第54話 夏の始まりから秋の終わりにかけて(その8)
僕は、できるだけ、自分のペースで走った。でも、それは、決して1kmを何分か、という数値的なペースではない。自分が走っていて気持ちよいペース、ということだ。
実際、この大会の雰囲気のせいなのだろうか、本当に体も、足も軽い気がする。
自主トレの時は、アスファルトと足の接地というか、シューズの裏でアスファルトをとらえるごとに、エネルギーを加える、というよりは、摩擦の力だけが足に残り、段々と足が重くなることもあった。
けれども、今日は、本当にスムーズに体が動く。前の人に追いつこうとか、抜こうとかいう気持ちも何もないのだけれど、すっ、すっ、と体が滑らかに前に推進される感じがする。
もちろん、速いランナーには後ろからどんどん抜かされてるけれども、そんなことすらまったく気にならないように、体が自然と動く。自分が気持ちいいペースなので、息が苦しいということもない。
途中、車がやっとすれ違えるくらいの細い道があり、大会の係の人たちが、左側に寄って走るように指示している。
その時、沿道で応援している人や、踏切の向こうで小さな女の子とお母さんが、ランナーの列を見て手を振っている様子も目に入ってくる。
すべてが、気持ちよい。気持ちよさのあまり、僕は少しスピードを上げた。
ふと見ると、前方からもの凄いスピードの選手が対向のラインを走ってきた。フルマラソンは完全に別のコースを走っているが、ハーフは10kmコースと重なる部分がある。すると、これは、ハーフのトップ選手なのだろう。僕たちの列の横を駆け抜けていった。
その選手から20mほど遅れて、次の選手が駆け抜けていく。
僕はそのスピードに圧倒されはしたけれども、自分の走るスピードにも十分スピード感を感じながら走り続けた。
市役所の前を通り過ぎたところで、一旦ターンするような形になる。そこから北側に向かって川の土手に隠れた道を走る。スピードを緩め、ゆっくりとターンする。
ターンすると、皆、またそれぞれの範囲でスピードを上げてたったっと駆け始める。
突然、悲しみが襲ってきた。
あっ、と僕は不可解な気持ちになる。
何故、このタイミングで、なのだろうか。
走っていて、急に悲しくなったことは、実は、自主トレの時にも何回かあった。
その都度、僕は、悲しい気分をほったらかしにして、無視して走り続けた。その悲しい気持ちは、あの、夏休みの直前に、古い木造の家のおばあちゃんが、実は独り暮らしではないかと想像した、あの時の悲しみに似ているものだ、と何度も思った。どうにもならない、ただ単なる悲しみではなくて、解決することがほぼ絶望的な、悲しみ。
仮にあのおばあちゃんが一人暮らしでなかったとしても、旦那さんやお嫁さんと一緒に暮らしていたのだとしても、その悲しみは、和らぐことはあっても、消え去ることはない。
もう、あのおばあちゃんが、若い頃に戻ることはない。万が一、戻ることが可能だったとしても、一体、いくつの歳まで戻ればいいというのか。30歳?20歳?15歳?
