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Change The World - Helvetica Girl  作者: コヨミミライ
夜行組へようこそ
8/20

妖の世は常の儘に、

 午前七時。

 ジャージ姿の郁斗と、パンツスタイルのスーツに着替えた菖蒲が食卓を挟んで向かい合うように座っていた。部屋の隅では電気ストーブが稼働し、襖で締め切られた室内を熱気で満たしている。

 聞こえてくるのは小鳥の囀り、そして食器と箸が当たる音。まだ目が覚めきっていない郁斗はのろのろと、対照的に菖蒲はてきぱきと食事を片付けていく。

 二人の前にはそれぞれはじかみの添えられたカレイの塩焼きに、ほうれん草のお浸し、そして鶏肉と大根の味噌汁が並んでいる。

「あんた、それかけすぎじゃない?」

「ん?」

 眠たげな目で雑穀米を掻っ込んでいた郁斗が間抜けな声を上げて、菖蒲を見る。対して菖蒲が見ているのは郁斗の手前、器の底に醤油が溜まったほうれん草だ。

「いいんだよ、こんくらいで」

「明らかに濃すぎでしょ。お浸しは醤油に浸すものじゃないわよ?」

「分かってるよ」

 まだ覚醒していない頭では上手い返しも思いつかず、郁斗は適当に答えて味噌汁を流し込む。

 寒い冬の朝、体に味噌汁の温かさが沁みた。

「そういえば、私はこの後、張と出かけるから、暁火ちゃんのことよろしくね」

「ん? ああ、そうだな」

「一応昨日ある程度説明は終わったんだろうけど、突然で全部は飲み込めてないと思うし、少しずついろいろ教えてあげてちょうだい。本当は私も一緒にいてあげたいんだけどね」

 菖蒲の箸先がカレイの白くふっくらとした身をほぐし、口へと運んでいく。

「まあ、そいつはしょうがないだろうさ」

「暁火ちゃんが可愛いからって変なことしないように」

「するわけねぇだろ」

「あんたのパソコンに入ってるエロいゲームを見ると信用できないのよね」

「二次元と三次元は別だって前から言ってるだろ」

「それはそれで、あんた個人に別の問題が見えてくるわね」

 くだらない日常会話をしていると、どたどたと廊下から忙しない足音が聞こえてきた。

 次第に近付いてくる足音。

「お、おはようございます!」

 襖を開け放ち飛び込んできたのは暁火だった。

 着ている三滝ヶ原高校の制服の襟は乱れ、髪もところどころ撥ねている。よほど急いできたのだろう。肩で息をしていた。

 スカートから伸びる細く白い足のキメ細かな艶が眩しい。ストッキングは昨夜の一件で破れてしまったため、今日は素足だった。膝に張られた絆創膏と所々に見える切り傷の痕だけが少しアンバランスだ。

「おお、どうしたんですか、血相を変えて」

「あ、あの学校に……! 時間!」

 慌てているのか上擦った声はあたふたとしていて、言いたいことが纏まっていないようだ。

「ああ、大丈夫よ。学校には電話を入れておいたから」

「へ?」

 ボタンを掛け違えたままのカーディガンが暁火の撫で肩をずり落ちる。

「勝手にごめんなさいね。今日はまだ安全とはいえないものだから」

「そ、それは構いませんが……」

 呆けている暁火が無性に可愛らしく、菖蒲は柔和に微笑む。

「まずは朝食を食べるといいわ。今持ってくるわね」

「あ、えっと、ありがとうございます。頂きます」

 立ち上がった菖蒲に暁火が小さく頭を下げる。菖蒲は自分より低い位置にある暁火の頭をくしゃりと撫でた。

「いいわよ。持ってくるまでにもう少し身なりを整えておきなさい。支度をしっかり終えた後の方が朝食は美味しいわよ」




「八代目のご様子は如何ですか?」

 バッグを提げた菖蒲が竹林を抜けると、車庫から出されたアウディの運転席の窓が下ろされ、張が開口一番その話題を出してきた。脈絡のない張に菖蒲は呆れたようにため息を吐き出す。

「どうもこうもないでしょう。そうすぐに答えは出ないわよ。運転代わって頂戴」

 予測していたようで張は助手席へと移り、菖蒲が颯爽と運転席に乗り込んだ。

「私が運転をしても構わないんですよ? 雨箒さんの方が先輩なんですから」

「自分以外が運転する車に乗るのは好きじゃないの」

「それはまた難儀なことで」

「出すわよ」

 エンジンが唸りを上げ、車が走り出す。

 車は瞬く間に速度を上げ、取り囲む竹林が次から次へと背後へと流れ去っていく。

「飯綱会の事務所をシケ張りさせていた烏合衆から連絡がありました。昨夜から飯綱会に動きはなし。跡継ぎが誰か分かった途端に電池の切れた携帯電話のように静まり返っているそうです」

