プロローグ
「皆も知っての通り、時間の流れとは人類が身勝手に定めた目安だ。この地球上に生ける、一定以上の知能を持つ動物のみのだ。その観点からいくと、死後の世界というのは時間を持たない。ここまではいいかな。では、次に[自分]とは何だね。それでは…。ホーキング君」
チャーマーズ教授はひとしきり喋り終えて、胸に付けた名札を見て、僕に質問をしてきた。
あまり乗り気ではなかった。というのは、十数人が狭い部屋に入れられた上、この部屋はカーテンが閉められ薄暗い。それになにやら嗅いだことのない臭気が漂っている。はっきり言うと不快だが、それだけが乗り気でない理由ではない。単に質問の問いが簡単であるというのが主な理由だ。前の話を聞いていればわかる。
とは言っても、教授でおられる方に口答えをするわけにはいかない。まして彼は我が国が誇る頭脳を持っている。
僕は自粛することを意識して答えた。
「[自分]というのを意識するのは人間だけの特性です。他の動物は[自分]ではなく、種として自身を認識します。その証拠に彼らは鏡に写る自分を敵だと判断することが多々あります。そして、周りにいる動物と自身は同種であると認識します」
ここまでは合っていますか、と教授に目配せする。チャーマーズ教授はその小綺麗に整えられた左眉と左側の口角を少し上げた。当たり前だが、合っていたようだ。
僕はそのまま話を続ける。
「しかし、人間も動物と差異がありません。人間も人間以外に育てられた場合、その程度の知能しか持ち合わせない動物となります。従って、人間だから[自分]を認識出来るのではなく、[自分]を認識出来る集団に属しているから、[自分]を認識できます」
ここまで言ってしまうともう答えと言っても良いと思う。その証拠にこの講義の答えを理解した生徒も数人いるようだった。
教授はもちろんだが、驚く素振りを見せずに言った。その代わり、疑念を持ったような口振りで言った。
「この学問、死学は国のトップにあたる学力を有する大学でしか講義することが許されないものだ。だからこの質問に対してヒントも無しにこれ程答えられる生徒はあまり居ない。どこで知ったのかね」
教授は僕がこの学問について知識が周りよりもあることに、情報漏洩があったのではないかと疑いを持ったようだった。もちろんそのような事実はない。
「いえ、知っていた訳ではありません。ただ、教授の講義を聞いているうちに、この学問の概要を掴んだような気がして…」
「そうか、君は見えるのだな」
話を途中で遮られた。それだけではなく、意味のわからないことを言われた。
少し、口元が緩んだように感じたが、目は違った。これまでよりも眼光は鋭く、瞳孔が開いていて、驚いているように思えた。
そう思えたのは一瞬だった。すぐに教授の顔はもとに戻った。
「ではホーキング君、だったかね。君は死学の概要が掴めた、と言ったね。話してくれ」
そう言った時の顔は先程とはうってかわって微笑んでいた。
自信はないのですが、と前置きをしてから僕は話した。
「先程の教授の講義と僕への質問、そしてその質問の答えを加味した結果、一つの考えにたどり着きました。それは、死んだら自分というものがなくなるということです。意識の一体化…と言いましょうか。そういうことが起きるのでは…という考えに帰結しました。あくまでも予想ですが」
ひとしきり話し終えたあと、ちょうど隣に座っていたリチャードが威勢良く話しかけてきた。
「フォートレス。凄いなお前は。たまに変なこと言ってると思っていたが、ここまで変な発想を思い付けるのはもはや称賛に値するぜ」
どうやらちゃかしている風だった。いつものように言い返そうと思った矢先、教授は口をはさんだ。
「君、私語は謹んでくれ。私はホーキング君と話しているのだ。それはそうとホーキング君。君の予想は合っている。安心したまえ」
リチャードは自分が用なしと言われたのが傷付いたのかへこんでいる。それを横目に見ながら僕はありがとうございますと頭を下げた。
周りの生徒は同じ生徒である僕が教授の話の流れだけで死学の概要を掴んでみせたことに驚きを隠せないようだった。あちこちでヒソヒソと話し声がしている。
その喧騒とした雰囲気を断ちきる様に教授は咳き込みをして、また講義を再開した。
「今ホーキング君が言ったことはわかったかね。では、話はここで終わりだ。そして、ここから実技に入る。私は実技の用意を取ってくるのでここで待っていてほしい。あ、くれぐれも部屋の物に触らないでくれよ、リチャード君」
リチャードが悔しそうに「触りませんよ!」と声を発したのを皮切りに少しの休憩に入った。
その間、リチャードがいつもの調子で話しかけてきた。
「フォートレス、なんか臭くないか?この部屋。なんというか…なんとも言えない臭さが…」
僕がこの部屋に入ってきてから思っていたことをリチャードも感じていたようだ。
「それに、暗い。これじゃあまるで死体が入った棺桶だな。俺は入った事がないけど」
そうだ。この臭いは花だ。花の香りに似ている。花屋から薫るときは良い匂いなのに、葬式の時に使われると途端に臭く感じる臭いだ。
「リチャード、それだ。花だ。少しニュアンスは違うが、似ている。なるほど、葬式か。香りによる潜在意識がその言語化を促した訳だ。そうか、僕はこの香りは何の臭いだと思考したが、リチャードはこの香りがするような場所、時間、状況を考えた訳だな。ありがとう。勉強になったよ」
