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天音さんは、きっと

 現在16時45分。15分もあれば十分だ。


「おはようございます!」

「おはよう。入谷くんは今日も元気だね」

「はい! 元気いっぱいです!」


 緊張のせいで声が大きくなる。


 事務所に入ると、天音さんはいない。トイレかな?


 エプロンを着け終え、時計を見る。事務所のアナログ時計はだいぶ針が進められている。これすでに下に下りちゃってるな。天音さん、来るのいつも早いし。


 どーしよ。バイト中に個人的な話なんかなかなかできないし……いや、するんだ。明日でいいかなんて思わない。よくない。今日、決着をつけると決めている。


 店長が厨房の奥に仕込みに行くこともよくあるし、店でも二人で話はできるかもしれない。急いで階段を下りる。


 俺の姿を見ると、店長が焼き鳥の串を差しながら人当りの良い笑顔を向ける。


「今日、入谷くんひとりなんだけど大丈夫だよね? もうすっかり一人前だもんね」

「ひとり? 天音さん休みっすか?」

「え? 聞いてない?」


 店長が驚いて作業の手を止める。何のこっちゃかサッパリだ。


「橋本さん、つわりがひどくて辞めたんだよ。ギリギリまで働きたいって言ってたんだけど、こればっかりはしょうがないよね」

「つわり?」

「妊娠初期に妊婦さんの気持ちが悪くなって吐いたりしちゃうことがあるんだ。僕の嫁さんもつわりがひどかったから心配だよ。ひどいと入院することもあるからね」

「妊娠?!」


 天音さんが妊娠?! 天音さんが母親になるの?!


「知らなかったんだ? 入谷くんと橋本さんっててっきり付き合ってると思ってたけど、本当に違ったんだね」

「本当に付き合ってません!」

「橋本さんも辞めるって電話くれた時に言ってたよ。自分が悪ふざけしてただけって」


 あー、良かった。ちゃんと天音さんからも言ってくれたんだ。


 それにしても、妊娠かよ。あの天音さんが母親になるなんて信じられねえな。


 那波が妊娠した時もそうだったけど、元々知ってるヤツが妊娠したって聞いても違和感しかない。


 まさか天音さんが店辞めてたとは。緊張してた分、拍子抜けだよ。


 開店準備も今までは二人でやっていた仕事をひとりでやるのはちょっと大変だけど、何とか間に合った。店を開けるとすぐに常連たちがやってくる。


 入ってすぐの座敷が指定席の田島さんがキョロキョロしている。


「天音ちゃんは? 休み?」

「バイト辞めたらしいんすよ」

「なんでまた急に?!」

「えーと……」


 妊娠なんてプライバシーバシバシな話はしない方がいいよな。体調不良つってごまかすか。


「妊娠したらしいんですよ。めでたいことです」


 店長がいい笑顔で答える。言っちゃうのかよ。ほんとこの店は客と従業員の距離が近すぎる。


「天音ちゃんが結婚かあ。寂しくなるなあ」

「結婚はしないって言ってましたよ。シングルマザーってやつですね。今どき珍しくもないですよ」

「ビールお待たせしましたー」

「あんなかわいい子はらましといて責任も取らねえってのか! 相手の男連れて来い! 俺が説教してやらあ!」


 ビールを置いた手が固まる。


 ……相手の男? 


 そりゃそうだ、ひとりで妊娠なんかしない。相手の男がいるんだ。


 可能性に気付いて心臓がドッドッドッと強く速いビートを刻む。


 ……もしかして……万が一億が一くらいは、俺の子供の可能性がある……?