今、このコースを走っている僕は16歳。でも、二度と16歳の、このコースを走り抜けている今日の瞬間に戻ることはできない。このコースを走り終えると、僕は、確実に年を取る。走り切った、そのタイムの分、僕の肉体も、精神も、古びる。それを成長というほど、僕はオプティミストでは、もう、ない。あのおばあちゃんが、一日、日を重ねて、それを成長と呼ぶことができないのと同じように。
今、走っている沿道の向こう側に、給水ポイントが見えてきた。水を入れた紙コップが、折り畳み式のテーブルの上にいくつも並べられ、その後ろにはスタッフの人たちが、手を上げて、ランナーに、はい、はい、と渡している。
僕は、瞬間、悲しみの箱の中から、顔をぽこっ、と上げることができた。
さっき見た、ランナーさつきちゃんの若さに満ち溢れたいでたちが目に浮かんだ。そうだ、僕は確かに瞬間瞬間で、古びていく。さつきちゃんにしたって、それは同じだ。
けれども、さっき、見た、さつきちゃんのTシャツ・ランパン・シューズ・キャップ・そこからすっと伸びる手足・笑顔、その姿形の記憶は、少なくとも、僕がこの10kmを走りきるための精気を与えてくれるには十分すぎる、瞼にまだ残像として残っている映像だ。今、この瞬間にエネルギーを使う、その糧としては、十分だ。
僕は、給水所の紙コップを受け取った。スタッフの人は、頑張って、と声をかけてくれる。
僕は、軽く頭を下げて、さあ、飲もう、と思ったけれども、走りながら紙コップの水を飲むというのは、半端なく難しいことに気が付いた。やむなく、若干スピードを緩め、一気にごくっ、と飲み干す。とは、うまくいかず、半分近くこぼしてしまった。
少し前のテーブルのごみ袋に紙コップを捨て、元のスピードくらいにまで上げて走っていくと、5km地点に、サングラスをかけ、もじゃもじゃのカーリーヘアのかつらをかぶった男性スタッフが、‘あと半分、GO!’と書いたパネルを持って、ランナーとハイタッチをしている。僕も、通り過ぎる時に、ハイタッチして、「GOGO!」というスタッフの人の声を後ろに走り続けた。
ただ、正直、えっ、まだ5km?という感じはした。時計は着けていないので、どのくらいのペースで走っているのか、よく分からない。いつもの自主トレの時の感覚を思い出してみるが、コースが違うので、やはり同じ感覚を当てはめて推量することは、ちょっと、無理がある。とにかく、気持ちいい感覚だけを大切にして走っていくことにした。
最後のターン地点が見えてきた。結局、T字型に走り、帰りは少し別の道を走って、またスタート地点の公園に戻ることになる。
ちょっとだけ、膝が痛い。でも、止まったりするほどでも、スピードを緩めるほどでもない。僕は、ターンして、方向を変えると、まだまだこれからターン地点めがけて走ってくる人とどんどん擦れ違う。さすがに、苦しそうな顔をしている人もいるけれども、すれ違う人同士で、がんばれー、と声を掛け合っている。
僕は、気持ちいい感覚を残してはいるけれども、そろそろ、淡々と走っている、という感覚も出始めてきた。
走っていても、物は考える。
でも、考える量は減る。考える物事の質も変わる。さっきのように突然悲しくなることもあるし、ちょっと前のように、さあ、行くぞ、という気分にもなる。どうにもならない昔の怒りを思い出して体を叩きつけるように走ったこともあったし、今日のスタートのように、なんだか全部、OKなことだったんだ、という気分で走ることもある。すべて、走る、ということが、引っ張り出してくれたのかもしれない。高校に入ってからも太一との付き合いが続いていること。遠藤さん・脇坂さんとも友達になったこと。耕太郎みたいな小学生もいるんだな、と思ったこと。さつきちゃんのような、これまで見たこともないタイプの女の子も、いるんだな、ということ。
走ることによって、整理され、つながりもでき、なんとなく、こんな感じだよね、という風にまとまってきたのかな。
僕は、気が付くと、弧を描いて昇る橋の上に差し掛かっていた。実際に走ってみると、いつも自主トレで登っていた山ほどの苦しさはない。橋の最高点に達すると、白井市の、大きな川が雄大な姿を僕に見せてくれた。決して開けた町ではないけれども、この格式高いマラソン大会の開催地にふさわしく、陽の光、川の水の質感、それらが、きらめくような美しさを見せている。
