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 ミラベル・クウィントンがハーンの屋敷に到着したのは、手紙を出してから四日が過ぎた日暮れである。

 富裕層でしか持ち得ない、自家用の最新型ビークルに乗ってやってきた婚約者は、豊かな巻き毛を揺らし、鳶色の瞳をきらめかせて、アルバの腕に飛び込んだ。

「久し振りだね、ミラベル。よく来てくれた」

「本当に久し振りですわよ、アルバ様。この前会って下さったのがいつのことだったか、もう忘れてしまうところでした」

「ごめん。どうにか時間を見つけて、会いに行ければとは思ってるんだけど」

「思ってるだけじゃ実現しません。行動なさって下さいな」

「了解」

 アルバは笑い、後ろに立つ弟を、ミラベルに紹介した。

「ミラベル、この子がキットだよ。キット、この人は僕の婚約者のミラベル。君の義姉ねえさんになる人だ」

 兄の婚約者を紹介されたキットは、ズボンの裾を握りしめて、じっとミラベルを見つめた。少し緊張しているらしい、とアルバは察した。

 ミラベルはキットの正面で中腰になり、細くしなやかな右手を差し伸べた。

「はじめまして、ミラベル・クウィントンと申します。あなたのことは、手紙で伺っておりますわ」

 差し出された手に戸惑い、キットはその手とミラベルとアルバに、せわしなく視線を移していった。

「握手だよ、キット。教えただろう?」

 諭すように言うと、キットはおずおずとミラベルの指先を握った。

 ミラベルは柔らかく微笑むと、キットの頭をそっと撫でた。キットは嫌がらなかった。

 

 

 ミラベルは、湖へのピクニックの日まで、屋敷に宿泊することになっている。若君の婚約者が数日泊まるとなって、ハーン家の屋敷はにわかに慌ただしくなった。

 未来の大公爵夫人である。ハーン家の使用人ともあろう者たちが、粗相を起こしてはならない。メレディスとカーロッタは、いつにも増して神経を尖らせ、使用人たちの仕事ぶりに目を光らせていた。

「そんなに気を遣われては、かえって申し訳ないですわ」

 と、恐縮するミラベル。たしかにメレディスとカーロッタは、少々張り切りすぎだった。

 アルバは苦笑し、家臣らをフォローした。

「気を遣わせてやってくれないか。みんな、君をもてなしたいんだよ」

「その気持ちは充分伝わっておりますわ。とても感謝しています。でも」

 ミラベルの眉が、悩ましげに歪む。

「私、キットのことが気がかりです」

「キット? なぜ?」

「あなたも皆さんも、私にかかりきりで、ちっともあの子を構わないんですもの。寂しい思いをさせているに違いありません」

 言われてみればそうかもしれない。

 使用人たちは、ミラベルのために甲斐甲斐しく働いている。アルバはアルバで、たまにしか会えない婚約者との貴重な時間を満喫すべく、空いた時間は彼女と過ごしている。キットと遊んでやることはなかった。

 キットの相手をしているのは、ヴェルゼン氏だけだ。

「お兄様を盗られたと、やきもちを妬いているかも」

「キットが? それはないんじゃないかな。あの子はいつだって奔放だから」

「本当にそうお思いになりますの?」

 ミラベルは疑わしげに首を傾げる。

 アルバがミラベルとしか過ごさないからといって、キットがやきもちを妬くとは思えなかった。誰に叱られようがどこ吹く風のキットである。口うるさい家人に構われなくなって、むしろせいせいしていることだろう。

(あの子はそういう子だ)

 アルバはキットを理解しているつもりだった。


 

 湖へのピクニックを明日に控えた午後。

 アルバはミラベルに使わせている客室で、お茶を楽しんでいた。お茶の用意をするのは、やはりカーロッタだ。ミラベルお付きのメイドも、側に控えている。

「明日はこの帽子をかぶって行こうと思うのですけど」

 うきうきした表情で、ミラベルが衣装ケースから持ってきたのは、薄橙色の花飾りの付いた、つばの広い帽子だ。

「近頃のお気に入りですの。いかがでしょうか?」

 ミラベルが帽子をかぶってみせる。アルバにしてみれば、少しつばが広すぎるような気もするが、ファッションについては女性と意見を交換するのではなく、気前よく聞き耳を立ててやることだ、というカーロッタの教えを守り、

「うん、似合ってるよ」

 と、頷くに留めた。傍らのカーロッタも、アルバの対応に満足気に頷いた。

 事実、その帽子はミラベルによく合っているので、嘘ではない。

「花飾りは、まるでクレメアの花のようだね」

「ええ。ピクニックのために、花飾りを合わせて付けましたの。明日は晴れるとよろしいですわね」

 ミラベルは、鳶色の瞳を窓の外に向けた。少し曇っているので、雨が心配される。

 カチャ、という音がして、扉が開いた。ノックはなかった。訪れたのはキットだ。

「キット、どうしたんだい? お客様の部屋には、ノックをしてから入るようにって言っただろう」

 アルバに柔らかく叱られたキットだが、悪びれた様子もなく、とことこと部屋に入ってきた。小さな両手で、包み込むようにして何かを握っている。その手を、アルバとミラベルへ精一杯伸ばした。

