俺の0と1
少しずつ感覚が戻って来る。足を進めても地面を踏む感覚すらなかったのに、汗が耳に入って気持ち悪いと感じる。
「珍しく落ち込んでるの?」
天音さんが嬉しそうに聞いてくる。なんで嬉しそうなんだよ。ムカつく。
「珍しくって何だよ。俺のことなんかろくに知らないくせに」
「攻撃的だなあ。一緒にホテル・ゴールデンリバーに行った仲じゃない」
「俺なーんも覚えてないもん。俺は天音さんのこと何も知らない」
「じゃあ知ってよ。今からゴールデンリバー行く?」
「行かねえよ。前にも言っただろ、俺好きな子がいるんだよ」
「前にも言ったでしょ、彼女じゃないならいいじゃない」
「彼女じゃないけど……」
……俺の彼女じゃないどころか、比嘉は他の男の彼女になってしまった。いくら俺が比嘉を好きでも、もうどうしようもない……。
「まさか、好きな子とじゃなきゃ嫌だとか言うんじゃないでしょうね」
「嫌だよ」
嫌だけど……すっげー虚しい。俺、誰のためにこんなキレイなお姉さんからのお誘いを断ってんだろ。比嘉は1ミリたりとも喜ばないのに。比嘉じゃないと嫌だなんて、ただの俺のクソダサい意地でしかない。
「ねえ、ごはん食べに行こうよ。ファミレスくらいならおごるよ」
笑顔の天音さんについて行く。頭空っぽでついて行くだけってのも楽だな。比嘉とだとこうはいかない。俺が引っ張ってやらないと、比嘉は何もできない。
……何考えてんだ、俺。我ながら比嘉比嘉しつこい。ついさっき、比嘉の恋が成就する瞬間をこの目で見たのに。比嘉……。
バシッとわざと音を立てるように目の前にメニューが置かれる。
「何食べる?」
「あー……ミートドリア」
「おいしいよね。ドリアだけだと少なくない? 男の子がそれで足りるの?」
「俺あんまり食わないから」
「統基って見た目の割にガッツかないのね」
「天音さんには俺がどう見えてんだ」
ふふっと天音さんが笑う。へこみ切ってた心にちょっと潤いが与えられたように感じる。初めて天音さんを見た時を思い出す。
比嘉に好きな男がいると知って、ショックの反動みたいに勢いだけでひろしの引き戸を引いたら天音さんが笑顔で迎えてくれた。あの時は天音さんの笑顔にだいぶ救われて、バイトがんばろうって切り替えられた。
「天音さんって学生?」
「そうよ。統基と同じ学生よ。大学院生」
「大学院?」
「大学の更に上の学歴があるのだよ」
「へえー。ハイパーエリートじゃん」
「何か勘違いされてる気がする」
「日本最底辺の高校に通ってる俺には知らなくていい世界だから」
「知ってて損はないよ。生涯年収がかなり変わってくるんだから」
「んなこと考えて大学行ってんのかよ」
ミートドリアとマルゲリータとサラダがやって来た。このファミレスでピザ頼んだことなかったけど、サイズちっせえ。
「天音さんこそ足りるの? それ」
「私ダイエット中なんだよね」
「ダイエット?」
「統基には無縁そうよねー」
「俺肉付かねえからなあ」
「いいなー」
「天音さんもダイエットしなきゃなんないような肉はねえだろ」
「服を着てたら見えない所にこそお肉は付きやすいのよ、覚えておいて」
「もう忘れた。見えない所なら肉付いたって気にしなくて良くねえ?」
「見えない所を見せる時に気になるの」
「何? なぞなぞ?」
「ふふっ。ピュアだなあ」
また笑ってる。バイト中だけでなく、普段からよく笑うんだな、天音さんって。
「ひろしってさ、店長の名前?」
「そうよ。田中ひろし」
「百万人くらい同姓同名がいそうな名前だよな」
「漢字だとそうでもないんだよ」
「博とかじゃねえの?」
「これこれ」
天音さんがスマホを取り出して打ち込み、画面を見せてくる。「田中緋露紫」とある。
「すっげー当て字」
「ね、一気に同姓同名が減るでしょ」
「あはは! マジだ。漢字まで同じ人はいないかもしんない」
「やったあー、やっと笑った」
嬉しそうに笑う天音さんに驚いて顔を見る。
「やっと目見てくれた。いつも統基って目を見て話すのに、今日はずっと下向いてるんだもん」
「あ……そう?」
「うん。分かりやすくへこんでるなあって」
「う……」
あー、じゃあ……俺がへこんでるのが分かったから、わざわざバイトサボって励まそうとしてくれてたのか……。日野さんに迷惑かけることも考えろよ、おねーさん。
「ありがと」
「どういたしましてー」
このファミレスは安い分量が少なくて俺にはちょうどいい。ちょうど腹ポンポンくらいで食い終わる。
店を出て、天音さんが歩き出すから何も考えず俺も歩く。
「テストってもう終わったの?」
「うん、昨日終わった」
「どうだったの?」
「楽勝だよね」
「カッコいいー。統基って何か弱点ないの?」
「弱点? ねえな」
天音さんは一歩前に出て適当に答えた俺の顔をのぞき込むと、おもむろに脇をくすぐってくる。ムズムズして笑いを我慢できない。
「ぶわっはははは! マジでやめろよ!」
「弱点発見!」
発見されてしまったか。俺は自分の弱みだけをさらして終わったりなどしない!
