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論破って痛快だけど

作者: C-HAWK

テレビやインターネット上で、議論や討論の動画が目に付く。

一般的な意見の対立を扱うものから、政治家や有名人同士の対決を扱うものまで、様々だ。

その中には、議論や討論を標榜しつつ、論破をショーのように見せる番組がある。

ここでは、論破合戦をショーのように見せる番組を、便宜上、「論破ショー」と名付けておく。


ただ、論破ショーで行われる議論や討論は、概ね“単なる主張のぶつけ合い”に終始しているように思える。

相手を論破すること自体が目的とされ、参加者の主張の正否は元より、相手の意見について深く考えることが置き去りにされる。


この論破ショーは、相手を論破した瞬間を強調するが、これは、勝ち負けをはっきりさせて、論破を楽しませるためだと思う。

つまり、論破ショーは、論破自体を中心に据えた、議論や討論という様式で行う競技のように見える。


議論や討論という様式ではあるが、コミュニケーションを深めて、新しい事を見出すことは、二の次だ。

本当の意味の意見の交換や対話などは無い。


相手を論破することが、勝利とされるわけだから、出演者は、自分たちの主張を押し通すことを目的としている。

論破されたら負けなのだから、論破の過程としての意見交換や対話があるだけだ。


論破自体が問題で、道理も二の次なのだから、論争ですらない。


論破ショーは、単なるエンターテイメントに過ぎない。

如何にシリアスな話題を取り上げていたとしてもだ。


ただ口喧嘩を見せられているだけのように感じるのは私だけだろうか。


せっかく議論の場を設けているのに、新しい見地が得られない様子を見せられるのは、なんだか残念だ。

それが、カネを掛けて、著名人を呼んで、議論や討論として実施されていると思うと、ガッカリしてしまう。

日本の最高議会である国会ですら、論破ショーになっている局面が多い。

溜息しか出ないわ。


だからと言って、私みたいな矮小な存在が論破ショーを止めろと言っても止めるわけが無い。

つまり、これからも作られ続ける可能性は、残念ながら高いということだ。

見て楽しむ人が居るから当然だろう。




では、なぜ論破ショーなるエンターテイメントを見て楽しむ人たちが居るのだろうか。


私は、その背景に、現代の日本が持つ特有の問題が影響していると考えている。


日々、コスパやタイパに追われ、身の回りで利用するものは、定型化が進んでいる。

利用する側は、個人の都合を主張できず、相手が差し出す定型化されたものを、主張されるまま受け取り、自分をその型に合わせなければならない。

一言だけでも言いたいけれど、それも言えずに、型に嵌められた生活を強いられて、ストレスは鬱積する一方だ。


このようなストレスの受け皿が、論破ショーなのではないか。


つまり、論破ショーが人気を集めるのは、言いたいことも言えない世の中で、鬱積するストレスで潰されそうな毎日における“ささやかな気分転換”の機会だからかもしれない。

例えば、他国に比べ、日本人に猫好きが多いのは、忙しい毎日に追われて休みたいけど休めない中、のんびりまったり毛繕いして昼寝している猫に惹かれ、そんな猫で気分転換できるのと同じような……


ただし、論破ショーの魅力は、“ささやかな気分転換”だけではない。

見ている論破ショーで、自分のお気に入りの出演者が、自分が言葉にできなかった主張を上手に代弁して、自分と意見が合わない出演者を、論破したとなれば、承認欲求も満たされ、自己肯定感も高まり、ストレス発散の爽快感は半端ではないだろう。




しかし、その気分転換や爽快感にどっぷり嵌まっているだけでいいのだろうか。

総じて言うならば、ストレス発散の為に夢中になって論破ショーばかりを見ることも、論破の爽快感に惹かれて実生活でも“論破”に囚われるのも、ストレスに自分を見失って踊らされているにすぎないような気がする。


勿論、上手にストレス発散する事も大切だ。

しかし、同じくらい大切なことがあると思う。


端的に言えば、論破を目的にしない方が良い。

目的とすべきは、議論の参加者がお互いに、議論前に気づいていなかった新しい気付きを追求し合い、共に知識や理解を深めることである。

論破は、その目的達成の過程で、場合によっては有り得るに過ぎないものだ。


論破ショーは、エンターテイメントとして、その部分を切り抜いて、楽しめる映像が作られているが、実生活の中での議論においては忌避すべきことだと思う。

議論するからと呼ばれて行ったら、論破されただけだったとなれば、その相手は二度と議論のテーブルにつかないだろう。

その相手とは新しい気付きを追究しあって、ともに知識や理解を深めることができない。

始めから人間関係を壊すつもりで論破することもあるだろうが、それならば初めからクリエイティブであるべき議論の場に呼ぶ必要は無いだろう。


多様化の進むこれからの社会において重要になるのは、「議論は、論破が目的ではなく、新しい事を見出すことが目的であって、議論の参加者は協力者だ」と、論破というフレーズを聞く度に、強く意識したい。


願わくば、討論や議論と標榜せずに、「言い合い」「悪口合戦」「論破ショー」「自論紹介」と台本の無いように即してタイトルを謳って欲しいものだ。



気楽に読める小説も書いてますので、もし宜しければ、そちらもどうぞ~

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