第26話 スピードをつける(その2)
「カールルイスって知ってる?」
三年の木下さんが唐突にみんなに問うた。
「名前は聞いたことあります。100mのスーパースターだった人ですよね?」
二年の武田さんは胡坐からしゃがむように座り直して言ったあと、スポーツドリンクをごくごくと飲んだ。
「100mももちろんなんだけど、カールルイスが世界的に知られたのは、走り幅跳びなんだよ」
僕もロサンゼルスオリンピックの英雄だった彼の名前をお父さんから聞いたことがあった。また、お父さんは、ロサンゼルスオリンピックのファンファーレがいかに素晴らしいかを語り、you-tubeを検索してその演奏が記録された映像を見せてくれたことがあった。
木下さんは、更に語り続けた。
「カールルイスは、空中を走ったんだ」
チームリーダーの松本さんは知っているようだ。その上で木下さんの話を楽しそうに聞いている。それ以外の僕たちは、空中で走る、という映像を想像できず、木下さんの話の続きを目で促した。
「彼は100mで金メダルを獲るその全力疾走で踏切板までを芸術のような美しいフォームで走る。そして、踏切の足にその芸術作品を完成させようという意思を込めて、力を乗せる」
僕たちは、まだ映像を完全には想像できなかったが、木下さんが物語のように語るその描写だけで、カールルイスがどのような人間であるかを理解できた。
「でも、力を点に込めてそこで芸術作品が断絶する訳じゃないんだ。彼はその踏切の位置も含めて一つの作品のまま、空中でも走り続ける」
僕は、一瞬、目を閉じてみる。空中で走る。まるで映画のワンシーンのような美しさを想像する。
「もちろん、地上を走っている時のフォームのままじゃない。空中を走る専用のフォームだ。でも、両手・両足・全身を使って、ほんの一瞬のはずなのに、ストップモーションをかけた、あるいは、一秒に数十回のシャッターを切った写真のような、美しい芸術作品がフィールドに浮き上がるんだ」
木下さんは、皆の眼を一人ひとり、区切りながら観た。僕は、目頭が熱くなった。
「砂場に着地し、尻の跡が飛距離の最長点になっても、そんなことは問題じゃない。そのすべてが、‘美しい’、としか言えないんだ」
「胸にきますね」二年の武田さんが木下さんにほほ笑みながら言った。
「だろう?」木下さんは更に問い返す。武田さんは木下さんに、
「木下さんの熱い語りにですよ」と、答える。
木下さんは、少し照れ笑いをして更に続ける。
「俺の語りも熱いかもしれないけど、俺はただ観て、自分の感じたままを小学生の感想文のように語っただけだ」
松本さんも木下さんの感情に加わる。
「木下が言うのは本当だ。小学生が夏休みの読書感想文で「主人公はこうなんだと思いました」って、それこそ何の起伏もない言葉を並べるのは生徒のせいじゃないよ。自分には必要のない本を読むから、そんなことになるんだ。それじゃ、世の中のどこかの誰かのために必要とされているその本にとっても可哀想だ。」
僕は、二人の話に引き込まれている。松本さんは更に続ける。
「カールルイスの跳躍は俺たちに必要なものだ。フォームが美しいから美しいんじゃない。スーパースターだから、ハンサムだから美しいんでもない。仮に不細工でも、不潔でも、人間として美しい、と思えるような、そんな跳躍なんだ」
松本さんが話し終わった後、ポプラの木陰を、涼やかな風が、さあっと通り過ぎて一瞬の沈黙があった。
「・・・・と、木下や俺の場合は思う」松本さんは、照れ笑いを浮かべ、木下さんに、「な」、と眼で合図をし、ぱん、と手を叩いた。
「じゃあ、不細工で不潔な我々も、その美しさを求めて、もう一跳びしますか」
武田さんの言葉に、「よっしゃ」と全員で尻についていた草と土を払い、砂場へ向かって歩き始めた。