天音さんのタンクトップの脇の下をくすぐってみる。
「きゃはははは!」
思いのほか甲高い声で身をよじる。
「天音さんも弱いんじゃねーかよ!」
「バレちゃったかー」
はー、と天音さんが息をつく。
「なんか汗かいちゃった」
「いらんことするからだよ」
「だって、弱点ないとか言うからー。あ、そうそう、テストの話だったよね。テストも終わって後は夏休みを待つだけかあ」
「そうだな。高校生活初の夏休みだよ」
何っの楽しみもないけどな。
「大学生になったらもう大人扱いだから、今の内に子供を満喫しなさいねー」
「いや、大人だとは言わんけど高校生も子供ではないだろ」
「子供でしょ。すぐにへこむし」
「高校生ってか俺のこと言ってんのかよ。俺は完全に子供じゃねえよ」
「子供じゃないなら入ろうよ」
「え?」
天音さんが指差す先に、ホテル・ゴールデンリバーの看板があった。いつの間に天神森に来てたんだ。
「え、いや、それとこれとは話が違うだろ!」
「入るのが怖いの? やっぱり子供ね」
「だから、子供だからどうこうって話じゃねーだろっての!」
「初めて入る訳でもないのに意気地のない。1回も2回も同じでしょ。これだからお子ちゃまはー」
ムカつく。俺のこと何も知らねえくせに高校生ってだけで子供扱いしやがって。
そうだ、全然覚えてないけど俺、ここに1回入ってるんだった。
「誰がお子ちゃまじゃい。入れるわ、これくらい」
先陣切って自動ドアから中に入る。目に入る物皆ゴールドだ。
天音さんがカラフルなパネルが並ぶ前で何かしているが俺はキョロキョロと周りを見回す。
やっぱり、全く見覚えがない。俺マジでここ入ったのかな? 出た記憶はバッチリあるから入ったはずではあるんだけど、こうもキレイサッパリ忘れるもんかね。酒って怖えーな。そりゃ未成年は飲んじゃダメなはずだわ。
「統基、エレベーター来たよ」
ソワソワと落ち着きなく辺りを見ながらうろついていたら、天音さんに声をかけられる。
えー、エレベーターか……どうしよう、帰りたい。
つい入っちゃったけど、めっちゃ帰りたい。でも、帰りたいなんて言ったらすげー子供扱いされてバカにされそう。それは嫌だ。
「何してるのよー」
天音さんに背中を押され、エレベーターに押し込まれる。エレベーターの中にはサービスタイムだの朝食サービスだの貸し出しサービスだの様々なサービスのポスターが貼られている。うわあ、これがラブホのエレベーターか。
305と表示され点滅している部屋のドアを開けて天音さんが入って行く。後をついて行くと、
「統基、そこで靴脱いで」
と注意されてしまった。これが玄関なの? 玄関と部屋の境目が分かんねえよ。エアコンがよく効いてて涼しい。
前に気付いたら寝てた部屋とはゴールデンなリバーの位置が違う。部屋によって変わるんだろうか。どうしよう、帰りたい。
この部屋はベッドの形も違う。前は丸いベッドだったけど、天音さんが腰かけたベッドは四角い普通のベッドだ。
とりあえず隣に座るも、気まずい。
「あー、今日はいい天気だよなあ」
「どうしてここで天気の話なのよ」
クスクスと天音さんが笑う。いやー、だって、この状況で何を話せばいいのか……。
「意外だなあ。統基ならもっと男らしく押し倒すかと思った」
「……別に、押し倒すのが男らしいって訳じゃないだろ」
「本当にまるでガッツかないわね。興味津々のお年頃でしょうに」
「俺、そんなガキじゃないんで」
内心は帰りたくて動揺しまくりだけど、平静を装って答える。
「いいように言ってるけど、意気地なしなだけよね」
「誰が意気地なしだ、コラ」
「だってー、ここまで来といて帰りたそうな顔するんだもん」
「う……あ、天音さんこそ、こんなガキこんなとこに連れ込んで後悔してんじゃねえの? 今ならまだ帰れるよ」
「後悔なんてしてないわよ」
さすがは大人の余裕。天音さんはニッコリ笑って俺を見ている。
俺をわざわざこんな所に連れてきたってことは、俺に気があるんだろうか? こんな大人のキレイなお姉さんが? ちょっと考えられねえよな。
「何かの罠? 手ぇ出したら怖いお兄さんが出てくる、みたいな」
「統基にそんな罠仕掛けたってお金持ってないでしょ。そういう罠はお金を取るための罠だから」
「たしかに」
金目当てじゃないとしたら……もしかして、俺目当て?