「きっと、うちの跡継ぎをどうやって仕留めようかと喜色満面で絵図を画いているんでしょうよ。それこそサプライズパーティーを考える大学生のようにね」

 次から次へと問題は出てくる。

 事態は進展せず、光明もない。成り行きとはいえ、最後のカードである埋野暁火を出さざるを得ない状況となってしまった。

 すでに致命的な展開だ。できれば彼女を巻き込むことなく解決させたかったが、それすらも失敗している。

「一昨日の総会では代理として参加したご隠居が次期管理者の指名を持ちかけましたが、飯綱会の会長にアヤをつけられたとのことです。曰く「正統な後継者なく、権限を失効し義務を果たせぬ以上、夜行組に指名の権利もまたなし」とカバチを垂れ、多くの妖衆がそれに賛同したようです。全く、口とケツから出るものの区別もつきやしない野郎どもです」

 嘲るような笑みで張は語る。

 彼らの愚かさを笑っているのかもしれない。

「妙ね。先代が忌んでからの連中の強気さは何なのかしら」

 飯綱会は組織として小さく、義理場でも末席だ。いくら跡継ぎがおらず夜行組が消滅寸前とはいえ、ここまで積極的に潰しにかかってくるのは意外だった。

「誰かがケツをかいているとしか思えませんね。総会の話を聞く限り、何者かが我々を潰そうと根回しをしているのでしょう。牛の糞より下の事情は知りませんでしたが、存外段々はあるようですねぇ」

「だとすると飯綱会は本当に跡目を殺せば、自分たちが権力を得られると本当に信じているのでしょう」

「頭に春菊でも詰まっているんでしょうか。まあ、八代目が就任するまでの間は大物をたれさせておきましょう。その時になってイモ引いてケツ割ろうとする連中に吐いた唾が戻せないことを教え込み、きっちり落とし前をつけて頂くだけの話です」

「だから、まだそうと決まってわけじゃないわよ」

 思わず菖蒲の唇からため息が漏れる。

 苛立ちを表すように車はさらに加速し、勾配が急な山道を駆け下りていく。

 どれだけ焦っても、何も変わらないことは分かっているのに、心だけが逸っていた。

 体はこんなにも速く進んでいるのに、一歩も動けてはいない。




 暁火が食事を終え、与えられた客間に戻ると携帯電話にメールが届いていた。

 確認すると静江と果穂からのものだったので、静江のメールから開封する。

「おはよう。今日お休みだって聞いたけど大丈夫? 辛かったら無理に返さなくていいので、暖かくしてゆっくり休んでください」

 静江の人柄が滲む文面に心が和らぎ、暁火は微かに笑う。次に果穂からのメールを開いた。

「おっはよー。元気? 休んでるから元気じゃないか! 風邪か? 風邪なのか? とりあえず私が暇なので早めに治してください! 以上!」

「…………」

 暁火は一度果穂からのメールを閉じ、静江への返信を書いていく。

「おはよう、静江。少し体がダルいけど大丈夫だよ。多分明日には行けると思うから、あまり心配しないでね? あと今度、今日の分のノートを見せてください。わざわざ連絡ありがとうね」

