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Change The World - Helvetica Girl  作者: コヨミミライ
夜行組へようこそ
9/20

そして少女は獣のようにギラついて。

「次はここですか?」

「そうですね」

 隣に立った暁火の問いに郁斗は平坦な声で答えた。

 先程、敬語について指摘されたことは多少根に持っている。気付かれた以上、変に物腰を柔らかくする必要もなくなり、愛想のことはあまり考える必要はなくなった。反面暁火は上機嫌になっているようで、その点がまた納得がいかない。

 あまり気にしても仕方はない。郁斗は深呼吸をして、目の前の錆び付いたドアと向かい合う。

 安アパートの二階に並ぶ玄関の一つだった。建物の外壁に設えられた金属製の古い廊下には共用の旧式洗濯機が一台置かれている。

 老朽化著しい建物は静かで人が暮らしているのかどうかも傍から見れば怪しいだろう。

 ドアの脇の窓には内側から新聞紙が貼られており、様子を窺うこともできない。

 郁斗はインターフォンを鳴らそうとして、押し込む直前でふと指を止めた。

「あ、そうだ。埋野さん。これから会う人のことを見て、あまり驚かないであげてくださいね?」

「怖いんですか?」

「というよりも繊細なんです」

「ん? は、はぁ?」

 はっきりとしない説明に疑問を覚えつつも暁火は頷く。

 どうにも引っかかる言い方だった。暁火に了解を取った上で、郁斗はインターフォンのボタンを押し込んだ。

 くぐもったチャイムの音。スピーカーが壊れているのか、音にはノイズがかかっていた。

 ドアの向こう側で微かな物音。

「坊主か」

 聞こえてきたのは中年男性の嗄れた声だった。低く、重みのある、相手を震え上がらせるには十分な声。

「おう、みんな大好き葉月郁斗さんですよ」

 ドアの向こうの誰かがバカにするような風情で笑い飛ばす。

「そっちの嬢ちゃんは誰だ?」

 暁火が居住まいを正し、ドアののぞき穴を真っ直ぐ見つめる。そこから見られている気がした。

「どうも、初めまして。アタシはえーと、夜行組に体験入社中の埋野暁火です。よろしくお願いします」

 はきはきとした声で挨拶をして、暁火は深々と頭を下げる。

 沈黙。男からの返答はない。お辞儀をしたまま返答を待っていると、その代わりのように鍵の外される音がした。蝶番の軋む音。

「上がれ」

 微かに開いた隙間から漏れた声に暁火が顔を上げる。しかし、ドアの隙間からは日中にも関わらず灯りのついた部屋しか見えず、人の姿はなかった。

「ん?」

「ほら、入りますよ」

 ドアの隙間に手をかけ、人一人分入れるスペースを作った郁斗に促されるまま、暁火は室内へと入り込む。玄関が狭いため、いそいそと靴を脱ぎ暁火が場所を空けると、郁斗も素早く中へ入り込み、ドアを閉めた。

 まるで入るところを人に見られたくないようなせわしなさだ。

 入り口の隣には台所があり、部屋の中心にはダイニングテーブルが置かれている。奥の部屋へと通じる襖は開けられ、炬燵とテレビが見えた。

「おー、アタシの借りてるところより一部屋多い」

 口をついて出た場違いな感想に郁斗はため息を吐き出し、奥の一室へと進んでいく。暁火も一緒に部屋へ入ると、そこには炬燵に入った、禿頭の中年男性がいた。

「おー、ご苦労だったな」

 皺の多い顔に分厚い唇。赤みを帯びた肌に低く潰れた鼻、そこまでは何も問題はない。

 ただ一つだけ普通ではない場所があった。いや、一つであるということが問題というべきか。

 男の目は一つしかなかった。それも片目が潰れているということではない。

 顔の中心に人間のそれよりも大きい眼球があった。瞼もあり睫毛もあるというのに、大きさだけは顔の半分を埋めるように大きく、鼻は追いやられるように常人よりも下についている。

