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 アルバは、後ろから必死で追いかけてくるメレディスを顧みず、悲鳴が聞えた方へ走った。

 建物の裏手で、二人の男が上に向かって何か言っている場面に行き当たった。

 男たちは、魔導師が着る、ローブとコートを掛け合わせたような特有の衣装――ローヴェレットを身に纏っている。魔導協会アルジオ=ディエーダの職員だろう。

 彼らの視線の先、建物の外側を巡る外壁の上には、一人の子どもがいた。小柄で痩せ細っており、ぶかぶかのシャツをチュニックのようにして着ている。その服はボロボロで汚れていて、靴も履かず素足だった。

「降りておいで、危ないから」

「我々は敵じゃないよ、君を保護したいんだ」

 協会職員らは、なんとか子どもを説得しようと、必死に話しかけている。しかし、大人たちの心配をよそに、塀の上の子は知らんぷりだ。

「なんと危ない! あんなところに昇ってしまって。あの子が、まさか……アルバ様?」

 はらはらしているメレディス。子どもが落ちないか心配なのだ。

 アルバは頷く。

「ああ、たぶんそうだ」

 アルバとメレディスは、協会職員らの方に近づいていった。先にアルバに気づいたのは、塀の上の子どもだった。

 

 男の子である。くせのある茶色の髪は、長い間手入れしていないのか、ぼさぼさで伸ばしっぱなし。顔も、服から突き出たような手足も垢だらけ。目だけが、瑞々しく輝いている。彼の目の色は、アルバと同じ柳色だった。

 男の子と目が合った。その瞬間アルバは、間違いなくこの子だ、と直感した。

 

 男の子はくるりと身を翻すと、建物の配水管に飛び移って、するすると登っていった。そして四階の、開いた窓から建物内に滑り込んだ。

 なるほど、「仔猫キット」と呼ばれる訳所以か。

「ああ、また逃げられた。今日はもう無理だな」

 協会職員の一人が、ため息混じりに言った。もう一人が頷く。

「仕方がない。日を改めよう」

「失礼、ちょっとよろしいですか?」

 落胆している二人に、アルバは声をかけた。

「あなた方はアルジオ=ディエーダの魔導師ですね? あの子に何の用があるのですか?」

「あの子には魔法の才があるのですよ。それも、おそらくは稀に見る非凡な才です」

 もう一人の職員が、言葉を継ぐ。

「まだ幼いというのに、大人二人……まあ我々のことですが、軽く吹き飛ばすほどの力を持っていますからね。これは尋常ではない。あの子には身内も保護者もいないと聞きましたので、一刻も早く保護し、しかるべき指導を受けさせなければいけないのです」

「このまま野放しにしていては、魔力の正しい使い方を身につけられず、あの子の魔法が暴走を始めるかもしれません。そうなる前に手を打たなくては、と、こうして何度も保護を試みているのですが、ご覧の通りの身軽さ、なかなか言うことを聞いてくれずに困ります」

「そうなんですか」

 アルバは、男の子が消えた窓をじっと見上げた。

「あの子のことは、私にまかせていただけませんか?」

 アルバの申し出に、協会職員らは驚いた。

「それは一体、どういう意味です?」

「私があの子を保護する、という意味です。そのためにここへ来ました」

 職員らは、互いの顔を見た。

「しかし、なぜ? あなたはどなたです?」

 すると、ここぞとばかりにメレディスが身を乗り出し、自慢気に答えた。

「この方はラナホルム公太子、アルバ=アルベリウス・ハーン様にあらせられます」

 言い方が大げさだ、と注意しようと思ったが、メレディスは我がことのように悦に入っているので、たしなめる機会を逃してしまった。

「おお、なんと、ハーン大公閣下のご子息でしたか。我が協会、ハーン様には大いにお助けいただいております」

 協会職員二人は、アルバに頭を下げた。ハーン家は昔から、アルジオ=ディエーダに多額の寄進をしているのだ。

 ハーン家の人間が保護すると名乗り出ては、協会の平職員である彼らに、これを断る力はない。二人の職員は、男の子をくれぐれも頼む、と言い残して去って行った。彼らは彼らなりに、男の子の身を案じていたのだろう。 

 職員らが去るのを見届けてから、アルバとメレディスは、キットが逃げ込んだ建物に足を踏み入れた。

 