ひとしきり思考を終え、リチャードを見ると案の定飽きれ顔だった。左の眉を少し挙げ、唇の端を結んだ顔。彼は困るとこの顔をする。チャーマーズ教授が疑念を持つ時の顔と似ていたから、少し笑ってしまった。
リチャードが、なぜ僕が笑っているのかわからないといった風に、もう一度その顔をしてみせた。
「なんで笑うんだよ」
「いや、すまない。なんでもないんだ」
僕を疑うように顔を覗き込んできたが、「お前が変なのはいつものことか」と言って居直った。「変なのはお前の顔だよ」と言いそうになったが、それは噤んだ。
そしてリチャードは神妙な面持ちになって言った。
「それにしてもなんでこんな棺桶の中またいな場所で講義をするんだ。俺たちは死んだのか?死学を学ぶから」
「それは半分合っていて、半分は間違っているね」
どこかからか用意を取ってきた教授がドアを前に立っていた。
「棺桶の中か。中々面白い表現だね」
笑いながら言った。
「さっき私は実技の用意を取ってくると言ったね。そして、これは死学の講義。つまり、死んでもらうのさ。強制的にね」
部屋にどよめきが起こった。それもそうだ。いきなり死ぬなどと言われたらひとたまりもない。ただ一人を除いて。
「どういうことだ!?死ねんのか!?マジなのか!?」
リチャードを除いて。
「そうともリチャード君。我々が国民には秘密にしていたが、死ぬ技術があるのだよ。まあ、ほんの一瞬だがね」
教授は今まで見たことがないような不敵な笑みを浮かべた。
「リチャード君。君がこの体験をするかね」
そのまま教授は後ろを向き、リチャードにそう尋ねた。
リチャードの答えは二つ返事だった。
「そうかね。では、この台に仰向けに寝転んでくれ」
部屋の中心にある物体に被せている布を教授は取っ払った。細長い五角形をしていて、頭を置くところにはクッションがある。緑系統の透明で床がちょうど透き通って見えるような台が露になった。
「後頭部にクッションに空いてる穴が真下にくるようにしてくれ」
乗り気のリチャードは気になっていないようだが、明らかにおかしい。実験等をするときは安全かどうかを全員で確かめるのが普通なのに、それが一切ない。それどころか、説明が一切ない。
教授の言動からヒントを探している間に準備が整ったようだった。
「それでは皆。今からある音楽を流す。リチャード君以外は聴かない様にしてほしい。だから、この耳当てを使ってほしい」
そう言って渡されたのは黒の耳当て。
「ちょっと待ってください。俺はどうしたら良いんですか」
さすがに説明が無さすぎて心配になったのか、リチャードが口を開いた。
すると、教授はあっさりと
「君はなにもしなくていい。あ、できれば音楽の細部を気にして聴いてほしいんだ。それが成功を高める。あと皆、口も布か何かで塞いでいてくれ。一応、危険だから。リチャード君はゆっくり深呼吸をしていてくれ」
これで全ての説明が終わったようだった。
「それでは、実技を開始する」
そう言って教授は手に持った黒のボタンを押した。
その瞬間、明らかに毒であるようなピンク色をした気体が部屋の床から溢れてきた。さらに、耳当てをしているからあまり良く聴こえないが、変拍子の曲も流れている。
リチャードはその音楽に聞き入っているようだった。しかし、目立った変化はない。
すると、教授はもう一つの赤いボタンを押した。
その瞬間、リチャードの体はビクンビクンと跳ねた。そして、一瞬落ち着いた後、台の上で起きて言った。
「ストップ!ストップ!」
良く聞こえないが口の動きが恐らくそうだ。
その動作を見て教授はすぐさま部屋の窓を開けた。そしてこう言った。
「おめでとう。成功だよ、リチャード君」
その顔ははっきりと笑っていた。
「どうだったかね。死んでみた感想は」
リチャードは疲れきった様子で言った。
「フォートレスが言っていた様に、自分が一瞬居なくなりました。一体化って言うんですかね。なんと言うか…世界の真理を覗いた気がします」
僕には彼が何を言っているかわかったが、理解はできなかった。僕がさっき言ったのはあくまで予想で、比喩表現のつもりだったからだ。
いくら思考しても考えが定まらない。他の学生も同じような反応だった。
「では、講義に戻ろう」
そう言って、講義が再開した。
「まず、死ぬ瞬間にはβ-エンドルフィンというホルモンが分泌される。それは所謂脳内麻薬と言われるものだ。それが出やすいのは、瞑想したあと。また、音楽を聴いている時だ。そして、音楽で一番効果的なのはバリ島の伝統の曲だ。わざと三十二拍目が章の頭にくるように作られていて、トリップしたような感覚に陥ることができる。リチャード君に細部まで聴くように指示したのは効果的にトリップへもっていけるからだ。そして、一つ目のボタンを押したあとに出たのは、合法の麻薬だ。中毒性がない、特殊なもの。でも、なぜ吸い込まない様にしたかと言うと、講義がまともに受けられなくなる者が出てくるからだ。そして、赤のボタン。これは微弱の電流を流しただけだ。電流以外の目的は全て気持ち良くなるためのプロセスだ。電流を用いるのは何故だか知らん。科学は時に結果だけを重要視するのだ」
これが僕と死学の出会いだ。
あれから十年。僕は死者の声を聞く仕事に就いた。遺言を聞く仕事だ。
あ、あの時リチャードが小便を漏らしていたことは内緒だ。
初めて小説というものを投稿しました。
以上。