第2話 はじまりは今(その2)
僕は、高校に入学したひと月前の4月から、徒歩通学を始めた。
僕のように、家からの距離が比較的近い人間は、自転車通学が認められず、徒歩での通学となる。けれども、実は、僕の実際の通学距離は、自転車通学が認められるくらいの長い距離になる。最短距離で高校に向かった場合、自転車通学がぎりぎり認められない約2kmだが、僕は毎日、その倍ぐらいの約4kmを歩いて通っている。
僕は、通学の時間だけでも、学校から逃げたいのだ。
この高校が嫌いな訳ではない。入学して約1か月、中学時代からの友達も何人かいるし、高校で初めて会った友達も何人もできた。日向さんのように、見ているだけでなんとなく心がすっとするような女の子も教室にいる。授業は予習が求められるので大変ではあるが、今のところは何とかなっている。けれども、言いようの無い、漠然とした不安が、僕にはある。僕は、意味もなく、無性に悲しくなることがある。多分、僕のお父さんが病気になったことと関係あるのだろうと思う。僕のお父さんは、僕が中学2年生の時に、うつ病になった。
僕が今朝見た老婆は、古い木造の家の窓で優しくほほ笑んでいた。
デパート横からこの町の大きな神社にまっすぐに続く大通りの脇にその古い木造の家は建っている。僕は、高校に通い始めて一週間ほどしてから、最短距離ではなく、大きく遠回りし、神社にお参りしてから学校に向かうようになった。神社に行く際に、デパート横の大通りを歩くこともあれば、大通りから何本か奥に入った裏通りをくねくねと歩くこともあった。
今朝、朝日が、大通り沿いに一本の光を神社に向かって照らすような美しい天気だったので、お日様を背に歩きたくて、大通りを通った。
この1か月ほど気が付かなかったが、大通り沿いのお寿司屋さんの隣にその古い木造の家は建っていた。前から何人かの幼稚園児たちがはしゃぎながら走って向かってくるな、と思い、ふと右側に視線を移すと、その老婆・・・おばあちゃんが窓を開け、幼稚園児たちの様子を見てにこにことほほ笑んでいたのだ。窓には名も分からない、小さな可愛らしい白い花の鉢が置かれていた。その花の隣で、おばあちゃんは楽しそうに幼稚園児たちの様子を眺めていた。
僕は、歩きながらだけれども、おばあちゃんの顔と小さな白い花をしばらく見ていた。
なんだか、少しだけ、胸の中をくすぐったいもの溢れたようで、心の中で僕もほほ笑んでいた。
今朝のおばあちゃんの笑顔と、今僕がちらちらと見ている日向さんの笑顔を比べてみる。日向さんには失礼かもしれないが、なんとなく、似た笑顔だと思った。見ていてなんだか安心するような笑顔。胸の中にくすぐったいものが溢れ、自分自身の防御態勢が完全に解除されるような、そんな笑顔だな、と思った。僕がなぜ日向さんのことが気になるのか、分かったような気分になった。笑顔が全ての人を安心させる訳ではない。鋭く、緊張を強いられるような笑顔もある。
「かおるちゃん」
僕が日向さんの笑顔を鑑賞していると、小学校時代からの友達である日野 太一が話しかけてきた。慌てて、次の授業の準備をしているふりを再開する。
「かおるちゃん、今日、旭屋に行かない?」
旭屋はデパートの中に入っているそこそこ大きな本屋だ。
「いいけど。」
僕は、久しぶりに何かいい本が出てないか見たいと思ったので、太一の誘いをOKした。
「旭屋で今日、サイン会があるんだけど。」
太一がサインを欲しがるような有名人は想像がつかなかったので、僕は太一に誰のサイン会かと訊いた。
「知らないかもしれないけど、村松 悠作っていう作家だよ。若手で、「猫もけ」っていう、猫がいるカレー屋の日常の出来事を書いた小説を読んで、その人の本を割と読むようになったんだ。」
「‘猫もけ’ってどういう意味?」
僕は太一が唐突に言った不思議な小説のタイトルになんとなく興味を持った。僕が猫好きだということもあるのだけれど。
「説明は難しいなあ。その本を読んでみればなんとなく分かってもらえると思うんだけど。今度、猫もけの続編の「犬ちり」っていう本が出たんでそのサイン会なんだ。」
僕は太一にもう一つ訊いた。
「部活が終わってからでも大丈夫かな?多分6時頃になると思うけど。」
「サイン会は夕方から閉店までやってるから大丈夫だよ。こっちも部活は6時頃に終わるから。終わったら校門で待ってて。」
僕は、‘犬ちり’の意味は訊かなかった。