 メールを送信し、暁火はそのまま携帯電話をスカートのポケットの中に突っ込んだ。

 これから郁斗は仕事のために出かけるようで、一度夜行組の仕事を見せてくれるらしい。実際の活動を見せて、考える材料を多くしようとしてくれているのだろう。

 部屋を出る前に暁火は大きく息を吸い込む、体全身を使って吐き出す。肺から空気を追い出し、新鮮な空気を取り入れた。

「うっし、やんぞー」

 握り拳を作って暁火は自分に気合いを入れた。




「そういえばあんたも気付いた?」

 市街地の十字路で信号待ちをしている最中、退屈そうに頬杖をかいた菖蒲が口を開く。

 隣で文庫本に目を落としていた張は顔を上げ、片眼鏡の位置を正す。

「八代目のことですか?」

「そうね」

 菖蒲は昨夜の浴場で見たものを思い出していた。

 白く濁ったお湯に浸かった体。細く、それでいて決してやつれているわけではない、しなやかな矮躯。

 撫で肩と浮いた鎖骨と小振りな胸、なめらかなうなじ。

 湯気に紛れ、ぎこちない動きで隠しているようではあったが、彼女が浴場を出る時、菖蒲は確かに見ていた。そして傷の手当てをした張も目にしている。

「そんなやんちゃしていたようには見えないのに、どうしてあんなに古傷ばっかりなのかしらね、あの子」

 背中や太股の内側に残っていた痛々しい傷跡。白い肢体に刻まれた歪み。

 特に背中の肉を抉るような大きな傷は忘れようと思っても忘れられない。

「どこもあまり人目には触れない場所のようでしたね。さて如何なる経緯でついた傷なのやら。お聞きになったら如何ですか?」

 配慮に欠ける張の物言いに菖蒲はため息を吐き出す。

 信号が青になり、一斉に停まっていた車たちが動く。今日はどうやら信号までもが不躾のようだ。

「誰も彼もあんたみたいに厚かましいわけじゃないのよ」

「これはこれは。私の故郷では厚かましさが美徳なものでしてね」

 くすくすと妖艶に笑う張に菖蒲はうんざりとしていた。

「一体どんな人生歩んだら、ただの女子高生があんな傷だらけになるっていうのかしら」




 さすがに理由があったとはいえ、学校を仮病で休んだことは事実なので、制服で出歩くわけにはいかない。

 暁火は郁斗が運転する黒いBMWでアパートに寄ってもらい、着替えるついでに必要な持ち物もいくつか持っていくことにした。すっかりお役御免となっていたリュックサックを押入から引っ張り出し、CDプレイヤーに黒革の手帳、電子書籍用の端末などを詰め込んでいく。

 黒いストッキングに黒いホットパンツを履き、白いセーターに袖を通す。上には秋色のロングコートを羽織り、念のためにとハンチングを少し目深に被り込んだ。

 この時間帯に町を出歩き学生と顔を合わすことはないだろうが、どこから噂が立つのかは分からないものだ。用心に越したことはない。

 荷物を纏めたリュックを肩に引っかけ、着替えを終えた暁火は足早にアパートの前に停められた車へと向かう。

「お待たせしました」

「いえ、全然。早いくらいですよ」

 薄い笑みと共に郁斗が応じる。

 助手席へと乗り込んだ暁火の荷物を受け取り、郁斗はそれを後部座席に移した。手にかかる重みがあまりにも呆気なく、郁斗は不思議そうに片眉を上げる。

「随分と軽いんですね」

「あまり物を持つのは好きじゃないんですよ」

「ああ、確かにそのご様子で」

 ここに来るまで暁火の荷物は旧式の携帯電話と薄い財布と安物の傘、それと細い腕には不似合いな腕時計だけ。強いてあげても大量のチュッパチャップスくらいだ。

 もともとあまり荷物は持たない主義らしい。

 郁斗はここから目的地への経路を一度考えてから車を走らせ始める。

「そういえば今時ガラケーなんですね」

 郁斗が何となく口にすると前を見ていた暁火が視線を郁斗へと向けた。

「やっぱりおかしいんですかね」

「おかしいかどうかはさておき珍しいとは思いますよ。まあ、夜行組ウチの主立った連中が全員スマートフォンのせいもあるんですが」

「そういえば葉月さんと菖蒲さんは林檎マークですよね。女子高生が妖に遅れ取ってるなぁ」

 暁火は困ったような顔で笑う。

「別にアタシは携帯電話なんて繋がれば何でもいいんですよね。友達とか家族とかと連絡さえできればいいって感じなんで」

「現代人らしからぬ考えですね」

 素直な郁斗の感想に対し、暁火は腕を組んで低く唸る。

 BMWの造りがしっかりとした座席に座り込んだ彼女の体はより一層小さく、か細いものに見えた。

「あんまり、そういうの持ちたくはないんです。家族が心配するからって最初に持たされたものを今でも使ってますからね」

 菖蒲の携帯電話の連絡先に入っているのは叔母と叔父、それに静江と果穂、あとはスーパーの店長の泉田にバイト先の手子峰だけで、昨夜ようやく菖蒲の連絡先が増えたところだ。

 静江や果穂ともメールはするが、そこまで長々とやり取りをするわけではない。持って歩いてはいるが携帯電話に触れている時間はほとんどないも同然だった。

「なんだか意外ですね。イマドキの女子高生っていうのは流行りに敏感だと思っていましたが」

「いやあ、普通はそうなんじゃないですか? アタシの周りはやっぱりみんなそうですし。スマートフォンが便利ってのも分かりますけど、別にアタシには必要ないんじゃないかなって思っちゃうわけですよ」

