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胸がザワつくから私は

 今朝も入谷の胸元には小さな一年生がくっついている。おはよう、と声だけ掛けて教室に入る。


 たしかに知らない子みたいだし見るからに入谷は困った様子ではあるんだけど、迷惑だったら入谷なら迷惑だってハッキリ言いそうなものなのに……やっぱり、好みの小さくてかわいい子だからくっつかれて嬉しいのかしら。


 今日は一時間目から生物だからおしゃべり三人組と愛良と共に生物室へと向かっていると、小田さんがため息をついた。


「あーあ。この辺でよく彼氏を見かけたのになあ」

「彼氏のこと思い出してたんだー。ラブラブだすなあ」

「こないだ腕枕してもらったの。もう超ドキドキ」

「キャー」


 キャー。腕枕って、私たちよりも付き合い始めたのは遅かったのに、もうすっかり大人だわ。


 ……でも、入谷と一年生の女の子をあの態勢のままベッドに寝ころばせたら腕枕状態じゃないかしら。


「入谷先輩!」


 元気いっぱいの声がして、死にそうになりながら階段を上っていた足を止め振り向く。踊り場で入谷の胸元に入り込んだ一年生が笑顔で入谷を見上げていた。


 ザワつく胸をごまかすように急ぎ足で階段を上り、愛良たちに追いつく。


「何、あの小さい子。入谷あんな小学生みたいな子とあんなにくっついちゃうの?」

「あれ誰? 入谷の妹? 曽羽さん、知ってる?」

「入谷くんの中学の時の後輩なんだってえ」

「後輩? ただの後輩の距離じゃないよ、あれ」

「絶対おかしい。元カノなんじゃないの?」

「元カノでもおかしいでしょ。今カノじゃないの?」


 冗談半分な感じで笑いながら話していた三人が私と目が合うと気まずそうに黙った。


「ごめんね、比嘉さん。彼女の前で今カノとか言っちゃって」

「……そう見えるものね」

「うん、正直見えちゃうよね」


 三人がそそくさと生物室に入って行くのに私も続いた。




 今日は午後から部活動紹介だから、帰宅部の私たちは帰宅する。バスケ部幽霊部員の充里と同じく帰宅部の愛良とお昼ごはんを食べて、そのまま居座って話し続けていた店を出た。


「なあ、そろそろ行き先決めねえと、ホテル予約できねーよ。行くよな? お前の誕生日に旅行」


 二人と別れると入谷が不満げに言う。


 旅行……同級生の男の子と旅行だなんて、過保護なうちの両親が許してくれるはずはない。でも、何だか言い出せずにいたまま、誕生日が十日後にまで迫ってしまった。


「うん、行きたい」


 入谷がパッと笑顔に変わる。


「どこ行きたいの?」

「えーと……水族館」

「水族館? たしかに遠いけど、電車で一本だし泊りじゃなくても行けるじゃん。遠慮しなくていいよ? 金ならあるし」

「ううん、私水族館丸一日満喫したいから、泊りがいいの」

「そっか。じゃあ一日は水族館まわって、もう一日は俺がプラン練る!」

「うん。ねえ、まだバイトまでだいぶ時間あるし、うちに来ない?」

「行く!」


 入谷に手を握られ、つないだまま赤信号を待つ。入谷の温かい手に心穏やかな幸せを感じる。


「水族館であれ見たいとかある?」

「ラッコ! ラッコが泳ぐ所が見たい」

「ラッコって泳ぐの?」

「意外にも泳ぎが速いらしいの」

「へー、そうなんだ」


 うちに着き、鍵を開けて入谷を招くと、お邪魔しまーす、と笑いながら入ってくる。まっすぐ私の部屋に上がる。


「何か飲む?」

「ありがと。でも俺スポドリ持ってんだよね」

「あ、そうなの?」


 いつの間に買ったんだろ。


「なんか、嵯峨根さんにもらっちゃって」

「……へえ」


 いつの間にもらったんだろ。


「比嘉」


 並んで床に座ると、入谷が分厚い唇を押し付けてくる。二人きりになったら、いきなりだな……。


 でも、なぜだかホッとしている自分に気付く。


 唇を離すと、入谷は目を細めて笑ってスポドリを開けた。


 ただスポーツドリンクを飲んでるだけなのに、入谷ののどが動くのを見ながら何かモヤモヤがジワジワと湧いてくる。


 二人きりなのに、入谷は気持ちが盛り上がっちゃったりしないのかしら。私のことが好きで好きでしょうがなくなっちゃわないのかな……。


 もしかして、あの子の存在が大きいのかしら。入谷の理想の女の子が、私と出会うよりずっと前から入谷を好きだったと知ってしまった。気にならないはずないのかもしれない。


 入谷があの子からもらったスポドリにフタをする。


 入谷がしようと思えばあの子にもチュウってできちゃうんだ。あの子は入谷が好きなんだから、入谷さえその気になればあの子はイヤがったりなんてしないだろう。入谷次第。


 うっ……何なの、何かに胸をかきむしられてるような不快感。


 私が彼女なんだから、私だってあの子がいた位置に行っていいはず。入谷の胸元をロックオン。


 スポドリを床に置こうとして入谷の胸元ががら空きになった。すかさず体を滑り込ませ、あの子のように入谷の右胸に顔をつける。


「えっ、ちょ……どうしたの?」


 入谷が戸惑っているのを感じる。あの子がこうしても入谷は慌ててるような困ってるような様子だったけど、私でもリアクションが同じなの?


「ダメ?」

「だっ……ダメじゃないけど」


 自分でやっといて恥ずかしくて顔が上げられない。どうしたんだろ、私。自分でも何がしたいのか意味が分からない。


 ただ胸がザワザワして落ち着かないから、落ち着かせてほしい。心に根付いた黒い種がどんどん黒い茎を伸ばして葉を広げていく。刈り取って。


「あ、あのさ、栄養バランスクッキー食べる? 二枚入りだからさ、一枚ずつ」


 入谷がポケットから栄養バランスクッキーの袋を出した。これはたしか、ひと箱にこの袋が二つ入っているはず。入谷が買った物じゃない。もしかしたら昨日一袋食べて今この袋がポッケにあっただけかもしれないのに、私はほぼ確信を持っている。


「誰かにもらったの?」


 袋を開けてクッキーにかぶりつく入谷に尋ねる。ひと口が大きいから、もう半分くらいない。


「なんか、嵯峨根さんにもらっちゃって。俺そんな栄養足りてなさそうかよってゆーね」


 ハハッと入谷が笑ってるけど、もう笑えない。入谷の体が嵯峨根さんにもらったものでできていって、ついには入谷の心まで嵯峨根さんに奪われてしまう。


 入谷を見上げると、口にクッキーの粉が付いている。体を伸ばして首も伸ばして口を付けたら、唇に粉の感触とほんのり甘い匂いがした。

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