第9話 はじまりは今(その9)
教室に入ると、いつも通りに自分の席に向かう。途中途中で何人かとおはよう、と挨拶を交わす。僕はこの高校が嫌いな訳ではない。それどころか、小・中学校の時と比べると、皆大人で、それなりに気遣いもお互いにしており、居心地がいいと思う。でも、やっぱり、とても寂しくなる時や、いつまでもこのまま安全に暮らせる訳ではないという漠然とした不安があった。僕と向かい合って仲良く話している相手が、些細なことで次の瞬間に僕のことを「変なヤツ」と仲間に触れ回るかもしれない。本当に心が休まる時がないような気がする。みんなどうなのだろうか、と、席に座って教室をぐるっと眺めまわし、そんなことを考えた。
斜め前の席に視線を遣ると、昨日旭屋であった日向さんたち三人組が、笑いながら何かしら話していた。僕は、日向さんの笑顔を見つめる。すると、一瞬、目が合った。僕は、しまった、見過ぎた、と思ったが、日向さんはにこっと会釈してくれた。僕は自分でも間抜けな感じがしたが、咄嗟にぎこちない会釈を返した。せめて笑顔で会釈すればよかったが、日向さんに笑いかけられてこちらも自然な笑顔になろうとする顔の筋肉を無理にコントロールして真面目な表情を作り、こわばった顔面で軽く頭を下げた。
「かおるちゃん」
太一が僕の机の前に立って笑っていた。
「‘犬ちり’読み終わったから貸してあげようか?」
僕は少し考えてから太一に訊いた。
「もう、読んだの?」
太一は自慢げにこう言う。
「昨日夜遅くまでかかって読み終わったよ。本当に面白いよ。」
「じゃあ、‘犬ちり’よりも先に‘猫もけ’を貸してくれない」
太一はそうだよねそうだよね、といった顔をした
「そうだね。昨日、日向さんがサインして貰ってたのは‘猫もけ’の方だったもんね。まずは同じものを読みたいってことだね」
僕は、そこまで深く考えていた訳でもないし、昨日確かに日向さんがサインして貰っていたのは‘猫もけ’の文庫本だったのだろうが、太一のような発想はなかった。だが、確かに、そう言われると、なんだか本当に‘猫もけ’を読めば、日向さんと時間を共有できるような不思議な気分になる。
「かおるちゃんが心配しなくても、ちゃんと猫もけを貸してあげるよ。」
僕は太一から目を離し、もう一度日向さんの方に視線を向けた。
日向さんは笑顔のままだ。僕は何でだか分からないけれども、日向さんの姿を見ていると、自分自身の体の内側が、すうっと安心感に満たされていくのを感じていた。