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 廊下の向こうから、甲高い悲鳴が聞こえた。

 複数の慌ただしい足音、何かが割れる音、叫ぶ声。

 一度にたくさんの騒音が巻き起こり、書類に署名するアルバは、その手を止めざるを得なかった。

「またか」

 短く呟き、こめかみ指先で押す。

「そのようでございますね」

 アルバの書き物机の側に控えるメレディスも、困り顔で頷いた。

「今度は何が割れたと思う?」

「聞こえた方向から考えまして、カルムの壷でしょうか」

 口に出してから、メレディスの顔色がみるみる青くなった。

「な、なんということ! 先代様のコレクションが!」

 ひいい、と哀れっぽい声を上げながら、執事はあたふたとアルバの執務室から出て行った。あまりに慌てていたために、アルバの前を辞する挨拶も忘れていった。

 挨拶忘れくらいは、大目に見るつもりである。

 もし本当にカルムの壷が割れたのなら、先代……アルバの祖父が収集した骨董品の一つが失われたことになる。残念ではあるが、焼き物は割れるものだ。怪我人が出ていなければ、それでよしとしよう。

 問題にすべきは、騒音の原因である。キットだ。

 

 キットがこの屋敷に来てから、早一ヶ月。怒涛の一ヶ月であった。

 とにかく言うことを聞かない。靴を履かせてもすぐに脱ぎ捨て、裸足で屋内外を走り回る。食事は手づかみ。カトラリーの使い方を教えても、フォークやナイフを投げて遊ぶ始末。誰彼問わずいたずらを仕掛け、その被害は止まるところを知らない。風呂が嫌いで、メイドが三人かがりでないと、身体を洗うことが出来ない。

 気に入らないことがあれば、癇癪で風を巻き起こすこともしばしばだ。ハーン家に住み込む使用人たちのほとんどが、魔法に縁がなく、魔導の現象やその使い手に対して、どう対処してよいのか分かっていなかった。

 キットのはちゃめちゃ振りは、挙げだしたらきりがなかった。使用人たちは、アルバの弟であるという立場にいるからこそ、キットを甲斐甲斐しく世話してくれるものの、傍若無人な野生児に、手も足も出なかった。

 アルバを除けば、キットに対して平常心でいられるのは、イグニスかカーロッタくらいだろう。

 イグニスはもともと、キットに関心がない。屋敷に来た当日、イグニスの寝室にキットを連れて行ったが、父はキットを見ても何も反応を示さなかった。キットもまた、相手が自分に無関心なのを悟ってか、イグニスを無視した。

 メイド頭であるカーロッタは、多少のことでは動じない。アルバの弟だからといって甘やかすこともないし、キットがどんなに騒ぎまわっても平然としている。

「子どもが暴れるのは当然です。アルバ様のご幼少のみぎりは、おとなしすぎたのでございます」

 これがカーロッタの持論だ。

 いずれ成長していくにつれ、それ相応の落ち着きは、自然と身につくものだから、焦る必要はない。と、カーロッタは言う。

 それはそうだろう、とアルバも思う。だが、キットについてもっとも心配な点は他にある。

 弟は、まったく喋らないのだ。

「おお」とか「ああ」といった唸り声らしきものは発するが、言葉を口にしたことが一度もない。

 メレディスがホーステイルヤードで聞いた話によると、もともとキットは極端に口数の少ない子どもであったそうだ。母親が側にいれば、どうにか会話もできたが、一人になると近所の住人相手でも、途端に無口になる子どもだったという。

 それが、母ナリアが亡くなってからは、一切喋らなくなってしまったのだ。

 キットは表情豊かな子だ。喜怒哀楽がはっきりと分かる。しかしどんなに楽しそうでも、笑い声を上げることはない。

 このまま話すことを知らずに、成長してしまうのではないか。

 どうすれば言葉を取り戻してくれるのだろう。

 無言のままはしゃぐ弟に、アルバは一抹の不安を抱かずにはいられなかった。


 

 キットについての心配事は尽きないが、感心させられる点もあった。旺盛な好奇心だ。

 キットはまだ字が読めない。六歳といえば、もう小学校に上がっていなければいけない年頃だが、今のままのキットを学校にやるわけにはいかないので、家庭教師を雇い入れて、勉強を見てもらっている。

 始めは、この家庭教師もキットのいたずらの犠牲になり、嫌気がさして早々にやめてしまうかもしれない、などと考えていた。

 しかしながら、この家庭教師――ヴェルゼン氏は、子どもの扱いには慣れているようで、どういう手段ならキットに学習することを覚えさせることができるのか、すぐに察した。

 まず始めにヴェルゼン氏は、持参した動物図鑑をキットに見せてみた。緻密な図が色鮮やかに描かれている図鑑だ。キットはすぐに興味を示し、様々な動物たちの図に釘付けになった。

 氏は次に、植物の図鑑を差し出した。キットはこちらにも興味を持った。

「お屋敷にある、自然物の図鑑や事典を、なんでも結構ですので、坊ちゃまに読ませて差し上げて下さい。絵を眺めるだけでもよいのです。まずは、坊ちゃまがどのようなものに興味をお示しあそばされるのか、それを知ることが肝心です」

 ヴェルゼン氏の言葉に従い、アルバは屋敷の図書室にある図鑑や百科事典を、好きなだけキットに与えた。

 キットは目の前に積まれた分厚い本の山を、目を輝かせて見上げ、その中身を食い入るように見るのだった。

 陸の生き物、海や淡水の生き物、鳥。木々や草花、昆虫、天体、自然現象、鉱物。そしてドラゴンを始めとする、幻想生物たち。

 キットが興味を持つのは、人間以外の全てだった。


 