 文字通りの一つ目だった。

 ぎょろりとした目が暁火を捉え、隙間だらけの黄色い歯を見せて小馬鹿にするように笑う。

「よう、嬢ちゃんびっくりしたかい?」

「あ、すみません!」

 郁斗の隣で言葉を失っていた暁火は坊主頭の一つ目に話しかけられ、我に返って頭を下げる。

「一つ目の方とは初めてお会いしたのでつい! 失礼しました!」

「はっはっは! それだけ返してくれりゃ十分だ! 普通だったらあんたくらいの娘っ子さんはもっと悲鳴上げたり気持ち悪がったりするもんなのによ!」

「そんなことしませんよー! 確かに珍しいかもしれないですけど、気持ち悪がるなんてとんでもない!」

 皺を深め、声を上げて笑う一つ目に釣られて暁火も笑い声を上げる。

「嬢ちゃん分かってるじゃねぇか! 最近は俺みたいな見かけですぐ分かる妖ってのは減っちまってなぁ! 若ぇ妖まで俺みたいな外見にはビビりやがるんだ!」

 豪快に笑う坊主頭と暁火に挟まれた郁斗の右眉が痙攣する。こんなに一瞬で打ち解けるとは思わなかった。

 これは彼女が持って生まれた人当たりのよさに由来するものなのか、それとも偶然波長が合っているだけなのか。

「はっはっは! 坊主、随分いい新人じゃねぇか! 夜行組の面子も全然様変わりしてなかったからな! いいじゃねぇかよ!」

「いや、この子はまだ正式に決まったわけでは……」

 一つしかない目を糸のように細めて笑う中年男性に郁斗は気圧される。こんなに機嫌がいいのは久しぶりに見たが、やはりどうにも苦手だった。

 テンションに圧倒されてしまう。

「ほら嬢ちゃん! まあ、座んな座んな! 大したもんはねぇが食ってけ食ってけ!」

「いんですか! ありがとうございます!」

 警戒心もなく暁火は炬燵へと入り込み、手渡された蜜柑の皮を意気揚々と剥いていく。

「ほら、葉月さんも入って入って!」

 暁火に促され、郁斗も渋々ながら一つ目と向かい合うように炬燵へ入った。

「紹介が送れましたが、こちらは毛利金次郎もうりきんじろうさん。先程の畠山同様、我々の管理下にある妖の一人です」

「改めまして埋野暁火です。よろしくお願いします!」

「おう、よろしくな、お嬢ちゃん」

 蜜柑があってより一層気分のいい暁火ははきはきとした声で頭を下げる。邪気のない振る舞いがすっかり気に入った様子の毛利も満面の笑みだった。

 まるで初孫を前にした好々爺のようだ。

「毛利さんのように人の中へ紛れ込めない妖は多くおります。そういった方々に人と接触しない住居と仕事を誂えるのも我々の仕事の一環です」

「目が一つしかねぇってのは流石に誤魔化せねぇからな。俺ぁ時計技師の仕事をしていてよ。作ったものをあんたらに渡して、それを売って生計を立ててんだ」

「時計って腕時計とかですか! すごいですね!」

 暁火の目がさらに輝く。

 傍から見ればまさしく異形という容貌の毛利にどうしてここまで臆面もなく話しかけられるのか、郁斗からしても不思議であった。

「おうよ! もともと手先が器用でな! それに俺みたいな一つ目は細かいものがよく見えるからまさしく天職ってわけだ! この仕事に宛がってくれた先代には本当感謝してもしきれねぇってもんだぜ!」

「職人って感じがして格好いいじゃないですかぁ!」

 そしてまたハイテンションな笑い声の二重奏。

 郁斗はすでに胃凭れしそうであった。

「そういや嬢ちゃんもなかなかいい腕時計してるじゃねぇか! 好きなのかい?」

 一つしかない毛利の目が暁火の細腕に回る銀の腕時計を凝視する。

 無骨で飾り気のない、端的に言えばゴツい腕時計は彼女の外見には甚だしいほど不釣り合いだった。

「ああ、この時計は確かにずっとつけてるんですが、そこまで詳しいわけではないんですよ」

「詳しくなることだけが好きなものに対する向き合い方じゃねぇってもんよ。見た限り結構使い込まれてるみてぇじゃねぇか、そんだけ使い込まれたら時計も幸せってもんだぜ、嬢ちゃん」

