第11話 はじまりは今(その11)
旭屋の文庫本コーナーには、とても美しい表紙の本が棚に飾られるようにして並べられている。平台に積まれている本や、背表紙ではなく、表紙を前面にして棚にレイアウトされている本。ハードカバーよりも手ごろな価格の文庫本とは言え、学生の分際では買ってしまってから「間違った」では済まないので、表紙だけで判断することはできるだけ避けるようにしている。もちろん、表紙や書店員さんが書いたポップや、著者のこれまでの作品紹介や経歴、といったものも参考にするが、僕が比較的頼りにするのは、「あとがき」や「解説」だ。著者本人の書いたあとがきもあれば、同業者や別の作家が書いたあとがきもある。「解説」はほぼ著者以外が書いたものしか無いはずだ。
そして更に頼りにするのは、その本の書き出しだ。
僕が小説は素晴らしいと感じるのは、日常と非日常を瞬時に行き来できるという部分だ。衝撃的な書き出しで始まる小説は確かに人を引き付けるのかもしれないが、僕はもっと普通の方がリアリティを感じられる。リアリティを感じる方が小説という非日常の中に入りやすい。あまり衝撃的な内容のものだと、「こんなことが都合よく(都合悪く)起こる(起こらない)はずがない」と感じ、常に醒めた状態で作品という非日常の中に溶け込んでいけない。また、それだと、瞬時に日常に戻ってこれない。文庫本を開いたり閉じたりした瞬間に日常と非日常を行き来できる、というのが僕の思い描く小説像だ。これは単に僕自身の好みだというだけで、他の人はまた違うだろう。
「小田!」
背中がびくっとして振り向こうとした瞬間に、後頭部をぱんとはたかれたようだ。高校入学以来、忘れかけていたこの嫌な感覚が、瞬間的に脳から体全体に伝わった。