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 サンアマンジェの川沿いにある一区画は、いくつもの集合住宅が身を寄せ合うツクシのように建ち並んでおり、その様から〈ホーステイルヤード〉と呼ばれている。

 高い建物がひしめき合っているために、日中でも陽光が行き届かず、全体的に薄暗い。

 いわゆる貧困層の人々が暮らす場所だ。その日食べていくだけで精一杯という人々が、ひとかたまりになって生きている。

 

 そんなホーステイルヤードに、場違いな人物が二人、足を踏み入れた。

 

 一人は二十歳前の青年で、仕立てのいいジャケットスーツに、磨き上げられた本皮の靴を履いている。簡素だが身なりは上等で、育ちのよさが目に見えて分かった。

 緩くうねるセピア色の髪は長く、一つにまとめられている。柳色の瞳は、ハンチングのひさしの影を受けていても、その鮮やかさを損なっていない。

 もう一人は壮年の男で、青年の後ろを、寄り添うように歩いている。ひょろりとした体躯に糊の効いた上質なお仕着せをまとい、神経質そうな目を周囲に向けていた。

 二人とも、ホーステイルヤードには似つかわしくない、富裕層の人間である。


「アルバ様、若様、お待ちを」

 早足で歩く青年を、壮年の男が呼ぶ。

「本当に、このようなところにいらっしゃるのでしょうか?」

「他に捜す当てがないのだから、ここに来るしかないだろう、メレディス」

「ですが、情報が間違いではないか、いささか心配で」

 アルバと呼ばれた青年は、くるりと従者を振り返る。

「くどい。やっと掴めた所在情報なんだ。信じるしかない。腹をくくれ」

「私も信じてはおりますが……」

 メレディスは、ちらりと横を伺った。

 彼らに気づいたホーステイルヤードの住民らが、好奇の目でこちらを見ている。

 それらいくつもの視線を受け、メレディスは落ち着きなく、両手を揉みしだいた。

「私が本当に申し上げたいのは、やはり他の者をよこすべきではなかったか、ということです。なにもアルバ様御自ら、足を運ばれる必要などございませんでしょうに」

 この従者は、主が貧困層の町に降り立つことが気に入らないのだ。アルバは小さくため息をついた。

「またそれだ。僕が行かなければ意味がないのだと説明しただろう。君も納得してくれたじゃないか。この話は終わりだ。さあ、行こう」

 メレディスは、まだ言い足りなそうに口を開きかけたが、アルバは彼に背を向け、再び歩き出した。

 ホーステイルヤードを奥へ進んで行くと、二人はやがて袋小路に突き当たった。

 アルバは、報告にあった集合住宅を見つけ出し、その玄関にいた男に声をかけた。男は壁にもたれかかってタバコをふかしていたが、アルバに話しかけられると、少し驚いたように目を見開いた。

「すみません。少々お伺いします」

「お、なんだあんた。ここはあんたみたいなお坊ちゃんが来るとこじゃないぜ」

 男の物言いに、メレディスが顔をしかめる。

「なんと無礼な。この方は……」

 アルバはメレディスに、「黙っていろ」と無言で命じた。

「ここに、ナリアさんという女性がいらっしゃると聞いたのですが、お住まいがどちらかご存知ですか?」

「ナリアねぇ……聞いたことねぇな」

 男はタバコの煙を吐き出し、顎をさする。それから玄関の内側に向かって、大きな声を張り上げた。

「おい、かあちゃん! ちょっと来いや」

 男の呼び声に応じて、奥の部屋から中年女性がやってきた。

「お前、ここにナリアって女がいるって知ってるか?」

「ナリア? ああ、あの子かい」

 アルバは彼女に一歩近づく。

「ご存知なんですね?」

 男の女房は、アルバを物珍しそうに眺めつつ、ゆっくりと頷いた。

「知ってはいるよ。付き合いがあったわけじゃないけどね」

「その方は、どちらに?」

「もう死んじまったよ。去年の話さ」

「え? そ、それは本当ですか?」

 予想していなかった真実に、アルバはメレディスと目を合わせた。女房は平然と肩をすくめる。

「本当も何も、嘘ついたって仕方がないだろ」

「死因はなんですか」

「強盗に殺されたのさ。ちょっとばかりのお金のために、ひどい話だよ」

「そうですか……」

 聞くところによるとナリアは、仕事帰りの夜に、刃物を持った暴漢に襲われ、殺害されたそうだ。強盗が奪ったのはわずかな金額、四十エルと二百セランぽっちだった。たったそれだけの金のために、ナリアは命を奪われた。