 黄ばんだ並びの悪い歯を見せて毛利がにっと笑う。暁火は自分の腕の時計を見つめ、その表面を一度指先で撫でた。

「幸せなんですかね、この時計は」

「そりゃもちろんよ。しっかり手入れもしてるようだし、これからもそうやって使ってやんな」

「そう言われるとなんだか嬉しいですね。もうこれ以外だと馴染まないってのもあるんで、これからも末永く使っていくつもりですよ」

 思いに耽るようにそっと語る暁火に毛利は一つしかない目を穏やかに細める。

 時計を作る者として、例え自分が作ったものではないとしてもその想いは暖かいものだった。

「いいじゃねぇか。もしなんかあったら俺んとこに持ってきな。出来る限りの修理はしてやんよ」

 いつもがなるような低い声と遠慮のない大声しか出さない毛利にしては静かでひっそりとした声に、郁斗も少しばかり目を瞠った。彼からこんな声を引き出せるほどに暁火は気に入られたのだろう。

 妖の人らしからぬ外見にも怖じ気づかず、それどころか普通の人間のように接し、和気藹々と話し合える。

 これは最早才能だ。




 毛利との話題に一区切りがついたのを見計らって郁斗は上納金を差し引いた給料を毛利に渡し、彼の部屋を暁火と共に出た。

 頼りない金属製の階段を降りて古びたアパートの敷地を抜けると、暁火が天へ向かって大きく伸びをする。

「妙なこと言うから身構えちゃいましたけど、いい人じゃないですか」

 くすっと笑う暁火に郁斗は顔を顰めた。

「別に脅すつもりではなかったんですがね。貴女があんなにあっさり打ち解けるとは想いませんでしたよ」

「そうなんですか?」

「偏屈な方なんですよ、基本」

 少なくとも郁斗が知っている毛利という人物はそうだった。

 何がなくとも不機嫌そうに顔を顰めており、ただでさえ力のある一つ目は獲物を狙うように引き絞り、他人を拒むような威圧感を常に纏っている印象しかない。

 今日の毛利こそ郁斗にとっては見覚えがなかった。

「さて、それじゃそろそろ行くとしましょうか」

「それもそうですね」

 二人は一緒に歩き出そうとして、踏み出した足を止める。閑静な住宅街を風が駆け抜けた。

 渇いた冬の風。悲鳴のような風音が耳を掻き毟っていく。

 枯れ木が揺れて擦れ合う音だけが妙に後を引いた。

 郁斗の首下にちりちりとした感覚。何か妙な視線と気配を感じていた。

 誰かに見られている。恐らくは好ましくない類のものに。

 この場からは早めに離れた方がいいかもしれない。

 暁火に気取られないように平静を装い、それでも足早に動き出そうとした時、暁火が郁那の顔を覗き込んでくる。

「そういえば葉月さん、お腹空きませんか?」

「はい? まだ十二時にもなってませんよ?」

 スマートフォンで時刻を確認すると十一時の手前だった。

 基本小食の郁斗の腹にはまだ朝食が残っている。常々思っているのだが、あの屋敷の朝食は量が多すぎるのだ。

「この辺コンビニとかありませんかね。何か買っていきませんか?」

 郁斗の心など知らぬように、暁火は周囲を見回す。

「いや、あのですね、埋野さん」

「この時期だと肉まんとかいいですよね。葉月さんもどうですか?」

 能天気にへらへらとしている暁火に頭が痛くなってきた。郁斗は眉間を揉み込み、ため息を吐き出す。

「一応一軒だけありますよ」

 こうなればさっさと暁火の要望に応えて帰った方がいいだろう。隠れ潜んでいる者が何者かは分からないが、そこまで表立って何かをしてくるとは思えない。

 彼女の我が儘の一つくらい訊いても問題はないだろう。説得しようにも追っ手のことを話して、変に怯えさせるのも悪い気がした。

 しかし、先程まで曲がりなりにも聞き分けのよかった暁火らしからぬ我が儘だ。そこに違和感を覚えながらも、郁斗は深く考えることなく暁火をコンビニへ連れて行くことにした。




