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俺の大人の世界デビュー

 放課後になり、充里、曽羽、そして比嘉と4人で正門を出る。


「なんで急にバイトなんか始めたんだよー? 統基、バイトしたいとか言ってなかったじゃん」

「したいとは思ってたんだよ。なんだ、まあ、タイミングだよ。そこにバイト募集のポスターがあったからだよ」

「バイトかあ、入谷、大人の世界に足を突っ込むのね」

「大人の世界? んな大げさな。バイトしてるヤツなんかゴロゴロいるじゃん」


 一応校則ではバイトするなら許可を取れ、とはなってるけど、みんな許可なんか取らずにバイトしてるし普通にバイト先の話を先生としたりもする。


「じゃーなー」

「初出勤がんばれよー」

「おう、サンキュー」


 今日も今日とてストーカーしに行くんだろうか。家は下山手なのに比嘉が俺と同じ聖天坂へ続く道を選ぶ。


「比嘉、どっか行くの?」

「コンビニ」

「わざわざ聖天坂のコンビニ?」

「え? なんで聖天坂だと思ったの?」

「あ。俺が聖天坂に行くから、こっち方面だと聖天坂かなーって」


 揺さぶりをかけるつもりが、俺が揺さぶられてどーする。あんま下手に突っ込まんようにしとこ。俺がストーカーしてたことがバレる。


 話題を変えよう。


「比嘉さー、好きな男とかいる?」


 変えられてねえな。だって俺、頭の中比嘉とあの男のことでいっぱいなんだもん。


「好きな男? 特に思いつかないわね」

「へー」


 嘘つけ。コイツ、こんな顔色ひとつ変えずに嘘つくとか意外と油断ならんな。


「じゃあ、バイト先こっちだから。また明日」

「ええ、また明日」


 バイバイ、と手を振って比嘉と別れ、創作居酒屋ひろしを目指す。

 好きな男をただ見てるだけで満足できるなんて、変なヤツだよ、全く。


 あー、緊張してきた。昨日は勢いだけで店に入ってったから、今更ながらこの引き戸を開けるのに緊張する。

 ウジウジしてるのは性に合わん。よし、開ける! この引き戸に右手を掛けて、右に引く!


「おはよう、入谷くん」

「おはよう?」


 引き戸を開けると、カウンターから店長がにこやかに迎え入れてくれる。


「ああ、時間に関わらず出勤したらおはようなんだよ」

「あ、そうなんすか。おはようございます」

「入谷くんのエプロン用意してるから、着けて下りてきてくれる? 上に橋本(はしもと)さんって人がいるから、分からなかったら聞いてね」

「分かりました」


 朝はおはよう、昼はこんにちは、夜はこんばんは、って常識が大人の世界では通じないのか。そんな非常識な世界で俺やっていけるかな。


 階段を上がると、事務所のドアが閉まってる。今度はためらいなく開ける。

 靴を脱いで事務所に入り、ロッカーの並ぶ右手を見ると髪の長い女の人がこちらに背を向けてエプロンのひもを結んでいる。


「おはようございます」

「あ! おはよう」


 昨日の人だ。相変わらずかわいい笑顔を見せる。


「このロッカー使ってって店長が言ってたよ」

「あ、そっすか」


 緊張気味の俺に反して、この人はすごくフレンドリーに隣のロッカーを指差す。


「入谷くんって言うんでしょ?」

「あ、はい。入谷統基です。よろしくお願いします」

「橋本天音(あまね)です。よろしくね」


 ニコッと笑うと、橋本さんって結構童顔だ。大人相手に緊張してたのがほぐれて俺も笑顔を返す。


 ロッカーの中にはクリーニング済みって感じでビニールに入った青いエプロンがある。ビニールから出して適当に着けてみるけど、これ絶対間違っとるな。ぐっちゃぐちゃだわ。


「ふふっ。エプロン着け慣れてないのね」

「あ、すんません」


 橋本さんが俺の背後に回って何かしてくれている。エプロンが真っ直ぐになった。そのままひもを結んでくれる。


 橋本さんに続いて階段を下りる。昨日は店内には入ってないから、改めて見回してみる。

 10人は座れそうなカウンターと、座敷席。座敷には長いテーブルが3つある。ひとつのテーブルに6人くらいは座れそうかな。最大でも30人くらいしか入れなさそうな小さい店だ。


「入谷くん、樽運んでくれるー?」

「はい!」


 おお、初仕事だ! って、樽?