 ナリアは近くの共同墓地に埋葬され、その後間もなく、強盗犯は逮捕された。

 俯いて女房の話を聞いていたアルバは、顔を上げて、肝心なことを彼女に訊いた。

「ナリアさんには、お子さんがいませんでしたか? おそらくは今、六つだと思うのですが」

「その子なら……」

 女房が言いかけた時、強い風が吹きつけた。風は駿馬の如く駆け抜け、通りに散らかったゴミや、窓辺に干してある洗濯物を巻き上げていった。

 続いて、どこからか悲鳴が聞こえてきた。その悲鳴を耳にして、女房は肩をすくめる。

「やれやれ、またキットだね」

仔猫キット?」

 アルバは女房の言葉を反芻した。

「ああ。あの子、癇癪を起こすと、風を起こしたり雨を降らせたりするのさ」

「おう、そういや、さっき協会の連中を見たぜ」

 と、タバコの男。

「そいつらがまた、キットを追いかけ回してるんだろうね」

「そのキットというのは」

「あの子の本名、誰も知らないのさ。だからあたしらはキットって呼んでる。猫みたいな子だからね」

 女房はアルバに頷いてみせた。

「あんたがお捜しの、ナリアの子だよ」


       *


 アルバが、自分には腹違いの弟がいる、と知ったのは、去年の夏だった。

 アルバの生家は、バトランゼル王国北部ラナホルム領の領都グラールにある。

 ラナホルムは北部最大の領地を持つ、王都シアブールに次ぐ大領だ。その領首館こそ、アルバの住む場所である。

 次期ラナホルム大公、アルバ=アルベリウス・ハーン。彼の正式な名前だ。

 ハーン家は、大領ラナホルムの領首家というだけでもかなり高い地位にあるのだが、その名声と権力は国を越え、世界各国にまで及んでいる。

 ハーン家は貴族階級の頂点であり、その当主は王とともに、時には王以上の影響力で国を動かす。

 そんな莫大な権力と財産が、アルバの手中に収まるのは、そう遠い話ではない。

 周囲の人々は、そう噂している。

 現領首で、アルバの父であるイグニス=イグレシアス・ハーン大公爵が、病に臥せっているためだ。


 

 父イグニスが倒れたのは三年前のことである。心臓の病で、現在の医学では治せぬ病だという診断結果であった。

 不治の病、という意味だった。

 死が確定した時、イグニスは荒れに荒れた。もともと気難しい性格で、あらゆる物事を己の思いのままにしてきた男である。それが、自分ではどうにもならぬことがあるのだという現実を突きつけられ、やり場のない怒りを周囲にぶちまけたのだ。

 その嵐が治まると、イグニスはアルバへの教育に、更に打ち込んだ。自身の人生の終わりが決定したことを受け入れるや、後継者であるアルバに、自分がやり損ねたことや野望を託すべく、徹底的に教育する余生を選んだのだ。

 イグニスは、身体が動く間は、自らアルバを指導した。その教育方針は苛烈で、アルバに休む暇さえ与えてくれなかった。

 さすがにやりすぎだ、と使用人たちに諭されても、イグニスは手を抜かなかった。足元をすくう機会を常に窺い、地位を奪おうとし合う、生き馬の目を抜くような貴族社会では、ほんのわずかな隙さえも見せてはならないのだ。

 アルバは死にそうな気分になりながらも、歯を食いしばって父の厳しい試練に耐えた。父のように権力に固執するわけではないが、ハーン家の嫡子としての義務は果たさなければならない、という使命感はあった。父のスパルタに耐えられたのは、その使命感と責任感の賜物だ。

 イグニスの容態が急変し、ついに床に臥せるようになったのが一年半前のことだ。

 いよいよ身体が動かなくなると、イグニスはアルバを領首代理として表舞台に立たせた。肩書きはまだ公太子でありながら、アルバは領首としての地位と務めを背負わされたのだった。