「あら、何ですの?」

 ミラベルが問うと、キットは両手を広げた。

 途端に、小さな緑色の物体がぴょんと飛び出し、アルバたちが囲んでいるテーブルの上に乗った。カエルであった。

 カエル嫌いなカーロッタが、普段の彼女らしからぬ悲鳴をあげた。驚いた拍子に、カーロッタは手にしていたティーポットを取り落とした。陶器のティーポットは、甲高い音を立てて壊れた。中身の紅茶があたりにぶちまけられ、絨毯やテーブルクロスを汚し、果てはミラベルのスカートにまで跳ね、茶色いシミを作ってしまった。

「も、申し訳ございません!」

 慌てたカーロッタが、急いでスカートのシミを落とそうとする。

「いえ、いいんですのよ。そんなに慌てないで下さいな」

 ミラベルは優しく言い、カーロッタをなだめる。それから、お付きのメイドに、着替えを用意するよう命じた。

「本当に申し訳ございません。取り乱してしまい……」

 誇り高いメイド頭は、自ら演じてしまった失態に赤面し、身を縮めこませながら、割れたティーポットの片付けを始めた。

「カーロッタ、素手では危ない。掃除係を呼びなさい」

 アルバの言葉に、カーロッタは戸惑いながらも従った。

 アルバは、キットの方に向き直る。弟は、自分が放ったカエルを、窓の外に逃がしていた。

「キット、なんてことをするんだ!」

 今度は声を荒げて叱る。今までにない兄の声色に、さすがの弟も、びくっと肩を震わせた。

「見なさい。君の勝手な行動が引き起こしたことを」

 アルバはキットから目を逸らさず、床の惨状を指差した。

 怒りがふつふつと湧き上がるのを感じる。よりによってミラベルの前で、こんなことをするなんて。

「何がしたかったのか分からないが、君のせいでこうなったことを理解するんだ」

 叱られたキットの表情が、みるみるうちに不機嫌に歪む。

「アルバ様、もうそこまでになさって。子どものいたずらですわ」

 ミラベルはなだめるが、アルバは首を横に振った。

「いや、一度はよく言い聞かせないと、いつまでもわがままで自分勝手な行動をとる人間になってしまう。この子のためには……」

 と、その時。キットがミラベルの帽子を奪って、部屋から走り出て行った。

「あっ! キット!」

 アルバは急いで後を追った。その後ろから、ミラベルも駆けてくる。

 キットは玄関ホールへと続く階段を、手すりを滑って降り、玄関口まで走った。

「キット、待つんだ! 帽子を返しなさい!」

 キットは玄関前で立ち止まり、くるりとアルバを振り返る。

 何事が起きているのか、と、ホールに使用人たちが集まってきた。メレディスとカーロッタの姿もある。

「さあ、それをこっちに。いたずらはもうおしまいだよ」

 アルバは手を差し伸べた。

 キットは反抗的な眼差しで兄を睨み上げ、帽子の花飾りを鷲掴みすると、乱暴に引きちぎった。

「まあ」

 背後のミラベルから、かすかな声がもれた。

 キットは無惨に散った花飾りと帽子を、アルバの足元に投げ捨てた。

 瞬間、アルバの中で何かが弾けた。

 差し伸べた手を振り上げ、キットの頬を叩いた。

 乾いた音が、玄関ホールに異様に響く。周囲の人々が息を呑む。

「アルバ様!」

 後ろから婚約者に腕を掴まれたアルバは、そこで我に返った。気がつくと、キットと自分の間には、メレディスとカーロッタがいた。

 メレディスはアルバの前に立ちふさがり、カーロッタはキットを守るように、その身体に腕を回している。

「アルバ様、どうかお鎮まり下さい。罰を与えられるのでしたら、私めが坊ちゃまの代わりにお受けいたします」

 メレディスの必死の訴えに、アルバは唇をわななかせた。

 執事の肩越しに、弟の顔が見えた。

 弟は柳色の目をいっぱいに見開き、信じられない、というようにアルバを見ていた。

 柔らかな左の頬が、朱に染まっている。けれど、キットは涙を流さなかった。

 弟を打った手が震えているのを感じるアルバは、言葉を失ったまま、呆然と立ち尽くした。




 執務室の椅子に腰掛け、どこともない方向を見つめ続けて、どれくらい過ぎただろうか。

 いつの間にか日は暮れ、部屋の中は暗くなっていた。

 部屋が暗くなっていたことに気づいたのは、誰かの手によって明りが点けられてからだった。

 顔を上げると、心配そうなミラベルが、入り口の前にいた。

 ミラベルはアルバに近づくと、細い指で彼の髪に触れた。

「大丈夫ですか?」

 慈しみにあふれる口調で、そっと言葉をかけてくれる。

「叩いてしまったよ、あの子を」

 まだ手が震えているような気がして、アルバは両手を握り合わせた。

「あの子は喋れないんだ。僕に殴られても、文句一つ言えないんだよ。なのに僕は、そんなあの子を叩いた……最低だ」