 カウンターに入り奥の厨房に行くと、店長が積み重ねられた樽というよりもデカい缶を指差している。なるほど、中身はビールらしい。メーカーの名前が書いている。わーお。重そう。


「橋本さんの所までこの樽を運んでくれるかな」

「分かりました」


 ひとつを持ち上げて、橋本さんの足元へと置く。

 おっも。何キロあるんだよ、これ。


「ここでいいっすか?」

「ありがとう。さすが男の子、力あるのね」

「え? いやー、ははっ」


 大人の人から褒められて、リアクションに困る。

 まあ、この重さじゃ橋本さんには運べねえかもな。ほっせーし力なさそう。俺もガリガリだけど、ゆーて俺は男だから。


「橋本さん、ひとしきり教えてあげて」

「分かりました。まずテーブル席はこっちから1番テーブル、2番テーブルって呼んでて、カウンターはこっちから1番カウンター、2番カウンターね」

「はい」


 バイト開始時間の5時からオープンの6時までは開店準備だ。準備を進めつつ接客や酒類の作り方などを教わる。


 ……こんなちっせー店なのに、覚えることがたくさんある……。日本の最底辺の高校に通ってる俺にこんないっぺんに覚えられねえよ。


「うわ、もうすぐ6時だ。どうしよ」


 時計を見て、心の声が思わず漏れてしまった。橋本さんがふふっと笑う。


「平日はヒマだからそんなに緊張しなくても大丈夫だよ。今日は私が接客するのを入谷くんに見てもらってって店長から言われてるから、安心して」

「あ、そうなんすか。見てるだけならできそう」

「油断してたらいきなり注文取らせるからね」

「えっ、いきなりはやめてもらっていいっすか」


 あはは! と橋本さんが笑っている。ほんとよく笑うし、優しくて頼れる先輩だ。

 6時になるとすぐ、おっさんがひとりで入って来た。


「いらっしゃいませー」

「あ、い、いらっしゃいませ!」

「すごーい。第一声からそんな大きな声出るなんて、かっこいい」

「え?」


 テンパってデカい声が出ちゃっただけなんだけど、褒められちゃったよ。

 橋本さんがお通しとおしぼりを持って行く。その後ろをついて行く。


「お! 新しいバイトさん?」

「入谷統基です。よろしくお願いします」

「統基くんねー。俺田島(たじま)ー。かっこいい子が入って嬉しいだろ、天音ちゃん」

「そうですねー。若いんですよ、15歳ですって」


 名前なんか言われても覚えらんねえよ。俺今いっぱいいっぱいなんだから。とりあえず笑顔の橋本さんの後ろで作り笑顔を浮かべる。


 どれくらい時間が経っただろうか。店内には3組の客がいる。店の空気にはだいぶ慣れた。客も店員も思ってたよりフレンドリーだ。


「統基くん、ビール入れてよ。統基くんのビールが飲みたいー」

「えー、俺まだ入れられねえんですけど」


 この酔っ払いが。50代くらいの夫婦の奥さんが無茶ぶりしやがる。


「やってみなよ、入谷くんだったらできるかも」

「えー、マジかよ。あ、ですかよ。あ」


 思わず出たため口をフォローしようとして余計におかしくなる。ダメだ、俺まず敬語が怪しい。

 橋本さんが笑い飛ばしてくれて、周りの客たちも笑った。笑いになったからセーフか。


 ビールの入れ方は教えてもらった。ジョッキの7分目くらいまでレバーを前に倒してビールを入れて、レバーを後ろに倒して泡を……あ。


「泡入んないんですけど、いっすか?」

「初日だからしょうがないねえ。いいよ、それちょうだい」

「統基くん! こっちもビールー」