 建物の影に身を潜め、その青年はコンビニの様子を眺めていた。

 夜行組の跡継ぎとその護衛は暢気に買い物を楽しんでいる。油断しきっているようで、こちらの存在に気付いた様子もない。

 煙草の灰を携帯灰皿に落とし、男は肩の力を抜いた。身構えていたのだが、思った以上に楽な仕事だ。

 しかし、強者揃いで有名なあの夜行組の次期組長があんな女子高生というのは驚きだった。小柄な体に能天気そうな佇まい。恐らく組長になったところで形ばかりの存在となるだろう。

 与えられた情報によれば、今まで妖の世界と関わったこともない素人。そもそも組長の座を継ぐのかどうかも怪しい。

 可能ならば仕留めろということだったが、そもそも仕留める必要もないかもしれない。

「とはいえ、特別報酬もあっからなぁ。うら若き女子高生には悪ぃが、殺しちまうか」

 行動を共にしている護衛も若い。妖の外見年齢は宛てにならないものだが、それでも若い。

 あの妖は若い。

 倒す必要もない。素人の娘をいつまでも庇いきれるわけではないのだから。

 懐に納めた獲物を叩く。確かな硬い感触。

 機を窺っていると、コンビニの自動ドアが開き、誰かが駆け出てくる。

 目深に被ったハンチング、秋色のロングコートの裾をはためかせる姿。

 黒いストッキングにスニーカーを履いた足は細く牝鹿めいている。

 穏やかではない走り方。間違いなく全力疾走だった。ただ一人駐車場を走り抜け、そのまま住宅地へと突き進んでいく。

 あれは間違いなく夜行組の跡継ぎ。しかし様子がおかしい。

「おい! 待てっ!」

 遅れて店を出てきたのは深い蒼い髪に長身痩躯の男。護衛だった。

 片手にはレジ袋を提げている。

「なんだぁ? どうしたんだぁ?」

 男はにたにたと笑いながら呟く。

 あの女子高生は護衛から逃げている。不可解な状況、男は頭の中で一つのシナリオを思いつく。

 そうだ。あの女子高生は妖の世界に全く関わりがなかったという話だった。

 突然、奇妙な連中に囲われ、組長になれと言われて怖くなったのだろう。だから大人しく従うフリをして逃げる機会を窺っていたのかもしれない。

 随分親しげに話していたが、それも彼らを出し抜くための演技だったということか。

 度胸もあり、機転も利くようだ。

「でも、今じゃあなかったなぁ」

 懐の獲物を叩き、跳躍した男は隠れていた建物の屋上へ軽々と着地する。上から優雅に追いかけさせてもらおう。

 あの女子高生はなかなかに速い。力を制限されている妖では追いつかないほどの走り込み。陸上部か何かだったのかもしれない。

 隙を窺って、孤立したところを仕留めてしまおう。

 そして彼は追跡を再開する。

 女子高生は入り組んだ住宅地を駆け、細かく曲がり角へ入り込んでいく。出遅れた男はすでに見失い明後日の方向へ向かっている。

「いいぞいいぞぉ。カモがネギどころか土鍋とコンロまで背負ってきやがった」

 屋根から屋根へ飛び移り、路地を走る女子高生を追う。逃げるのに必死な彼女は自らの頭上を悠々と飛び回る男に気付きもしない。

