あたいが惚れた男
血で血を洗う悪の巣窟。あたいがいた頃の桜三中はそう呼ばれていた。
真面目に授業受けるヤツなんかいねえ。校区内に住んでいても、まともな親は役所で手続きして違う中学校に通わせる。
桜三中に入学してくるヤツなんか、悪の巣窟でカシラ取ってやるって気合い入れてる不良ばっかだ。そんな中で、あたいは女だてらにカシラ張ってた。
「んだよ、あいつ。女のくせにズボン履いてやがんぜ」
「どれ?」
「あのちっせー、ハーフみてーな顔してるヤツ」
放課後、門の前で仲間とダベってたらナツコが指差した。すげー背の低いガリガリの1年生がデカい男子と門を出てきた。フワフワと柔らかそうな髪の毛が風に揺れて、大きな目と白い肌が印象的だった。
「もー男いんのかよ。淫乱1年生に桜三中の洗礼を受けさせてやんよ」
「あんな良い子ちゃんが何の間違いで桜三中に来ちゃったんだか」
「やったれ、ナツコー」
暇を持て余した女共が男連れのかわいいメスガキに苛立ってのことだった。連れてた男がまた小顔のイケメンだった。嫉妬しかない。
「ヘラヘラ笑ってんじゃねーよ!」
いきなり拳を振るうナツコに一瞬驚いた顔を見せたものの、ヒョイと余裕で避けたから驚いた。更に、手数のなっちゃんと異名を持つナツコの目にもとまらぬ早拳を鮮やかにバックステップを踏みながらかわし続けた。
スタミナ切れでナツコがひざを付くと、1年生はその背中に靴底を乗せ踏みつけて笑った。
「俺に当てられると思ったのかよ。デブ。お前とは瞬発力がちげーんだよ」
「お前……男か」
「男だよ」
153センチ62キロ。ギリギリデブじゃないと日頃から言い張っていたナツコは泣いた。中学3年生。お年頃の女子が男子に面と向かってデブ呼ばわりされたのだ。不良だって泣く。
「ぶわっはははは! ダッセ。ほーら、もっと大きな声で泣いてごらーん?」
見てられねえ。むかっ腹が立ったあたいは立ち上がり、楽しそうに笑う1年生の肩に手を置いた。
「お前、よくもあたいのかわいい子分を泣かしてくれたな。礼はさせてもらうぜ」
「あたいて。子分て。礼て。昭和のヤンキー漫画か」
「ガタガタ抜かしてんじゃねえ!」
渾身の一発を避けられたあたいはすっかり動揺した。当たらねえ。あたいの拳が当たらねえ。
「お前、何もんだ」
「入谷統基」
「入谷……」
「ヤバい! 夕月さん! そういや1年にシルバーの息子がいるって!」
シルバーの……!
やった。終わった。シルバーの息子にケンカふっかけちまった。
一瞬で絶望の淵に追いやられた気がした。
あたいの母親は当然のようにシングルマザー。天神森の端っこで小さなクラブをやっていた。客足は思わしくなく、天神森のトップとして苦しい店を助けようとするシルバーが落とす金のおかげで生活できていた。
「報復するならあたいだけにしろ! 親は関係ねーだろ!」
「は? 親なんか関係ねーよ」
「あたいを殴れ。気が済むまで殴れ」
「は? なんでだよ。あ、何? 悪いことしたと思ってんの?」
このままでは母親もろとも路頭に迷う。あたいは大人しくうなずいた。
「だったら謝れよ」
「謝れ……だと?!」
「わりーと思ってんだろ? 俺は悪いと思うならゴメンナサイしてほしーだけ」
「ゴメ……?!」
「平和的解決。俺は愛と平和を愛してるから。ラブ、アンド、ピースよ」
1年生は奇妙なポーズを取って笑った。
悪の巣窟、桜三中のカシラがこんなちっせえ1年生男子に……悔しくて悔しくて、握りしめた手にツメがめり込んでいった。
「悪かった……ごめんなさい」
入谷統基が背伸びしてあたいのほっぺにチューをした。ほっぺに感じる、温かくて柔らかい初めての感触にそりゃもう驚いた。
「よくできました」
「なっ……何すんだよ!」
「親父が女は殴るもんじゃねえ、キスするもんだって言ってたから」
「言ってたから、じゃねーよ! バカじゃねーの?!」
恥ずかしさからまくし立てるあたいに余裕の笑顔を返す入谷統基が憎らしかった。だけど。
「なんでー。殴られるより5倍いいでしょ」
入谷きゅん……。
5億倍いい。手をパーにして、人懐っこく笑ってあたいを見上げる入谷くんを見て、そう思った。
彼は天神森のトップの息子。あたいは桜三中のカシラ。
立場が違った。
「夕月さん! あいつやっちゃいましょーよ! 我慢の限界っす!」