下りにかかる。本当は、スピードを抑えて、足への負担も極力かからないような走り方をするつもりだったけれども、この気持ちを抑えることができない。
自然と、たたたっ、という感じのリズムで、道行く同志のランナーたちと、歩幅とシューズの音で言葉を交わすような感覚になってくる。
橋を渡りきると、だんだんと、沿道の応援の人たちも増えてきたような気がする。もうじき、公園の入り口が見えてくるのだろう。ラストスパート、なんてつもりは全くないけれども、ああ、もうすぐだ、という気分の高まりを抑え切れない。気持ちよさからちょっと苦しい、という、その狭間ぎりぎりのペースで、僕は、ゴールを目指す。
公園の入り口が見えてきた。ゲートが見える。ゲートをくぐると、ゼッケンにつけられた、タイムを計測するためのセンサーを読み取る仕組みになっている。果たして、タイムは・・・という楽しみも若干持ちながら、僕はゴールのゲートをくぐった。
ああ、楽しかった。走って、こんなに楽しかったのは、本当に久しぶりだ。それに、気持ちとは反対に、ここまで体に負荷をかけて走ったのも、実は久しぶりだろうと思う。僕は、ゲートをくぐってから、もうしばらく歩き続けた。まずは、ゲート付近で配られている、紙コップのスポーツドリンクを貰った。つい、勢いをつけて飲んでしまい、むせ返った。その後、もう一度、ゆっくりと飲み干す。おいしい。ただ、その一言しか浮かばない。
陸上部のメンバーとも声を交わす。
僕は、完走認定書を貰いに、受付に行った。ゼッケン番号を見せ、プリントアウトしてもらう。
‘小田 かおる 記録 45分15秒’
僕は、思わず、目を疑った。実は、50分台で走れればいいな、と思っていたのだ。
確かに、高校生のトップランナーは10kmなら30分程度で走る。それから比べたら僕のタイムは速いわけでもなんでもない。
けれども、僕は、自分なりに、スピードをつける、という目標を達成することができた、と安堵した。最初、自主トレのコースを走り始めた時、チェックポイントをいくつも通過しているからというのもあるけれど、11kmほどのコースを1時間30分以上かけて走っていたのだ。
僕は、認定書を見ながら、ちょっとだけ、心の中で笑顔になった。
「かおるくん」
振り向くと、汗をかいたさつきちゃんが立っていた。
「お疲れ様。完走できてよかったね」
さつきちゃんも認定書を貰いに来たところのようだ。
「でも、自分にしたらやっぱりハードだったよ。さつきちゃんは、どうだった?」
さつきちゃんは、汗はかいているものの、まだ余裕のあるような様子に見える。
「楽しかったよ。何だかお祭りみたいで。でも、5kmはやっぱりあっという間だね。次は10kmを走ってみたいな」
その後、体育館で着替えをしてから再び屋外のイベントスペースに戻る。
参加者全員におにぎりや豚汁の引換券が配られており、列に並ぶ。なんとなく、さつきちゃんと2人で一緒に並んだ。
「あれっ、みんな、あそこにいる」
僕は、陸上部の男女5~6人で固まっているグループを見つけたので、手を上げた。
が、その5~6人は、手を横に振るような、お構いなく、お構いなく、という言うような意味不明のジェスチャーをして、僕に、いいからいいから、と言っているようだ。
もしかしたら、僕とさつきちゃんが2人でいるので、気を遣っているのだろうけれども。
さつきちゃんは、その様子を見て、何となく、恥ずかしがっているようだ。
僕は、とりあえず、何も言わずに、黙っておにぎりやらなんやらを受け取り、さつきちゃんと2人で芝生のスペースにどこか木陰がないかな、と移動した。
2人でご飯を食べる間、本当に他愛もない話をした。今までのパターンからいくと、さつきちゃんと他愛無い話をすることの方が、難しい話をするよりも困難だろうと思っていたけれども、単なる先入観だったようだ。さつきちゃんは、テレビもそれなりに観ているようだし、今流行りのアイドルグループのこともそれなりに知っている。漫画の話題も振ってみると、そこそこ2人でも会話が成り立ち、結構感動した。
さつきちゃんは、大学の醸造学科が舞台の漫画がお気に入りだと言っていた。