 待って。ちょっと待って。……もうちょっと待って。


 天音さんが俺しかいないって言ってたのはかなり前だ。ゴールデンリバーで半額チケットが流れて来た時が最後か。あの時は、俺としかホテルに行かないって言ってた。


 ……いや、ホテル限定の話だったのかもしれない。あの天音さんのことだ、絶対に俺の他にも遊んでる男がいたはずだ。男の家で会ってただけだ。


 俺はずっと彼氏を作れよって言い続けていた。きっと彼氏ができたんだ。天音さん実家暮らしだけど、彼氏なら家に連れ込んでたのかもしれないし。


 でも、それだと大前提が覆ってしまう。俺たちは、お互いに彼氏彼女ができるまでのお互い様の関係のはずだ。


 天音さんに彼氏ができたら、まず報告を受けていないとおかしい。


 まさか……そんな訳ない。子供なんて簡単にできないって天音さん言ってたじゃん。大丈夫だって言ってたじゃん。


 パリーン! と派手な音にハッと我に返る。


「失礼しましたー!」


 洗い物をしていた手が滑った。


「入谷くん、大丈夫?」

「あ、大丈夫です。すんません、皿割っちゃって」

「ケガしないように気を付けてね」

「はい」


 ここからもう悲惨なものだった。


 客の注文が耳に入らないわ、店長の指示受けたのにどのテーブルに持って行けばいいのか分からなくなるわ、ビールジョッキに焼酎入れるわ。


「統基くん、どうしたー? 天音ちゃんが妊娠したって聞いて失恋のショックかー? ばふっ」

「あ! すんません!」


 思わず枝豆の入ったボウルを客の顔面に叩きつけてしまった。慌てて布巾で顔を拭く。


「入谷くん! せめておしぼり使って!」

「あ!」


 夜9時45分になり、店長特製のまかないを食う。いつも美味いのに、全然味がしない。


「入谷くん、しんどいの? 顔色悪いね」

「あ、いえ、すんません。ミス連発しちゃって」

「初めてのひとりシフトだからテンパっちゃうのも仕方ないよ。バイト急募かけなきゃね」


 バイト……叶、ここでバイトしたがってたな……。


「そっすね、お願いします」


 10時になったら即事務所に上がり、脱いだエプロンをロッカーに投げ入れて階段を下りる。引き戸を開けて外に出たと同時に天音さんに電話をかける。


 コールが鳴り続けるも、電話が繋がらない。


 天音さん……頼む。頼むから出てくれ。


 しつこく鳴り響くコールを聞いていたら、やっと繋がった。


「……はい……」

「天音さん! あの……体調、大丈夫?」

「統基……ごめんね、急にひとりシフトにしちゃって」

「いや、シフトはいいんだけど……その……本当なの? 妊娠したって」


 返事を聞くまでもない。天音さんの声は別人のように元気がなく、明らかにしんどそうだ。


「……本当……」


 ためらうかのような間に、可能性が膨らんだ気がする。


「俺の子供なんじゃないの?」

「違う。統基の子供じゃないから、安心して」

「安心って……」

「大丈夫よ。本当に統基の子供じゃないから、迷惑はかけない……」


 うっ、と苦しそうな声がスマホから漏れる。


「ごめん、私今吐き気がすごくて……」

「大丈夫? 俺行こうか?」


 どこに行けばいいのかなんて分かんないけど。俺は天音さんの家を知らない。


「いい。大人だから自分でなんとかできるよ。統基は気にしないで」

「天音さん……本当に、絶対に俺の子供じゃないの?」

「うん。絶対に違うから、大丈夫……うっ……ごめん、吐きそうだから切るね」

「あ、うん……ねえ、体調落ち着いたらさ、会ってゆっくり話しようよ」

「うん……」

「じゃあね、また」


 天音さんはマジで辛そうだ。急いで切った方が良さそう。


「統基」

「何? 天音さん」


 あれ? 天音さんは何も言わない。


 スマホを耳から離そうとしたら名前を呼ばれた気がしたんだけど、気のせいだったのかな?


「電話くれて、ありがとう……嬉しかった」

「え? 天音さん――」

「統基と出会えて良かった。ありがとう。バイバイ」

「ちょっ……天音さん!」


 電話が切れている。


 ……天音さんはきっと、もう、俺と会う気なんて……。


 激しく内側から破り出てきそうな鼓動と共に頭に真っ白いもやがかかって、ひざから崩れ落ちて地面に座り込む。


 真っ白いもやはシーツで、ベッドの脇に立って布団から出た手を握ると、いつも温かくて俺を安心させてくれた大きな手がものすごく冷たい。


 あまりの冷たさにハッと意識が引き戻される。


 那波が妊娠して学校を辞めた話を兄貴たちにした時に、亮河が言ってた。辞めるってことは産むんだ? って。


 バイトを辞めて、産むのか、天音さん。


 大丈夫、心配しないで、気にしないで、って、前にも聞いた。


 無責任にも子供ができても責任取れないよって言い放った俺に、大人である私がなんとかするって……。


 あの時の天音さんは、子供ができても腹から消すつもりだった。


 でも、結婚してないからって子供を消されたんじゃ俺は今いないって、言った。


 あの時の俺は腹の中の子供目線だったんだ。天音さんが俺や蓮や兄貴たちを消そうとしてるかのように思えて、どうにも怒りが湧いた。


 俺があんなことを言ったせいで、天音さんから子供をおろすという選択肢を消してしまったのかもしれない。


 俺はとんでもないダブルスタンダードだった。天音さんはきっと、気付いていたんだ。俺は今の今まで気付けなかった。


 自分の存在を消されるのは嫌なのに、自分の子供を産まれるのはものすごく困る。


 天音さんは絶対に俺の子供じゃないって言ったけど、あの天音さんのことだ。嘘をついているんじゃないのか。


 本当は俺の子供なのに、そう言えば俺に迷惑をかけると思って……。


 俺のせいで、なのに俺のために、天音さんはきっと嘘をついたんだ。

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