第16話 はじまりは今(その16)
駐輪場まで日向さんと歩いた距離の記憶がはっきりしない。多分、何か挨拶は交わしたと思うし、日向さんの表情もちらっと確認しようとしていたはずなのだけれども。
家まで自転車をこいでいる途中で、少し雨が降ってきた。髪の毛が湿っぽくなった程度でずぶ濡れになった訳ではないが、気持ちはとても沈み込んだ。
僕は夕ご飯を食べ終わって、ベランダに置いてある折りたたみ椅子に腰かけ、ぼんやりと月を見上げていた。夕方の土砂降りの後、急速に雲が流れて行ってしまったようで、まだまばらに残っている雲の隙間から、半月の月が光っている。僕は、嫌なことがあった日には、月を見上げる。その日あったのがちょっと嫌なことであれば、月を見ている内に自分の表情が普段の表情に徐々に戻っていくのが、鏡を見なくても分かる。
ものすごく嫌な、悲しいことがあった日には月を見ていると、目がじわっとして、涙が浮かんでくる。そして、その目のままで明るさは高照度のそのままだが、滲んだ月を見るのが好きだ。
今日の夕方の出来事は、決して嫌なことではない。むしろ、今まで満足に会話もなかった日向さんと話し、日向さんの横顔を見、日向さんに思わず自分の思いを打ち明けたことは自分という人間の枠を超えた快挙とも言えることだったと思っている。つまり、僕は、今日の出来事が嫌なのではなく、これからどんなことが起こるのだろうとビビり続けていることが嫌なのだ。