比嘉に全く相手にされず、他の男を追い続けられた俺だってのに。
……比嘉……比嘉はもう、あのプリンスイケメンの彼女になってしまった。この顔の俺にはもう手に入らない。俺の顔じゃダメなんだ。
「どうしたの?」
「……ねえ……天音さんなら、俺のこと好きになれる?」
「え?」
「好きになってよ、俺の顔」
「顔? 好きよ、統基の顔。いつもの生意気そうな顔も、今の捨て犬みたいな顔も」
俺今、捨て犬みたいな顔してんのか。捨て犬みたいなもんか。俺は捨てられた。選ばれたかったロシアンブルーは、他の男を選んだんだから。
「ほんと、男らしくないわね。男ならウジウジしてないで目の前に女がいるんだから強引にベッドに押し倒すくらいの度胸はないの? 統基って見かけ倒しの女の腐ったような男だったのね。男の風上にも置けない、女々しい男」
「黙って聞いてりゃ言いたい放題だな、おねーさん」
「統基には、男のプライドってものがないの?」
……よくもこの俺の男のプライドを大いに傷付けてくれたな。
天音さんの肩を押すと、軽くベッドを揺らしてあっさりと横たわる。天音さんのウェーブがかった長い髪がシーツに広がる。
強引にも何も無抵抗じゃねえか。いくら俺が男にしては小柄で細くたって女の力で適う訳がねーんだよ。デカい口叩いてんじゃねーよ。
そのまま天音さんに馬乗りになって組敷くと、頭の中のごちゃごちゃしてたものがなくなって、ハッとした。
ヤバい、何この大人の女を力でねじ伏せた感。これヤバい、俺ヤバい。つい調子に乗りすぎた。
「俺帰る」
慌ててベッドを下りようとしたら、天音さんに腕をつかまれた。
「据え膳食わぬは男の恥って言葉、知ってる?」
「……据え膳が何かは知らないけど、なんとなく意味は知ってる」
「女に恥かかさないでよ。前にここに来た時の統基は男らしくてカッコ良かったのにガッカリだわ」
全く記憶にない前の俺と比べて今の俺に勝手にガッカリしてんじゃない。俺は過去の俺にだって絶対に負けねえ。
そうか、前は酔ってたせいか躊躇なかったのか。そりゃそうだ、俺は彼女もいないし、ためらう理由なんかない。
0と1とは大違い。でも、1回やってんなら2回も10回も100回も同じか。
こんだけ散々煽られたんじゃあ、しゃーねえ。俺も腹をくくって、この俺に好き勝手言ったことを後悔させてやる。
上半身を上げていた態勢から、天音さんの顔の横に手をついて目を見る。
「ねえ、天音さん。俺前のこと何も覚えてないんだよ。何も分かんないの。天音さんが教えてよ」
「え? 教えるって?」
「全部口でいちいち細かく指示出して。俺、天音さんが教えてくれたことだけするから」
「え……それは……」
「天音さんが言った通り、押し倒したよ。ねえ、次はどうしたらいい?」
天音さんが目をそらす。女の天音さんはリードされてきた側だろうから、自分がリードしなきゃならないとなったらそりゃ恥ずかしいだろ。
大人だからってこの俺を思い通りに動かせると思ったら大間違いだ。
何も言えないならより都合がいい。俺は何もせず、ただ恥ずかしがる天音さんを堪能させてもらう。