第46話 8月へ(その12)
その後、とりとめのない話や、それこそ、女同士の‘少し、真面目な話’なんかをしているうちに、2人は眠ってしまった。
‘縁’という言葉は、咄嗟に出たものではあったけれども、大体、当たっているとは思う。
わたしは、土砂降りの土曜日に、図書館で、かおるくんから「日向さんが、好きだ」と言われたあの言葉と、あの時のかおるくんの表情を、今でも覚えている。
かおるくんには、さっき、神社の境内で、「びっくりした」と言ったけれども、決してそれだけじゃなかった。
はっきりと、嬉しかった。それまでにも何回か神社で見かけて、何となく気になっていたかおるくんだったから、というだけじゃなくて、「好き」と言われたことが単純に嬉しかった。今まで生きてきた中で、男の人からそんなことを言われたことがなかったから。もしかしたら、口には出さないけれども、心の中で、わたしのことをそんな風に思ってくれていた人は、いたのかもしれない。これは、うぬぼれとかではなく、人の思いや好みは本当に十人十色だと思うので、私に対して、そんな風に思う人がいても、不思議ではないだろう。もし、人の思いが十人十色でなかったら、テレビや漫画や小説の中に出てくるような、イメージするような異性に対象は限定され、十人五色くらいの範囲に収まる人たちしか、恋愛したり、結婚したりすることはできないような気がする。
でも、あの時、わたしはその‘嬉しい’という気持ちだけで色々なことを考えるのは、ちょっとどうかな、と感じた。本当は、かおるくんに、何かの返事をする義務とか、それの制限時間も別に無かったはず。でも、わたしは、かおるくんには、早く何か反応を示してあげたいと思った。
わたしが、朝、何度もかおるくんを神社で見かけて、その表情を見ていると、ああ、この人は、何だかとても辛いことがあるんだなあ、と漠然と感じた。それは決して、ああ、この人いいなあ、とかいう、恋愛感情というようなものではなかった。
私が、図書館で雨宿りをしているかおるくんに声をかけたのは、神社でその様子を見ていたからというのがきっかけだったことは間違いない。単に、旭屋で会っただけだったら、それまでの学校でと同じ、にこっと会釈するだけだったと思う。
だから、何か辛いことがあるんだろうな、とわたしが思っていたかおるくんから、「好きだ」と言われたその言葉と文脈の間に、ものすごく飛躍があるような気がして、‘びっくり’した。でも、‘縁’っていうのは、まさしく、こんな気持ちとか思いの‘飛躍’みたいなものなのかな、と、思う。だから、わたしはまだ16歳だけれども、おばあちゃんが言った、「惚れた腫れたでは難しいですよ」というのが、なんとなく、分かる。よく、恋愛は理屈じゃない、みたいなことが雰囲気としてあるけれども、わたしはそれが恋愛の段階にとどまっている限りは、‘理屈’のような気がする。それがより進んで、ああ、これが実は‘縁’だったんだな、ってなった時に、それは理屈を超えたものになるんじゃないかな、って思う。
わたしが中学生のときに、ちょっといいなあ、って思ったテレビドラマの主題歌にこんな歌詞があった。正確な歌詞はもう思い出せないけれども、歌い出しすぐに「くだらないと吐き捨てる」というようなことを言い、次の瞬間、「溢れる熱い涙が、いつかきっと輝く」というように続いた。
その曲は、あまり有名じゃないバンドの曲だったけれど、ドラマの話題性もあり、初めてのヒット曲と言えるものになった。わたしは、‘くだらない’というような内容の言葉のあとに、‘きっと輝く’というような言葉が、本当にごく自然につながるこの曲が、とても好きだった。そのドラマのことが取り上げられた雑誌を当時立ち読みしたけれど、その曲のこの歌詞のことも取り上げられていて、「矛盾する言葉をつなげるこの感覚は、哲学的ですらある」というような解説がされていた。そして、事実、このバンドのボーカリストは、大変な読書家で、永井荷風や太宰治を愛し、森鴎外のことを曲にしたりしているとも解説されていた。
その頃は、わたしは、なんとなく、その時にわたしが持った感覚をうまく言葉で言い表せなかったけれども、その、矛盾する物事をつなげ、飛躍を生み出すものこそが、‘縁’なのだと、ようやく整理できた。もっと、ロマンチックな人ならば、‘運命’という言い方をすることもあるのだろうけれども、わたしにとっては、なんとなく、‘縁’という言葉の方がぴったりする。
どんなに好きあっている人たちでも、全員結婚して子供を産むわけではない。そこまで熱烈な恋愛をしなくても、自然に結婚して子供を産んで、図らずもまたその子供たちが結婚して・・・ということを繋いでいる家もある。理屈ではなく、人間ではなかなか手出しできない部分、‘縁’というのがなんとなくわたしの言葉としては合っている。
だから、かおるくんがわたしに対して持ってくれたのが仮に恋愛感情だったとしたら、なんだか、かえって、もったいないような気がした。多分、わたしのおばあちゃんやお母さんが「学生は好きとか嫌いとかいうのはもっと後」というのは、「惚れた腫れた」に気を取られていると、それが本当に‘縁’かどうか、見分けがつかなくなるという意味もあるのだと思う。少なくとも、わたしが、かおるくんのことが気になったのは、「恋愛感情」ではなかったのだから。わたしのなんだかよく分からない、気にかかる、というその感情の結果、かおるくんの、「好きだ」という言葉を引っ張り出してしまったのだとしたら、そこにだけとらわれるのもかえって申し訳ない気がする。
かおるくんが男だからというだけで、えんちゃんやわきさんとするような話ができなかったり、おばあちゃんやお母さんがしてくれるような話について、男の子の意見を聞く機会がないというのは、もったいないような気がする。
だから、わたしは、「好きだ」と言われたことを素直にお母さんに報告し、でも、わたしは、何か縁があるような気がするから、彼とか彼女とかじゃなく、かおるくんと、色々な話をすることを認めてほしい、と、お母さんに自分から頼んだのだ。
お母さんは、さすがに自分の娘のこととなると、簡単には信じられないようだったけれども、「分かった。でも、その子の顔を一回見させて」、と言ってくれた。
それで、次の日の日曜日、電話してかおるくんに、来てもらった。
わたしが、かおるくんのことを‘かおるくん’と呼んで、かおるくんにわたしのことを‘さつき・・・ちゃん’って呼んでもらうようにお願いしたのは、かおるくんの‘気持ち’に、ほんの少しだけ答えてあげたいと思ったから。でも、かおるくんの本当の気持ちを考えたら、いつか、やっぱりちゃんと言ってあげたい。
「好きって言ってくれて、すごく、嬉しかった」
でも、そんなことを言うことがあるとしたら、それこそ、わきさんが言った、
「まるで、結婚するみたい」
というような状況のときだけなのかもしれないけれども。