「わたし、なんとなく漠然とだけど、大学では食品関係の学科に行ってみたいな、なんて思ってるよ」
僕は、食品関係の学科、というと、あまりイメージがわかない。
「食品関係って、栄養士とか、ってこと?理系になるの?」
さつきちゃんも、まだ、勉強中のようで、
「たとえば、さっきの漫画の醸造学科だと、どちらかというと化学の分野になると思うけど。家政学科、っていうくくりもあるし、色んな分野にまたがると思う」
そういえば、自分は、もしこのまま大学に行くとすると、どういう分野に進みたいのか、考えたことはなかった。どの分野、というよりは、どの大学、という程度の発想しかなかった。
「かおるくんは、行きたい学科とかある?」
まさしく、今、‘考えよう’という発想がわいたばかりだ。
「正直、考えたこともなかった。漠然と文系かな、っていうくらいしか頭になかった」
さつきちゃんは、なぜか、僕の顔をじっと見ている。声には出さないが、んー、と考えているような顔だ。
「わたしの勝手なイメージだけど・・・かおるくんは語学系の学科なんて向いてるんじゃないかな」
「えっ、どうして?」
さつきちゃんは、くすっ、と笑って僕の顔をにこっ、と見つめる。いつもの笑顔とは微妙に違う、今まで見たことのない種類の笑顔のような気がする。
「だって、わたしとコミュニケーションを取ってくれてる時点で、かなりの文化のギャップに対応できる能力があると思うから」
僕の頭の中が疑問符で一瞬、満たされた。疑問符が消えない状態で、とりあえず、質問してみた。
「それって、結構真面目なコメント?それとも、結構戯れのコメント?」
僕の聞き方がおかしかったのか、さつきちゃんが、珍しく、くすくす笑う。
「ふふ。ごめんね。両方、両方。でも、わたしみたいな特殊な人間とコミュニケーションが成り立つということは、かおるくんは、なかなかやるな、って、本気で思うよ」
僕も、思わず、笑ってしまった。
「さつきちゃんは、特殊な人間なの?」
さつきちゃんは、自信満々にこう言った。
「じゃあ、試しに、わたしが特殊じゃない部分を言ってみて」
僕は、速攻で考えてみた。頭をフル回転させて考えてみる。
「・・・ごめん、すぐには出てこない」
さつきちゃんは、誇らしく、でしょう?という感じの表情になる。
「わたしは、自分のことを特別、っていう風には思わないけど、普通の人から見たらちょっとずれてるかも、っていう自覚は一応あるよ。
おばあちゃんやお母さんが言っているようなことって、やっぱり、女子高生がうんうんと頷くようなことばかりじゃないと思うから」
いつもに増してよくしゃべるさつきちゃんに、僕は多少の戸惑いを覚える。
気が付くと、2人とも、もうご飯を食べ終わっていた。
そういえば、フルマラソンに出場した長距離チームの3人はどうなったかな、とふと考えた。
「そろそろ、帰り支度しようか?」
僕は、段々と体が冷えてきた。2人ともジャージを着こんではいるけれども、今日を境に秋空に変わった空気は、乾いているだけでなく、芯に冷たさを含んでいるな、と、感じる。
「陸上部の人に挨拶しなくて、大丈夫?」
さつきちゃんが気を遣って言ってくれる。確かに、そうだと思い、僕は周りに誰かいないかと探した。
ちょうど、男女の走り幅跳びチームが芝生の少し離れたところに座っていた。武田さんもその中にいたので、僕は、挨拶に行った。
武田さんの他、2年の女子の先輩まで、さっきと同じような、意味不明の反応をした。
武田さんは、はっきりと口に出して、こう言ってくれた。
「気にしなくていいから。どうせ、みんな、ゴールもばらばらだし、適当にみんな帰るから、あの子と一緒に帰ってあげてよ。ほっておくと、嫌われるよ」
「いえ、本当にあの子はそんなんじゃないんですよ」
2年生の女子の先輩が、横から口を差し挟む。
「わかったから。仮に、今、そんなんじゃなかったとしても、これからそうなるかもしれないでしょ。わかったら、先輩の言うことは聞いとくもんだよ」
みんなして、行け、行け、と、しっしっと猫か犬でも追い払うような手つきで僕を追い立てる。別れ際、武田さんが、
「それと、明日から、本業の幅跳び一本だからね」
と、一言、気を引き締めてくれた。