 領首代理としての務めに追われるある日、執事のメレディスが神妙な面持ちで、アルバに話し始めた。


「そろそろアルバ様にもお話すべきことかと思いまして」

「一体何だい? そんな深刻な顔をして」

 この執事は、物事を悲観的にとらえる傾向がある。どんな些細な出来事も、メレディスにかかればお家転覆並みの惨事になってしまう。

 メレディスは何度かためらいを見せた後、意を決して切り出した。

「実は、アルバ様には弟君がおられるのです」

「弟?」

 聞き捨てならぬ発言に、アルバは目を見開いた。

「初耳だぞ。どうして今まで隠していたんだ」

「申し訳ございません。イグニス様より、固く口を閉ざせと命じられておりましたので、これまでお話できませんでした」

 メレディスは深々と頭を下げた。

「しかし、イグニス様のご容態が回復しない以上、ゆくゆくはアルバ様がハーン家当主。不謹慎かとは存じますが、身辺整理をお考え頂く時期でございます」

 それはたしかにそうだった。父はもう助からない。来る時に備え、身辺整理を行う必要があるのは分かっていた。

 だが、そうしてしまうと、父の死を待ちわびているかのように思えて、アルバは嫌だった。どんなに厳しく、恐ろしい人であっても、アルバにはただ一人の父なのだ。

「そこで、アルバ様には弟君の存在をお知らせしておくべきかと思いまして」

「その弟というのは、今どこに? どうしてこの屋敷にいないんだ」

「弟君は、イグニス様のお戯れで孕んだ娘が生んだ子でございます。娘はナリアといいまして、七年前この屋敷でメイドとして働いておりました」

「ナリア……」

 屋敷で働く使用人は大勢いる。メレディスやメイド頭のカーロッタを始めとする、主だった使用人たちならばまだしも、一人ひとりの顔や名前を全て覚えるのは困難だ。

「アルバ様が覚えておられないのも、無理はございません。ナリアがメイドとして仕えていたのは、一年にも満たぬ間でしたから」

 ナリアは美しい娘であったそうだ。控えめで、黙々と働く素朴な性格だった、とメレディスは語る。

 どこか影のある美貌に、イグニスは早くから目をつけた。ナリアの妊娠が発覚したのは、彼女が屋敷に勤めだしてから、三ヶ月が過ぎた頃のことだった。

 貴族の男が、妻や婚約者以外の複数の女性と関係を持ち、孕ませてしまうのはよくあることだ。メレディスに言わせると、「嗜みの一つとして見るべき」ことであるらしい。

 アルバには理解しがたいことだった。なぜただ一人の女性を愛するだけではいけないのか。アルバにも婚約者がいる。両家の当主同士が決めた相手だが、今となってはアルバがもっとも愛する女性である。

「母は、そのことをご存知だったのか?」 

 七年前といえば、アルバの母がまだ生きていた頃だ。

「シアンシャ様もご存知でございました。ナリアの妊娠が分かり、私どもはどう対処すべきか悩みました。イグニス様のお子とはいえ、母親はメイド。身分が違います。そのメイドが生む子を、ハーン家に迎え入れてもよいものかと」

「身分など! 父の気まぐれの犠牲者じゃないか。君たちはそんなもののために、ナリアを放逐したのか? 僕の弟とその母親を?」

 かっとなったアルバが思わず吐いた怒声に、執事はびくりと肩を震わせた。

「お許し下さいアルバ様。しかし、私どもはそうするしかなかったのでございます。何故と言って、イグニス様が堕胎せよとお命じになったからでございます」

 ナリアはこれを固く拒否した。イグニスが父であると認知してもらえずとも構わない、せめて子どもだけは生ませてほしいと、涙ながらに訴えたのだ。

「ナリアをお救いになったのは、シアンシャ様でございました。自分が責任を持つから生ませてやってほしい、と、イグニス様に掛け合われたのです」

 イグニスは、勝手にせよ、と背を向けた。

 このまま屋敷にいては、イグニスが何をするか分からない。ナリアを屋敷から出て行かせる以外に、母子を救う道はなかった。

 ナリアの住まいを用意したのはシアンシャだった。子どもが生まれてから後も、母子ともに快適に暮らせる家を、領内にある静かな村に見つけたのだ。ナリアが屋敷を出る際には、退職金と出産祝いと称して、多額の金を持たせようとした。ナリアは、これ以上のご好意に甘えるわけには参りません、と、必要な分だけ受け取り、残りの大金は頑として拒んだ。

 ナリアはその後、シアンシャから賜った家で、無事に男児を出産。報告を受けたシアンシャは、我がことのように喜んだという。

 シアンシャとナリアとの間では、幾度か手紙のやりとりがあった。

ナリアが出産してから数ヵ月後、シアンシャは病に倒れ、半年も経たずに逝去してしまった。シアンシャの訃報を知ったナリアから、お悔やみの手紙がメレディスとカーロッタ宛に届いたのを最後に、ナリアとの連絡は途絶えた。

「調べましたところ、母子はシアンシャ様より賜った家を出て、何処かへと去っていったのだそうです。それ以来消息不明とも」

「なぜ家を出る必要が?」

「どうも、ナリアの親族が押しかけて乗っ取り、母子が出て行かざるを得ない状況に追い詰めたらしいのです。彼女の親族は、あまり常識的ではなかったと聞いていましたので、事実である可能性の方が高いでしょう」

 あまりに理不尽な話だ。アルバの胸中で、ふつふつと怒りが煮える。生まれて間もない子どもを連れた女性から、住む場所を奪って追い出すとは、なんと卑劣なのだろう。しかも、そんな非人道的な行いを、実の親族がやってしまったとは。

「アルバ様、ナリア親子について私が知る事情は、ここまででございます。今彼女がどこでどんな暮らしをし、息子がどのように成長しているのか、それは一切存じません。私がお話しすべきは、全てお話し致しました」

 メレディスは、そのように締めくくった。

 

 弟の存在を知ったアルバは、とにもかくにも行方を掴もうと、あらゆる手段で情報を集めた。

 ようやく、サンアマンジェのホーステイルヤードという場所に住んでいる、という話を聞いたアルバは、そのことをイグニスにも知らせた。

 父に教えるかどうかは迷ったが、結局打ち明けることにした。イグニスは全く興味がないというように、鼻で嗤った。

「お前の勝手にすればよい」


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