お母様の厳命(リーゼロッテ視点)
よろしくお願いします。
──ああ、手を伸ばしても届かない。いえ、届いてはいけないのよ……。
キラキラと光を反射するシャンデリアの下、私には一際輝いて見えた。それは豪奢なドレスや重たそうな宝石を身に着けた貴婦人ではなく、質のいいタキシードを纏った殿方でもない。テカテカと光る私の──肉。
比喩でなく、本物の肉だ。こんがりと焼けてシャンデリアの光に表面の脂が煌めき、なんて美味しそうなのか。だというのに、指を咥えて誰かの口に入るのを見ることしかできないのが口惜しい。
ああ、肉。私の肉。これだけを楽しみに、このつまらない夜会にも参加しているというのに。
◇
話は一週間ほど前に遡る。家族の団欒の場である居間。お母様と二人、昼下がりのティータイムを楽しんでいて、お母様の呆れたような一言に、私は固まった。
「……リーゼロッテ。あなた、太ったわね……?」
体重を測ったわけでもないのに、どうしてお母様にわかるのか。思い当たる節が大いにあり過ぎる私は、視線を泳がせる。
「ふふふ。お母様、何のことでしょう?」
「とぼけても無駄よ。そうやって目を逸らすのが証拠。自分でもわかっているんでしょう?」
お母様……。わかっていても人から指摘されたくないことだってある。無言で笑みを浮かべる私に、お母様はそれはそれは大きなため息をついた。
「本当にもう。あなたは自分のことをわかっているの? このカーライル伯爵家の娘で、もう十七歳なのよ? 食べ物でなく、もっと興味を持つべきことがあるでしょうに」
「わかってますよ」
飄々と答えると、お母様は顔を顰めた。
「わかってないわね? それに前回の夜会はどういうこと? 社交界にデビューして初めての夜会で、どういう意味を持っているか、あれほど言い聞かせたのに。あなたときたら、食べるばかりで男性と歓談もしなかったって、クリストファーから聞いたわよ」
「また、そんな。お兄様が大袈裟に言っているだけです。歓談はしましたよ」
ただし、食べ物に夢中になっている間に相手は姿を消していたけれど。決して私が追い払ったわけではない。それに、相手よりもご馳走の方が魅力的なのが悪いと思う。
ちなみに、クリストファーというのは、私の三歳上の兄だ。夜会にはパートナーと共に出席するのが当たり前なのだが、婚約者のいない私のパートナーとなると、消去法で兄になる。無関係な人と出席したらどんな噂を立てられるかわかったものじゃない。
そもそも夜会というのは、社交でもあるけれど、出逢いの場でもある。政略結婚が主流だとはいえ、できれば相手の人となりを知りたいと思うのは当たり前だろう。そこで未婚男性が未婚女性を見初めて、相手の両親に結婚の打診をすることも少なくない。
お母様には口を酸っぱくして言われていたから、私は私なりに頑張ったつもりだ。
すると、みるみるうちにお母様の眦が吊り上がった。お母様は押し殺すような低い声で、私に言い聞かせるようにゆっくりとした口調で言う。
「……あなたが興味ありません、とでも言うような冷たい態度だったから、相手が離れて行ったとクリストファーは言っていたわ。せっかくの美人なのにどうしてなの。整っているからこそ、表情がないと冷たく見えるのよ。だから私は言ったでしょう? 女は愛嬌。笑顔でいなさいって」
そう。私はお母様そっくりで、美人の部類に入るそうだ。腰まで伸ばした絹糸のように柔らかいプラチナブランドの髪に、冴え冴えとした冬の澄み渡った空のように青い瞳。だけど、私の容姿を褒めるのは主にお父様なので、身内の欲目ではないかと疑っている。
……というより、お母様そっくりな私に、お母様本人が美人と言うことが微妙なのだけど。どんな反応をするのが正解なのだろう。
固まっていると、お母様は更に眦を吊り上げた。
やばい。これは本気で怒っている。そう理解して慌てて口を開こうとしたが遅かった。
「そう……。わかってもらえないなら仕方ないわね。次の夜会に着て行くあなたのドレスは新調しないわ。前に採寸して余分に作っていたドレスを着て行きなさい」
お母様が冷たく放った言葉に、私の思考が一瞬止まった。
前回作ったドレスは、コルセットで締めるからと腰をかなり絞っているし、お母様譲りの髪や瞳の色を引き立たせるために落ち着いたデザインになっている。つまり、大人っぽく見えるようにフリルが少なく、体型がわかりやすいのだ。
理解しきる前に私は慌てて声を上げた。
「お母様! それは……!」
「何と言われても変わらないから」
お母様はにっこりと笑ってぴしゃりと告げた。その笑顔のこめかみには青筋が浮いている。あわあわと口を開閉させる私に、お母様は続ける。
「わかったなら、一週間後の夜会に向けて痩せなさい。ああ、そうだわ。夜会までの一週間は、あなたが健康的に痩せるための食事のメニューにしてもらいましょうね。もちろん、家族みんな同じメニューよ。あなた一人だけ辛い思いはさせないから安心してね」
あん、しん……?
