第69話 新しい春(その6)
鷹井高校の制服は、男子は黒の詰襟の学生服、女子は濃紺のセーラー服。正装として制服でお通夜に参列することにした。
セレモニーホールの入り口で、さつきちゃんのお父さんとお母さん、さつきちゃん、耕太郎が並んでお参りに来る人たちに言葉を出さずに挨拶をしている。さつきちゃんも耕太郎も、黒の礼服を着ている。僕たちが前に行くと、軽く目を合わせてお辞儀をした。
さつきちゃんの顔色が、明らかに悪かった。
僕たちが一般の参列者の座席に座ってしばらくすると、式が始まった。
おばあちゃんの遺影は、何年か前に撮られたものなのだろう。最後に会った時よりも皺が少し少ない、笑顔の写真だった。
「お寺さんがお着きです」
係員の案内で、お寺さんが祭壇の前まで歩いてくる。合掌して椅子に腰かける。参列の人たちもそれに合わせて合掌した。
とても若いお寺さんだ。もしかしたら、まだ二十代半ばじゃないだろうか。この宗派は剃刀しなくてもよいので、黒々とした豊かな髪の、眉がきりりとした、青年だ。
お寺さんがお経を上げ、式を執り行う間、僕は、じっと、おばあちゃんの遺影を見つめていた。途中途中で、なぜか、うちの亡くなったおばあちゃんの顔が、自分の脳の中の映像に割り込んでくる。そして、不思議なことに、あの古い木造の家のおばあちゃんの顔も脳裏に何度か浮かんだ。
お経の最中に、焼香が始まった。僕たちの席の列の横で、係員が
「お焼香を・・・」
と、促す。
祭壇の前まで進み、焼香し、手を合わせ、お寺さんと遺族に軽くお辞儀して席に戻ろうとした時、はっ、とした。
さつきちゃんが、声を出さずに、取り乱さないようにと、堪えて泣いていた。涙だけが、じっと閉じた目からじわじわとこぼれていた。
お経が終わり、お寺さんが故人を偲んで、話をした。
「日向さんの家にわたしが月参りに行くときは、このおばあちゃんがわたしのお相手をしてくださいました。
お経を上げる間、一緒に手を合わせ、ご先祖の供養をしてくださいました。そして、お経が終わると、お茶を出してくださり、まだ寺を継いだばかりの若輩者のわたしに、何かれとなく四方山の話をしてくださいました。
わたしが一番印象に残っているのは、夏の暑い盛りに月参りに伺うと、決まって‘クリームソーダ’を作って出してくださったことです。
氷を入れた大振りのグラスにサイダーを注ぎ、市販のバニラアイスを箱からスプーンですくって、‘どのぐらい?’とアイスの量を聞いてくださるのです。
‘それくらいで’と、わたしが言うと、必ずそれよりも少し多めに掬って入れてくださいました。そして、レモンの輪切りに切れ目を入れたのをグラスの縁に差して、私に、‘どうぞ’、と勧めてくださるのです」
‘サイダー’という単語を聞いて、僕は、はっ、とする。古い木造の家のおばあちゃんも、‘サイダー買って来てくだされ’、と言った。‘サイダー’というその響きが、もう、遥か昔の出来事のように、感じる。
「・・・日向さんのおばあちゃんは、とても愛らしく、親切なおばあちゃんでした。若輩のわたしを、孫のようにでも思ってくださったのでしょうか。そこに座っておられる本当のお二人のお孫さんのことも、とても可愛がっていらした。自慢のお孫さん方だったのでしょう」
参列の人たちが、遺族席の最前列にいるさつきちゃんたちの方を向く。さつきちゃんは、静かに、そのままの位置で、誰にともなく、軽くお辞儀をした。それに倣って、耕太郎も軽く頭を下げた。
「生まれたら死ぬのは誰しも逃れることのできない事実です・・・ご年配か、若いか、ということではありません・・・おばあちゃんにとっては、これが天寿であり、それを全うされたのだと、わたしは、そう、おばあちゃんご自身が、にこやかに言っているように感じます・・・」
お寺さんは、もしかしたらおばあちゃんが肺炎になったいきさつをある程度知っているのかもしれない。そんな気さえする、真摯で暖かな話だと思った。
お寺さんが退席した後、喪主である、さつきちゃんのお父さんが参列者に対して挨拶をした。
「・・・母は、最初の長男を‘麻疹’で小学校一年生の時に亡くしています。わたしは次男です。わたしが物心ついた頃、母の姑、つまり、わたしの祖母に嫁として仕えていた母は、長男を亡くしたばかりの悲しみを表に出すことを控えていたようでした・・・・
でも、お彼岸の頃、‘一緒にお墓参りに行こうね’と幼稚園だったわたしの手を引いて、お寺に向かって歩いている途中、突然、道の真ん中で立ち止まってしまったのです。
わたしが母を見上げると、母は、泣いていました。‘わたしのせいで’と、言ったのがちらっと、聞こえました・・・・
兄は生まれつき体が弱くて食も細く、小さい頃から食べさせようとしてもなかなかたくさん食べてくれなかったようです。母は、自分の作る食事がもっと‘食べたい’、という気持ちを湧き起こさせるものだったら、丈夫に育って、麻疹にかかっても、まさか、死んでしまうことはなかったのではないか、と自分を責めていたようです。当時にしては珍しく、大学の家政学科を卒業していたことも、更に母を苦しめました。自分が‘食’の勉強をしていたのに、と・・・
だから、母はそれまで以上に食事に気を遣っていたのが、なんとなく伝わってきました。特に、姑に対しては、年を取り、段々と体も衰えていくので、ご飯を炊くときの硬さから、味覚の衰えに合わせた味付け、など。それでいて、食べ盛りの子供もおいしい、と感じる料理を作ろうと、工夫に工夫を重ねていたようです。
その母の工夫を妻が教わり、そして、今、娘が受け継ごうとしています・・・・
先ほど、お寺さんがしてくださった‘クリームソーダ’の話・・・・
本当に、母らしい話をしてくださって、ありがたいです・・・・」
さつきちゃんのお父さんの声が、微かに、震えている。
「今日は、お参りくださって、ありがとうございました・・・・」