 素人だ。完全に素人だ。

 隠れ潜む場所を探しているのか、彼女は次第に人気のない場所へと向かっていく。ここまで来れば人目を気にする必要もないだろう。一撃で仕留めれば騒ぎにもならない。

 女子高生が立ち止まり、膝に手をついて肩で息をする。あれだけ全力で走っていれば、体力も続かないだろう。

「なんだいなんだい、出来すぎじゃねぇの。残念だったなぁ嬢ちゃん。人目を気にしなくて助かるのはあんただけじゃあねぇんだぜ」

 懐に手を突っ込み、獲物を取り出し、屋根を蹴って飛び上がった男は、そのまま弾丸のように彼女目がけて急降下する。

 風が耳元でざわめく。唸る。悲鳴を上げる。責め立てるように全身を叩く。重力に引かれるまま、螺旋状の刃が陽光を受けて煌めいた。

 音で勘付いたのか彼女が頭を上げる。帽子を取って振り返る。

 もう遅い。手遅れだ。

 黒い髪が風にふわりと膨らみ、彼女は真っ向から男を見据え、嗤った。

「ようこそ、ストーカーさん。死に場所へ」

 男の視界の端で何かが動く。咄嗟に構えていたナイフを引き、横合いから迫る白銀を弾き返す。

 衝撃のままに飛び下がり、軽やかに着地した男は女子高生の隣に現れた影を睥睨した。

「なんでてめぇがここにいんだっ!」

 黒に見紛うほどに深い蒼の髪。相反するように透き通ったサファイアの瞳。

 その男は巨大な包丁のような片刃の大剣を肩に担ぎ、女子高生を護るように立っていた。

「何を言ってるんだか。護衛が傍にいるのは当然だろ?」

 夜行組の護衛は涼しげに微笑んでいる。先程、明後日の方向に走って行ったはずの彼が何故かそこにいた。

「飯綱会の者ではないとは思ったが、なんだ追跡者チェイサー藤城戸遠哉ふじきどとうやじゃないか」

 護衛の男は皮肉げに笑って言いながら、片手に提げたレジ袋を女子高生へと手渡す。

「知り合い?」

 受け取ったレジ袋から肉まんだけを取った暁火が首を傾げる。

「こんなのと知り合いというのは勘弁願いたいですが、名前は知っていますよ。有名なはぐれ妖です」

「はぐれ妖?」

「組織の管理下に入らず、人の世界で暮らすための身元を得ず、汚い稼業で儲けてる輩ですよ。雇い主に関してはなんとなく分かるが、組長のご息女に刃を向けたなら関係ないぞ?」

 包丁のような大剣を軽々しく片手で操り、護衛は切っ先を男――藤城戸へと突き付ける。それでも藤城戸はニタニタと笑っていた。

「偉そうなこと言ってんが、テメェに権限はねぇだろうよ」

「見て分からないのか。この通り、力は行使できてる。確かに組長不在の今、俺たちは力を発揮できないが、特例があるのを知らないわけじゃないだろうよ?」

 その言葉で今までの不可解な行動の理由に気付き、藤城戸は舌打ちをする。

「そういうことかよ」

「無関係な人間が妖によって危険に晒された時、妖はその者を防衛するためであれば無条件で妖力を行使することができる。確かに埋野さんは組長候補であるとはいえ、まだ無関係な人間だ。お前がその民間人に危害を加えようとした以上、俺は夜行組の一員としてではなく、ただの妖として力を使えるってわけだ」