それは違う。お母様はきっと、私がお兄様の食事を横取りしないようにと同じメニューにすることにしたのだ。
くうっ。私の考えを完全に先回りしている。さすがはお母様……。ここまでくると、お母様は絶対に考えを変えたりしない。しかも、これで更に夜会で失敗しようものならもっと恐ろしい罰を与えられそうで身震いがした。私はこうしてお母様の言葉を泣く泣く承諾するしかなかった。
◇
ああ、あまりにも切なくて、つい回想に入ってしまった。あの時に戻ってやり直したい。そうすればこんな思いをしなくて済んだのに。
夜会に出席中の今の私は、お母様に言われた通り、以前のサイズの青いドレスを着ている。長袖で開いた胸元にリボンをあしらい、そこからまた腰まで体の線に沿って絞ると、そこからはふんわりと裾を広げていて多少は体型を隠せるようになっている。だけど、腕がきつい。それなのに、胸のあたりはピッタリってどういうことなのか。せめて胸がきつくなって欲しかった……。
そして一番の問題は、コルセットを締めた腰だ。案の定腰回りに肉がついてしまったため、いつも以上に侍女が気をきかせてコルセットを数人がかりで締めてくれた。おかげでドレスは入ったけれど、食べ物の入る余地がない。
この一週間、健康的な食事をというお母様のお達し通り、野菜ばかり食べてきた。昼下がりのティータイムも中止になり、私は限界だった。
視線はずっと肉を追いかける。そして肉は、楽しそうに女性と談笑する男性の口へと……。
──どうしてそっちへ行ってしまうの? 私の方がよっぽどあなたを求めているのに。
手に入らないとわかっていても、ジリジリと身を焼かれるほどの焦燥に駆られる。ついフラフラと足取りまでそちらへ行きそうになったところでお兄様に腕を取られた。
「……いい加減にしないか。お前のせいで俺まで食事を減らされているんだ……!」
質素な食事が続いたお兄様の声は苛立っていた。だけど、それは私も同じこと。
「だって、家では食べられないからこの時を待っていたのよ? なのに、どうして……」
「どうしてもこうしてもないだろう。お前がちゃんと母上の話を聞かないからこういうことになるんだ。諦めて適当な男を見繕え」
「お兄様、ひどい」
「どっちがだ! お前の食い意地が張っているから、俺だけでなく、父上まで被害を受ける羽目になったんだ」
「え? お母様は?」
お母様も同じく食事を減らしていたはず。私が問うと、お兄様は苦虫を噛み潰したように顔を顰めた。
「……母上はお前と一緒に甘い物を食べていたせいで太ったと嘆いていた。多分、自分だけでは痩せられそうにないから、お前に便乗したんだ」
「何それ! ずるい!」
くそう。お母様に嵌められた。嘆いたところで我が家最強のお母様には敵わない。力なくトボトボとお兄様から離れてしばらく経った時だった。
「お一人ですか?」
凛としたその声に私は振り向いた。
読んでいただき、ありがとうございました。