 

 アルバは毎朝、イグニスの寝室を訪ねる。

 今朝もいつもどおり、ベッドに起き上がった父に朝の挨拶をして、今日こなすべき仕事の内容を確認した。

 ここ数ヶ月で、父は随分と痩せた。首筋や手足の骨が浮き出て、肌は土気色だ。髪も艶を失っていて、年齢以上に老いて見える。目のぎらつきだけは、健康だった頃といささかも変わりがなく、それがかえって、父の死期が徐々に近くなってきていることを表しているようで、アルバには辛かった。

 アルバとの会話が途切れ、イグニスは薬湯を口に含んだ。

「屋敷に入り込んだ“猫”が、うるさくてかなわんぞ」

 低く、それでいて威圧的な声だ。

 父が、自分からキットの話題に触れるのは、これが初めてである。

「キットのことでしょうか。あの子は“猫”ではありません。僕の弟であり、父上の息子です」

 イグニスは、ふん、とかすれた嘲笑を見せた。

「お前たちが『キット』と呼んでいるのではないか」

「他に呼ぶべき名前がないからです。父上、そろそろあの子に名前を授けて下さい。でなければ、いつまでたってもキットのままです」

 ハーン家に子どもが生まれた時は、当代の家長が名付ける掟だ。母親違いとはいえ、キットは誰あろうイグニスの血を引いている、れっきとしたハーン一族である。イグニスに名付けてもらわなければならない。

「飼い猫にまで名付ける掟はない」

「ですから、“猫”ではありません」

「今のままでは、まるで猫そのものだ。あれがハーンの人間だなどと、この私が認めると思うのか、痴れ者」

 イグニスの目がぎらりと光り、アルバを睨む。

「あれが猫ではないというのなら、さっさと人間にしろ。お前が拾ってきた猫だ、お前が責任を持て」

 アルバは言葉を返せず、おとなしく頭を下げるしかなかった。


 


 その日は爽やかな緑風の吹く、気持ちのよい晴天だった。

 領首代理としての仕事が一段落したアルバは、気晴らしにと、屋敷近くの丘にキットを連れて行った。

 カーロッタとヴェルゼン氏も一緒だった。

 カーロッタはお茶のセットを用意してきており、丘の上で敷き布を広げ、アルバたちに香り高い紅茶と茶菓子を出してくれた。

「いつもながら、用意の行き届いていることですな、メイド頭殿」

 絶品のカップケーキに舌鼓を打つ家庭教師に、カーロッタは慇懃に頭を垂れた。

「ありがとうございますヴェルゼン様」

 アルバはカーロッタの淹れるお茶が好きだ。どんな工夫をこらして淹れるものか、冷めても味が落ちないのだ。

「良い天気だな。もうじきクレメアの花も満開になるのじゃないかな」

 抜けるような青空を見上げ、アルバはぽつりと呟く。

 クレメアは、バトランゼル各地に咲く野の花である。薄い橙色の花びらがたくさんある、小さな花だ。

「ここから少し離れた所にある湖のほとりが、クレメアの群生地でございますよ」

 カーロッタは、アルバのカップにお茶のおかわりを注ぐ。

「今は八分咲きくらいでしょうか。満開になるのは、あと一週間ほどでしょうな」

 ヴェルゼン氏は、自慢の顎鬚をなでつけながら言った。

「満開の頃、キット坊ちゃまを連れて行って差し上げてはいかがですかな、アルバ様。湖に行かれるのは初めてでしょう?」

 家庭教師の提案に、カーロッタが賛成する。

「それはようございますね。アルバ様、ぜひそのようになさいませ。私は食事の準備をしてお供いたします。それに、ミラベル様もお招きいたしましょう」

 たまには良いかもしれないな、とアルバも同意した。

「うん、息抜きによさそうだ。カーロッタ、ミラベルに手紙を書くから、届ける手配をしてくれ」

「かしこまりました」

 ミラベルはアルバの婚約者で、クウィントン伯爵家の令嬢である。

 キットについては手紙に書いて送ったが、会わせるのはこれが初めてとなる。

 キットがミラベルにいたずらをしないか、まったく心配でないことはないが、彼女なら大丈夫だろう、という思いもあった。

「キット、次は湖に行くよ。君に会わせたい女性ひともいるしね」

 話しかけられたキットは、口にカップケーキをほおばったまま、目を真ん丸にしてアルバを見上げた。

 キットはアルバの分のカップケーキを強奪し、まだ口の中のものを飲み込んでもいないのに、それにかじりつこうとした。

「あ、こら。それは僕の分じゃないか」

 わざとしかめっ面で言うと、キットは、してやったり、と愉快そうに笑い、ケーキを持ったまま、草原に駆けていった。

「待てっ、逃がさないぞ」

 アルバも立ち上がり、すばしっこい弟を追いかけた。

 時々振り返るキットは笑っていて、追いかけっこを楽しんでいた。

 さあっと一陣、風が吹き抜けた。

 風とともに、何かが宙を流れてきた。

 太陽の欠片のような、薄い橙の細かな花びらだった。

 風とともに舞い飛んできたたくさんの花びらに気づいた二人は、同時に追いかけっこをやめ、その美しい光景に魅入った。

 キットが、何か言いたそうにアルバを見た。

「クレメアの花びらだよ、キット」

 結った長い髪が、風になびくに任せて、アルバは応える。

「西風が運んできたんだ」

 クレメアの花嵐は、東に向かって流れていく。キットはその様子を、花びらが消えてなくなるまで見送るのだった。


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