ある営業マンの日々
※ この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
ある営業マンの苦悩・葛藤のお話です。
順次投稿予定です。
月曜日の朝、隣でうちわを煽ぐサラリーマンの香りを浴びる。悪態を吐くのを堪え、日経電子版をチェックする。
川崎駅でふと、男女共用車に乗り込む女性を目で追った。おそらく20台半ばだろうか。肩あたりでそろえたブラウンの髪に、隈のできた目元が印象的だ。隣に立ち、スマホに向かって何かを打ち込んでいる。
「ありえない」
しばらくして女性が呟いた。その一言にどきっとしてした。別段俺が何かをした訳ではないが、このご時世[痴漢冤罪]という言葉もある。この場で手を掴まれたら為す術もないだろう。
「まもなく品川〜。品川駅です。」
到着アナウンスが聞こえるや否や、彼女は電車を降り人混みに消えて行った。おじさん、パタパタと団扇を仰ぐのをやめてください。
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「朝礼を始めます。おはようございます!まず本日の挙績発表です。」
何事もなく終わって欲しかったが、2週間契約を預かれていないのはまずかったようだ。支社長から直々に意気込みを発表するよう催促された。
「今月は既存の顧客にお願いし、最低でも3名は紹介頂けるようにやっていきます。」
私の言葉に満足したのだろうか。いや、諦めているのだろう。それほど追求されなかったのが幸いだった。
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「チヨさん、お願いします。チヨさんが本当に守りたい方3名。いや、1名でいいのでご紹介ください。」
私の言葉を聞いたチヨさんは、虚な目で保険証券を眺めている。
「毎月2万も払っているのに、これ以上必要なの?保険なんてどうせ役に立たないのに、娘たちからもお金を巻き上げる気?」
「いえ、まずは現在ご加入中の保険が本当にピッタリなものか確認したいんです。今仰ったように、無駄なお金は払いたくありませんよね。無駄な支出を削って、本当に大事な人を守れる保険に入って欲しいんです。」
チヨさんはしばらく黙り込んだ。
私らのアプローチをどのように断ろうか、あしらい方を考えているに違いない。営業トーク通りに紹介候補を考えてくれてる人がどれだけいるだろう。
「娘に聞いてみるけど、期待はしないでちょうだい。」
保留、暗に断りの文句だ。すぐに連絡先が出てこない時点でこの商談は失敗だ。
「ありがとうございます!でしたら、私から連絡してお伝えしたいので、よければお名前と連絡先を頂いていいですか?」
手帳の白紙のページを開き、差し出した。パーカーのボールペンも添えて書いてもらうように催促する。
「悪いけどそれは娘に許可取らないと無理よ。」
そうですよね、失礼しましたと、道具を回収する。チヨさんは確認したら2、3日で可否の連絡をくれると言った。本当に連絡をくれるかを疑ってしまう。
時刻は15時を回っていた。これ以上居座れば老人の長話に巻き込まれる。次のアポを建前に断りを入れ、退出した。
「わざわざ来てもらって悪いわね、いつもありがとうね。」
去り際にこのような言葉をよく聞く。果たして本当に思っている人はどれくらいいるのだろうか。
俺だったら来て欲しくない。パーソナルエリアに土足で踏み込み、意味が分からない営業トークを「皆そう思ってますよ」、と一般化し顧客に強いる。
「いえいえ、お元気で安心しました。また顔を見に来ますので、よろしくお願いします。」
いよいよマンションを出る。視界には夕日が差し込み、眩しさに目を凝らした。丹沢山を目に収め、住宅街を進む。
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「お〜!紹介依頼のアクション頑張ったね、お疲れ様!あとは紹介もらった人と連絡取れるように追っていこう!」
まずは褒める。いい気にさせたところで切り込む。これは営業なら誰でもやる事だろうが、オーバーだと途端に嘘臭くなる。
「はい、ありがとうございます。今日の報告は以上です。」
「了解しました!ところで、今週のアポイントしっかり埋まってる?無かったらしっかりTELアポして埋めていってね!よろしく〜!」
承知しました、お疲れ様です。電話を切り、手帳を確認する。既存顧客3件に新規の顧客1件。
求められる数には達していない。ズキズキと痛むこめかみを抑え、バファリンを水で流し込む。手帳を開き、社用携帯の連絡先を開いた。