 あまり日の光が入らない、埃っぽい集合住宅だ。壁に沿った螺旋状の階段が、上へ上へと伸びている。

 四階に昇り、キットの姿を捜した。住人の迷惑にならないよう、なるべく静かに。

 小さな人影を見つけたのは、突き当りの、扉が開け放たれた部屋の中でだった。荒れ放題の室内は薄暗く、変な臭いが漂っている。

 キットは部屋の隅で、パンをかじっていた。アルバとメレディスに気づくと、警戒するように歯をむき出し、「フーッ!」と猫のように唸った。

「メレディス、君は下がっているんだ」

「いけませんアルバ様!」

「二人で行けば怯えさせるだけで、あの子の警戒心は解けない。いいから廊下で待っていてくれ」

 メレディスの制止を振り切り、アルバはキットに近づいていった。

「やあ、キット」

 優しく聞えるように努めて、声をかける。床に膝をつき、キットに目線を合わせた。

「僕はアルバ。君の兄さんだよ」

 言葉が分かっているのか、分かっていないのか。キットは大きな目で、じっとアルバを見つめてくる。

 改めて見るキットの様子に、アルバは心を痛めずにはいられなかった。全身垢だらけで、服もろくに着替えないのだろう。手足は哀れなほどに痩せ、満足に食べられていないのがよく分かった。

(どうしてこんなことに)

 母親を亡くし、頼れる身内もおらず、わずか六歳で、近所の人々の施しを受けながら、猫のように生きるしかなかったのか。生き延びるには、そうするしかなかったのか。

 アルバは床の上に胡坐をかき、キットと正面から向き合った。

「ごめんよ。こんなになるまで放っておいて。もっと早くに君の存在を知っていたら……」

 キットはパンを食べ終えると、手についたパンくずを舐めとった。

「父の気まぐれのために、君たち母子には辛い思いをさせてしまった。父の息子として、君の兄として、僕にも果たすべき責任がある」

 アルバはキットに、右手を差し伸べた。

「僕と一緒においで。君がいるべき場所に行こう」

 キットはしばし、アルバの手を見ていた。が、ふいとそっぽを向き、両膝を抱えた。

 アルバは苦笑した。

「そんなに簡単には、気を許してくれそうにもないね。いいさ、多少は覚悟していた。根競べといこうか」

 キットが心を開いてくれるか、アルバがあきらめるか。それ以外に状況を進める道はない。

 アルバは待つつもりだった。やっと弟に会えたのに、このまま引き下がるつもりはない。なにより、こんな悲惨な状態のまま、幼い弟を置き去りにして帰れるわけがなかった。

 


 座り込んでから、どれくらい経っただろうか。アルバは時折キットに話しかけたが、キットはこちらを見向きもしなかった。メレディスが「今日はもう帰りましょう」と何度も訴えかけてきたが、アルバは無視した。

(あきらめものか)

 絶対に連れて帰るのだ。

「キット、君はここで幸せかい?」

 膝を抱えたまま動かない弟に、囁くように問いかける。

「ここでは、君は自由だ。なにも君を縛りつけない。社会のしがらみも、あらゆる規則も。貴族間のくだらない駆け引きも、重圧も。そんなもの、君にはなんの価値もないだろうね。

 君を連れて行くのは、君から自由を奪うことかもしれない。おそらくそうだろう。でもね、僕は兄で、君は僕の弟だ。一人になんてできない」

 キットの顔が、少しだけアルバの方を向いた。

「弟がいると知って、嬉しかったよ。本当さ。それまでは一人っ子だったからね。君が来てくれるなら、こんなに嬉しいことはないよ。どうか僕と一緒に来てくれないか」

 キットは、やはり動かなかった。

 アルバはため息をつき、目線を床に落とした。どうすれば弟は心を開いてくれるだろうか。悩ましげに、片手で顔を拭う。

 顔から手を離すと、いきなり目と鼻の先にキットがいたので、アルバは仰天した。

 キットはアルバの膝に手をのせ、身を乗り出して、アルバの顔を穴の開くほど見つめていた。

 キットが見ているのは、アルバの目だ。

 柳色をした二対の目が交わった。

「そうだよ、キット。分かるかい? 僕ら、同じ目をしているだろう?」

 アルバはそっと、幼い頬に触れた。キットは逃げなかった。

「僕たちは、家族なんだよ」


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