 自己嫌悪で死にたくなる。

 胸に溜まった思いを吐き出したくて、アルバは滔々と語り始めた。


「どうして言うことを聞いてくれないのか。どうしていつも僕を困らせるのか。どうすればちゃんとした躾が出来るのか。そればかりを考えていたよ。あの子のために? いいや、それだけじゃない。本当は僕のためにだ。僕の弟として、ハーン家の人間として、どこに出ても恥ずかしくないようにしたかったんだ。結局、自分が恥をかいて傷つくのが厭だっただけなんだ」


 アルバの目から、熱いものが伝い落ちた。


「僕はいつも、『父のようにはなりたくない』と思っていた。父は有能だけれど、物事の全てを自分の思い通りにしようとして、実際それを実現してきた。母や僕、周りの人たちのことなんて、何も考えずに。全て自分の成功のための駒でしかなかった。父が憎いわけじゃないけれど、絶対そんなふうにはなりたくないと思っていた。

 それでも、ミラベル、分かるんだよ。僕は日に日に父に近づいていってる。昔は理解できなかった父の考え方が、分かるようになってきているんだ。父のやり方は非情ではあるけれど、とても合理的だった。納得せざるを得ないくらいに。

 僕が父と同じ人間なら、いつか君や僕らの子どもに、僕や母と同じ思いをさせてしまうことになる。それが怖いんだ」

「アルバ様……」

「この頃考えるんだ。キットを引き取ったのは、正しいことだったのかって。僕は、自己満足を満たすためにあの子を引き取っただけで、本心からキットのためを思っていたわけじゃないんじゃないだろうか。僕はただ、キットから自由を奪っただけだったんじゃないだろうか」

 アルバは組んだ両手を机に置き、その上に額を乗せて顔を伏せた。

「あの子は僕の打算を見抜いているんだよ。僕が心から、弟のことを考えていたわけじゃないことを、肌で感じ取っていたんだ。こんな僕に、心を開いてくれるはずがない」

 肩に触れる手のぬくもりを感じた。それから、小さなため息一つ。

「メレディスさんのことを、とやかく言えた義理ではありませんわね」

 顔を上げて婚約者を伺う。ミラベルは、わざとらしい困り顔で、アルバに言う。

「アルバ様も、充分に悲観的思想傾向の強い方ですわ。どうしてそのような、寂しいことばかり仰いますの?」

「ミラベル……」

「キットを引き取ったのが間違いだったかもしれないなんて、決して口に出してはいけないことですわ。キットに対して一番失礼です。あなたが無理矢理連れてきたのでなければ、あの子も自分なりに考えて、アルバ様のもとに来たはずです。その決意を、『間違いだったかもしれない』で片付けてしまわれますの?」

 ミラベルは、机の上のアルバの手を取った。

「たとえ間違ってしまったのであれば、『間違いではなかった』と言える時が来るように、最善を尽くすべきです。それが、あなたがキットに対して背負う責任ではないでしょうか」

「最善を」

「そうですわ。あなた以外の誰が、キットに道を示すのです? 誰もいません。あなたしかいないのです。

 それから、あなたとイグニス様は親子ですけれど、全く違う人間です。私は、アルバ様はアルバ様らしくいてくださると信じています」

 婚約者は、励ますように、にっこりと笑った。

「僕に、出来るだろうか。キットは、僕を許してくれるかな」

「大丈夫ですわ。あなたが間違っていたのかどうか、いつかキットが示してくれます。アルバ様、これだけお答え下さい。キットを愛してらっしゃいます?」

 答えるのに迷いはなかった。

「もちろんだよ」

 手がかかって、時々苛つかされる。けれど、好奇心旺盛で無邪気な弟。一緒に暮らし始めて、日に日に愛おしさが募っていく。

「なら、もう何の問題もありませんわね」

 ミラベルはアルバの手を引き、椅子から立ち上がらせた。

「ねえ、アルバ様。キットは私たちに春が訪れたことを、教えてくれたのだと思うのです」

「え?」

「カエルですわ。冬眠から目覚めたカエルを捕まえてきて、『暖かくなったから、もう春が来たよ。クレメアが満開になるよ』と」

 そうだったのかもしれない。閉じた目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。

 しばらくの間、アルバは感情にまかせて泣いた。ミラベルは何も言わず、ただ寄り添っていてくれた。

 涙とともに、悲観的な考え方も流れ落ちていったようだ。再び目を開けた時には、幾分が心が晴れていた。

 その時、扉がノックされ、慌てた様子のメレディスが、挨拶もそこそこに報告する。

「アルバ様! キット坊ちゃまのお姿が、どこにも見当たりません!」


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