木枯らしトンネル
エリー、君は本当になき虫だね。
そう言って、私の濡れた頬をあたたかな手で包む貴方。
ああ、なんて幸せなのだろう……
私は、ついさっきまで己の柔い心を劈いていた痛みのことを
すっかりわすれて、その幸福に酔いしれた。
***
うっすらと瞼を開けると、いつもの朝の光景が広がっていた。
無機質な白い天井も、大きな窓から差し込む朝日も、温い布団の気持ちよさも相変わらず。
けれど、私の頬は夢の中の時と同じように湿っていて。
徐に起き上がった私は、思いっきり朝の冷涼な空気を肺一杯にすいこんだ。ゆっくり、ゆっくりと。たっぷりすいこむ。
「カイン…」
幾分か気持ちが落ち着いても、思わず呟いてしまう思い人の名。
生まれ変わった私。取り戻せない過去。取り繕った勇気。
ああ、今となっては過去の自分を苦しめた痛みさえも愛おしい。
私は、静かな朝の下、胸につまる悲しさにむせび泣いた。
***
私の名は、藍澤瑠璃。生まれながら病弱の身で15年の人生をほぼ小さな病室で過ごした。友達は本。どこまでも寂しい人間だ。
けれど、そんなつまらない私にも1つ特異なことがある。
私が、生まれ変わりであるということだ。
前世は、特にこれといった抜きん出た才能があるわけでも、慈悲深い性格というわけでもなく、強いてあげるならばひと1倍泣き虫な少女だった。
そして、幼なじみの少年に恋い焦がれた彼女は、その身を失い新たな器に住み着いてもなお、恋慕の情だけを募らせているのだ。
本当に、困った女だこと。
そう、今だって目を閉じれば想うのは彼のこと。
泣かないで、エリー。
優しく呼びかけてくれた彼を、私は未だに忘れることができない。
「瑠璃、どうしたの?ぼぉっとして」
母が不思議そうに言った。私は、腫れた目を見られないように下を向いて答える。どうか、こちらを見ないで。
「今日はどうも調子が優れなくて…お母さん、せっかくお見舞いに来てくれたのに、ごめんなさい。」
「何いってるの。あなたの健康が第一なのだから謝る必要なんて、これっぽっちもないのよ。そう、今日はゆっくりやすみなさいな」
「ありがとう」
体が冷えないように気をつけてね。
母は、そう言って私の肩にピンクのカーディガンをかけて退出した。
開いた窓から優しい風が入ってくる。でも、少し寒い。
ああ、秋も深まったのだな。私は、時の流れに目を細めた。
『藍澤瑠璃』が生まれた世界は、『エリー』のいた世界と違う。
しかも、ここ『日本』は季節がはっきりしていて暇人な瑠璃の心を慰めた。本当に、私は恵まれた環境で生まれた。
病弱だろうとぼっちだろうと構わない。私は、十分、しあわせ。
それでもなお脳裏をよぎった姿に自嘲気味になった。
***
私が生活している病院はとても広く、緑豊かな中庭なんかがある。体の調子がよいとき、そこでのんびり読書をすることが私の楽しみ。
その日も、中庭の芝生で静かに過ごしていた。そこに
「あのぉ…」
少年が話しかけてきた。
困ったような声に私は驚いた。コミュ障な私はしどろもどろになりながらこたえる。「な、何でしょうか?」 どきどき、どきどきと胸が高鳴る。家族や看護師さん以外の人と話すのは本当に久しぶりの珍事であった。
少年は私と同い年ぐらいで、黒目黒髪の優しい面立ちをした男の子だった。
彼は言った。
「それ、○※☆@の最新作ですよね。限定版の。」
僕、彼のファンなんです。照れながら言う彼に私は目を輝かせた。
「そうなんですか?わぁ、初めてお会いしました。私も大好きなんです。この方の本。」
「はじめて?」
「はい、恥ずかしながら私は、物心ついてからずっとここで暮らしてましたから知り合いが少なくて。」
「あぁ、そうなんですか。僕は友達の見舞いなんです。」
「あらあら、どうなされたんですか?」
目を見張った私に彼は茶目っ気たっぷりにこう言った。
「惚れた娘にいいとこ見せたくて部活の試合で無理した結果です。こんなバカなことで、僕の数少ない友達の頭数を減らさないでほしいんですけどね。」
「まあ」
思わず苦笑。確かに無理は禁物だ。
それから私は、彼こと如月智くんと好きな作家についてしゃべった。楽しくて、愉しくて、頬も痛くなるぐらい笑った。
他人と話してこんなに幸せに満ちた思いをするなんて、『彼』だけだと思ってた。
あたりも暗くなって、別れを告げる瞬間があんなに辛いなんて
『彼』以外あり得ないと思っていたのに。
また明日話しましょうよ。と誘ってくれた言葉に心底喜ぶなんて『彼』以外考えられなかった、あの『私』が、
どんどん、色づいていく気がした。
***
私がまだエリーだったとき、どうしようもない黒歴史が出来た。
ずっと心のうちに閉まってあったものだけど、如月くんが言ってたご友人の話で不意に浮上してしまったのだ。
エリーだったとき、の私は、たった1度だけ『彼』に告白しようとした。凄い気力を必要とするものだったけれど、彼との深い関係を望んだ私は犯してしまった。
彼人気のない場所へ呼んだところまではよかった。問題はその後だ。わたしは、「貴方が好きです。」とストレートに伝えるつもりだったのに、緊張のあまり口がすべってしまった。
「カインがきっ、きっ、嫌い!」
摩訶不思議なもので真逆なことを言っていた。
何とか訂正したもののもう1回伝える勇気はとうになく、無理はしないものだと骨身に染みた。
こんな失敗二度とするものかと決意したのだ。
***
季節は移ろい、冬が近づいてきた。
私は如月くんとのささやかな交流を楽しみにするようになっていた。本の貸し借りもするようになり、また少しずつ私の世界が色づいていった。
如月くんはおっとりしていて、でもちょっとお調子者のところがある。何より人の目を見て話せる真摯な心根の持ち主だった。
一緒にいて落ち着く人だ。そういえば、最近めっきり『彼』を想って泣く回数が減った。きっと、そう。そうなんだ。
ああ、冬が来る。
緑でいっぱいの中庭は今では枯れて寒そうだ。それでも、私は外に出る。積年の己の想いと決別を果たすために。
如月くんは、なんだか心苦しい表情だった。会って挨拶しても、「あぁ」とか「うん」とかどこかふわふわした返答ばかり。どうしたのかな。私はお薦めの本を膝の上においた。
「ねぇ、如月くん」
「ん?」
私は笑った。できるだけ柔らかい表情になるように。失敗を繰り返さないように。
「貴方が好きです。」
木枯らしが吹く。一瞬の沈黙。
ドクンドクンと心臓が脈打つ。
私は、自分の心が変わってくのを恐れた。
でも、駄目なんだ。
たとえ、私が前世で何か悔いを残していようと、大事なのはきっと『後悔』や『未練』の念をずるずる引きずることではない。
私に必要なのはそれらをはじめとする感情を断ち切る『勇気』と『きっかけ』。私は、ずっとつかめずにいた。
でも、大丈夫。
私、つかめたから。
カイン、心配かけてごめんなさい。でも、もう、平気。
私は、『瑠璃』としてやっと堂々と人生を歩くことが出来る。
それもきっと,目の前で真っ赤に熟れた顔をしている君のおかげ。
ねぇ、大好きだよ。