「カバチ垂れやがって……!」

 しかし現に目の前の護衛は力を扱えている。

 妖の護衛を伴っているのならばまだしも、その妖から逃げて一人で駆けていた彼女は無関係な人間なのだろう。それは護衛が何の制限もなく力を使えていることが証明している。

 組長不在で一切の権限が失効しているはずの彼が力を発揮することができる限定的状況。

 全てはその状況に持ち込むための作戦だったのだろう。

 護衛の後ろに立ち肉まんを食べる少女は藤城戸に目を向け、唇に強気な笑みを宿した。

 黒い瞳は挑むように、真っ向から藤城戸を見つめる。自らを殺そうとした者に素人が向けられる目ではなかった。

「いつまでも守勢に回ると思ったら大間違いですよ? 付きまとわれるのも嫌なんでちょっとばかしキッツい木っ端喰らってもらいますよ」

「舐められたもんだ」

 藤城戸は舌打ちをして、一歩引き下がる。

 護衛の男が力を使えている以上、下手に押し込むのは無茶だろう。

「どうした? 来ないのか? じゃ、こっちから行かせてもらうぜっ!」

 護衛の男が地面を蹴る。途端にその姿が掠れ、次の瞬間には藤城戸の横合いへと迫っていた。

 振りかぶった大剣で斬るというよりも、叩きつけるような一撃。受け止めたナイフの捻れた剣身が一瞬で砕け散り、そのまま藤城戸の体も撥ねるように飛んだ。

 アスファルトの上で撥ねて、体勢を立て直して四肢で着地した藤城戸が顔を上げると、そこにはすでに剣を振り上げた男の姿。

 サファイアの目は冷たく、極地の永劫溶けぬ氷を彷彿とさせた。

 咄嗟に横へと転がるようにして逃げた途端、先程まで藤城戸がいた場所のアスファルトが破砕される。

 大質量の剣を片手で持ち上げ、護衛の男は嘲るように笑う。

「どうした、追跡者チェイサー。一度決めた獲物は地の果てまで追跡して取り殺すと有名だったが、真っ向からやり合うのは苦手か?」

「ざっけんな、化け物が!」

「お互い様だろっ!」

 さらなる振り抜き。放たれた暴風から逃げるように藤城戸は飛び上がり、民家の屋根へと着地する。

 状況が悪い。真っ向からやり合えば無事では済まないだろう。

 唇の裏側の肉に歯を立て、藤城戸は忌々しげに二人を睥睨する。

「てめぇら覚えてろよ。今度は仕留めてやる」

「面白みのないセリフだなぁ」

 肉まんを食べていた暁火が朗らかに笑う。戦場にあるとは思えない気楽さだ。

「黙ってな、嬢ちゃん。後悔さしてやんよ」

 中指を突き立ててみせ、藤城戸はそのまま屋根を伝って逃走する。

 元より期限はなく、可能ならば殺せというだけで、それが本来の仕事というわけでもない。

 それでもこれは屈辱だった。女子高生の罠に嵌められ、逃げ帰るという醜態。

 面目が丸潰れだ。

 敗走の道、藤城戸はすでに次の作戦を考えていた。




 担いでいた大剣が途端に消失する。意思に反する武器の消失は、危機が去ったことを伝えていた。

 誰が判断するわけでもなく、妖の力はそういう風にできているのだ。

 郁斗が一度深呼吸をして暁火を振り返ると、彼女はその場でへたり込んでいた。

「埋野さん!」

 よからぬものを感じて郁斗が駆け寄る。地べたに直接座り込んだ暁火は心臓を抑え込むようにセーターの胸元を握り締めていた。

「大丈夫か!」

 顔を上げた暁火は郁那を見て、今度は肩にかけられた両手を見る。そして汗の伝う頬を微かに緩めた。

「武器消えるんですね。許可がないと戦えないって話は聞いてたけど、使う権利がないとかじゃなくて、本当に使えないとは思ってませんでした」

「それどころじゃないだろ! どこか怪我はしていないか?」

 どこまでも能天気な彼女に郁斗は苛立ちさえ覚えていた。

 彼女の我が儘にはいつも振り回されてばかりだ。

 深刻な顔をする郁那を宥めるように暁火はへらっと緩い笑みを見せる。

「大丈夫ですよ。どこも怪我してませんから」

「本当か? 無理はしてな——してませんか?」

「ううん、大丈夫。それよりも」

 暁火はまた自分の掌に視線を向けた。じっと見つめ、深く息を吐き出し、暁火はもう一度郁斗を見上げる。

「今、アタシすごくドキドキしてます」

「そりゃ敵に殺されかけたんだから当然ですよ。全く無理しますね、乗った俺も俺ですが」

「そうじゃなくて、なんて言うんだろう、すごくワクワクしてるっていうか、なんか興奮してるんですよ」

 気付けば暁火の頬は微かに赤らんでいた。潤んだ瞳は目新しいアトラクションを目にした子供のようで、熱っぽい息を吐き出す唇は歓びに開いている。

 その表情は、まさしく期待や喜悦の表情だった。

「これが、妖の世界なんですね」

 暁火が漏らしたその言葉に、郁斗の胸は微かな痛みを訴えていた。

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