「いくらシルバーの息子だからって! ミキリンのことブスつったんっすよ!」
だってミキリン、ブスじゃん。
「ほっとけ。相手すんじゃねえ」
「ののしられんの分かっててミキリンからいくんすよ!」
ミキリン、ののしられたいんじゃん。
「毎日毎日、あいつへの苦情がすげーな」
「やりたい放題好き放題っすからね」
「夕月さん! ラブアンドピースとか言って、ナズナがカチコミ行かねえっつってます!」
「ラブアンドピース?!」
ラブ、アンド、ピース……入谷くんのキュートなあのポーズ、また見たいなあ……。
「愛と平和をスローガンに今年の1年は全然ケンカしねえらしい」
「んなわけあるかよ」
「そりゃねーわ。何しに桜三中来てんだよ」
「夕月さん! あいつやっちまわねーとやべえっすよ! 桜三中ってヤンキーが多いんだって? ってタナミナが言われたって!」
「ヤンキー?! そんな評価になってきてんのか!」
「やべーよ! 桜三中の伝統があいつのせいでなくなっちまう!」
別にいいんじゃないのかなー。いいじゃん、愛と平和。
「夕月さん!」
「夕月さん!」
ポーッと入谷くんのラブアンドピースポーズを思い出していると、周りの真剣な眼差しを感じてハッとした。
あたいは、なんて腑抜けになってんだ……みんながこんなにも桜三中の伝統を守ろうとしているのに、あたいってヤツは……。
「てめーらはここにいろ。あたいがケリつけてやる」
「夕月さん!」
「頼んます!」
そして、あたいは入谷くんの靴箱にラブレターを入れた。
ケリをつけよう。この思いを伝えて、もしも受け入れられたなら、カシラを引退して入谷くんの恋人になりゅ。
「朝陽夕月って、朝だか夜だか分かんねえ名前の女と付き合いたくない。じゃーね」
スタスタと公園を後にする入谷統基を呆然と見送った。
「3年だけでも桜三中の伝統を守り抜く! てめーら、正々堂々前向いて卒業しようや!」
「はい!」
よそはよそ、うちはうち方式を採用し、1年2年が良い子ちゃんになろうとも、我ら3年生は桜三中生として恥ずかしくないように、とそれからの日々を過ごし、卒業した。
中学卒業後は母親の店を手伝い、若くてキレイなあたいのおかげで順調に盛況。客で来たヤクザに気に入られ、後妻として迎え入れられた。
組長の妻として、毎日若い衆に身の周りの世話をしてもらいながらゴロゴロと過ごす日々。不器用でケンカっ早いが実は優しい組のナンバースリー、ヤスとの距離が日々縮まり、夫がいない日には二人でアイスを食べたりしていた、そんなある日。あたいはヤクザの娘が高校教師になるドラマの再放送を見た。
あたいも教師になる! と言い出したあたいに、ヤスとの関係を疑っていた夫はがんばれがんばれと賛成し、大学に行かせてくれた。
高卒認定試験を受けて大学に入った卒業高がないあたいでも、下山手高校ならば受け入れてくれると聞き、早速教育現場見学生として頼んだらのんでくれた。
そして、あたいは再び出会ってしまった。高校生になった入谷統基に……。
奇跡だと思った。この再会は奇跡だって。なのに、あの子は言った。
「何度すれ違っても私たちは絶対に会える。一生会えない運命だったのに、出会ったんだもの」
すでに運命を覆していただなんて。すれ違っても会えると信じて揺るぎないだなんて。
再会を奇跡だと舞い上がったあたいが彼女に敵うはずはない、と思い知らされた。
ふっ……あたいとしたことが、かつて愛した男が目の前に現れて、すっかり気が動転しちまってたみたいだ。昔の話じゃねえか。
組の者だとバレないように朝陽姓を名乗ってたもんだから、つい結婚してることも忘れてバグっちまった。
帰ろう。
あたいを愛してくれる62歳の夫の元に。夫の目を盗んで33歳のヤスと逢瀬を重ねるスリリングな日常に。最近入ったかわいい18歳のトキが世話してくれる毎日に。
ほっぺをそっとなでる。
「ありがとう、朝陽先生」
立ち上がった入谷くんの腕にすがりついたあたいを引き離すことなく、ただ穏やかに笑っていた。あたいが惚れた男はあんな腑抜けじゃねえ。あたいが惚れた男はもうこの世にいねえんだ。
あたいの頭の中から飛び出した17人の入谷くんを丁寧にひとりずつ消していく。最後のひとりも消して、描いていた粉すらも消えてしまえとブオーッと黒板消しクリーナーにかける。
帰ろう。
帰って、あたいの名前、実は夕月なのって夫に見せよう。




