拳を握って「それにしても」と強く唸る。


「これだけ実害が出てるのに動物愛護管理法じゃ最大で懲役5年でしょう? 罰金払えばいいってもんでもないし。やってらんないですよ」


 特別愛好家というわけではなくても、犬猫は可愛いと思っている。

 何の罪もない小動物を8匹も殺しても、刑罰が最大でそれでは軽すぎると田町が訴えると矢須は溜息混じりに首を振った。そして重苦しくぼやく。


「それよりも俺は恐ろしいよ」

「何がです?」

「こいつが人間を手にかけるのは時間の問題だって気がしてな。もう完全にタガが外れてるぞ」


 その時、まるでその言葉に驚きでもしたかのように、公園の木に止まっていたらしいカラスが一斉に鳴き声をあげて飛び立った。

 田町は惨たらしい猫の死骸を見てしまったとき以上にゾッとして思わず身震いした。


    ◆


 暗闇に薄いカミソリの刃が冷たく光る。

 女の白く細い手首が、踊るようになまめかしく天に向かって伸ばされた。

 女は、その背後に複数の猫の死骸が転がっているのを全く気にもかけていない様子でフォトフレームを胸に抱き寄せる。


「ユウジ…あぁ…ユウジ…」


 熱く濡れた声で男の名を呼んで、女は手にしたカミソリの刃を自分の手首に滑らせる。そこにはおびただしい数のリストカット跡が刻まれていた。

 白い無数の古傷の線の上を音もなくスッと走った刃先を追いかけるように、やがてツウ…と血が浮き上がり、そして腕を伝って流れ始める。

 女はクスクスと嗤いながらカミソリの刃を放り出すと、自分の手首から伝い落ちる血を反対の指先で掬い取った。

 血の雫を乗せた指先をフォトフレームへと滑らせて、女は男の写真の上に真っ赤なハートマークを描いていく。


「ユウジ……愛してる……♡」


 ねっとりと甘い囁きは、まだ、誰の耳にも届いていない。

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