「え。はーい、ただいまー」


 さっきは泡が入らなかったから、早めにビールを注ぐレバーを戻す。で、泡を入れる。


「半分泡なんすけど、いっすか」

「それはダメだわ!」

「ちょっと待ったら泡が消えるから、足したらいいよ」

「そっすか」

「こっちもビールちょうだーい」


 ビール入れるのって超難しい。なのに、3杯目の注文が入る。俺ビール係じゃん。


「おお! これどうっすか? 橋本さん!」

「すごい! 完璧だよ、入谷くん!」

「やったあー」


 やっと成功して、1番テーブルに座る田島だかなんだか言ってたおっさんの所に持って行く。


「おおー、うまいじゃん。店長! イケメンだしいい子入ったねえ」

「ごひいきにお願いしますー」


 橋本さんの後ろをついて回っていると、引き戸が開いた。背の高いメガネをかけた黒髪のイケメンが入って来る。


「おはようございます」


 ……おはよう?


「おはよう」

「おはようございまーす」


 店長と橋本さんの返事に、あ、バイトさんか、と理解した。


「おはようございます」


 遅れて俺もあいさつを返す。


「もう9時45分か。入谷くん、まかない食べて上がっていいよ」

「まかない?」

「晩ごはん。おなかすいたでしょ」

「メシ食わせてくれるんすか?!」

「あはは! うん、良かったら食って行って」


 バイトに来てメシが食えるとは。カウンターの端っこに置かれた丼と水の前に座り、いただきまーす、と手を合わせる。

 おお! めっちゃうまい! 魚になんかタレがよく絡んでて超うまい!


 ガツガツ食ってるのを店長が嬉しそうに見ている。


「そうだ、土曜日の夜って何か予定ある? 空いてるようなら入谷くんの歓迎会をやりたいなと思って」

「メシ食わしてくれた上に歓迎してくれるんすか。ありがとうございます! 夜なら大丈夫っす」

「良かった。そうだ、事務所のテーブルの上にノートがあるから自己紹介書いておいてくれる? バイトさんたちの交流ノートなんだ。みんな好き勝手書いてるから」

「分かりました」


 ニッコリ笑うと店長が厨房の奥へと戻って行く。穏やかな人だなー。


「いい食べっぷりだねえ。あんたいくつ?」

「15っす」

「そりゃたくさん食べないとねえ」

「はい」


 隣に座るばあちゃんとしゃべりつつ、あっという間に丼を平らげる。超うまかった。マジうまかった。


 同じエプロンを着けたイケメンがやって来る。店長が出てきて、イケメンを手招いた。


「新しいバイトさん紹介するよ。入谷くん」

「入谷統基です。よろしくお願いします」

工藤(くどう)健一(けんいち)です。よろしくお願いします」


 健一か。惜しいな。何がとは言わんが。

 店長と橋本さんはすっげーにこやかなのに、この工藤健一はニコリともせず無表情だ。こんなんで接客できるんかね?


 工藤さんがホールに出ると女性客から黄色い歓声が上がる。


「待ってたのよ、健一くん!」

「お待たせしましたー! 今日のオススメはー、豚の角煮だそうです! みなさん、もう食べましたかー?」

「まーだー」

「じゃあ! 頼んでいいですか?!」

「いいよー」

「あーりがとうございまーす!」


 びっくりした。客前に出たら急にテンション上がって工藤さんが芸人みたいな動きとしゃべりになった。

 すげえ。オンオフの切り替えがすげえ。これが大人の世界か。

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