「なんというんだか、流されませんね、埋野さんは」

「取り残されてるだけですよ、きっと」

 素っ気なく言って暁火は前方に視線を戻し、思い出したようにふふっと笑声を転がした。

 郁斗の運転する車は市街地を走り抜け、次第に車通りが減っていく。三滝ヶ原は中枢である湊本駅周辺こそある程度発展はしているが、それ以外の地域は基本的に田舎だ。

 少し車を走らせれば当然のように田園風景が広がり、公共交通機関も運行数が少なく、主な移動手段は自家用車となっている。

 二十分ほど車を走らせ辿り着いたのは、ちょうどその都会的風景と田園風景の中程にある青柳あおやぎという場所だった。

 背の低い建物が建ち並ぶ二車線の道路から細い路地に入り込んでいくと、居並ぶ民家に紛れた一軒の古びた喫茶店が見えてくる。

「こんなお店あったんですね」

「いつ来ても閑古鳥すら見かけない店ですよ」

 冗談めかして答え、郁斗は喫茶店の前に車を停めた。

 小さな駐車場で恐らく三台程度しか停めることはできないだろうが、埋まりそうな気配もない。

 郁斗は素早く車から降り、慌てて暁火も続く。

「ここが目的地ですか?」

「ええ。店主が夜人なんですよ」

 車のドアを閉め鍵をかけた郁斗は悠々とした足取りで喫茶店へと向かう。寂れた店先に寒風が吹き込み、肩を竦めた暁火のコートの裾がふわりと膨らんだ。

 郁斗がドアを開けると来客を伝えるベルが鳴り、暁火も郁斗が開けていた入り口から中へ早足に入り込む。

 空調による暖かい空気、そして香ばしい珈琲豆の香りが鼻腔をくすぐった。心の躍る香りだ。

 白い壁と深い色合いの木材による調度品、くすんだ真鍮の飾りによって構成された店内に人気はなく、まるで代わりを務めるように人形や動物のぬいぐるみ、ブリキの玩具などが並んでいる。

「よう、畠山。儲かってるか」

「そういうことを君が言うのかい? 相変わらずのご挨拶だね」

 カウンターに立っていたタートルネックの男性が苦笑交じりに答える。

 金色の長髪を後ろで結い、少し長めの前髪を脇に流した、如何にも好青年そうな外見をした人物だ。

 黒いエプロンをかけた畠山という男は、郁斗の脇に立つ暁火に気付き片眉を上げる。

「おや、新人さんかい?」

「あ、えっと、アタシは」

「体験入社みたいなもんだ」

 何と説明していいのか分からず言葉を詰まらせる暁火に代わり、郁斗がざっくばらんに答える。そんな言い回しでいいのかと一瞬暁火は不安になったが、畠山は「ああ、なるほど」と納得していた。案外妖の世界では当たり前のことなのかもしれない。

 畠山は中性的な顔で暁火に微笑みかける。

「よろしく。僕は畠山浩輔だ」

「どうも、埋野暁火です。よろしくお願いします」

「アケビちゃんか、可愛い名前だね。地回りの付き合いなんて大変でしょ。こいつ多分、今めっちゃ丁寧だと思うけど、地は荒いから気を付けてよ」

「余計なこと言うなっての」

 カウンター越しに郁斗が畠山の頭を引っぱたく。叩いた郁斗は心底不服そうだが、畠山は変わらず爽やかな笑みを浮かべている。

 あまり痛がる様子もなく、畠山は暁火にウィンクをしてみせた。

「ほらね、こういう奴だから」

「うっせ、とっとと金出せ、金」

「うわ、ホントにチンピラみたいだ」

 乱暴な口調で催促する郁斗に肩を竦め、予め用意していたのであろうカウンター裏から畠山は分厚い封筒を取り出した。

「それじゃこれが今月分ね」

「一応確認するぞ」

「ああ、頼むよ」

 郁斗は受け取った封筒の口元から、分厚い中身の頭を出す。現れたのは紙幣の束、それも万札だった。

 流石に見慣れない札束に暁火も少しだけ目を瞠る。

「お、おお、札束だ」

 珍しく面白い反応を見せる暁火に郁斗は少しだけ得意気に笑いながら、札束の枚数を数えていく。

上納金アガリっつってな。俺たち妖衆の管理下に置かれている連中は毎月納める決まりになってんだ」

「毎月、そんな大金をですか? 大変じゃないんですか?」

 思わず心配してしまう暁火がおかしくって畠山も釣られて笑ってしまう。

「むしろ安いくらいだよ。このお金さえ払っていれば、俺たちに与えられた戸籍は維持されるからね」

「戸籍、ですか?」

「そ、戸籍。俺たち生まれが人間じゃないからね。出生届なんてものもないから、本来この世に存在していないはずなんだ。だけど、夜行組みたいな妖衆の管理下にあってお金さえ納めれば、戸籍を用意してくれるってわけ」

「あ、そうか。妖衆は国と繋がりがあるから、それができるってことか」

 昨夜、菖蒲や張から教えられたことを暁火は思い出す。

「そういうことー。在野の妖衆は、こいつら夜行組のような地区一帯の管理を任された妖衆と盃を交わし上納金アガリを出せば、コミュニティとしての存続が許されもする。そして夜行組は関東妖連合に、関東妖連合はさらに妖衆総本山に上納金アガリを納め、それらを政府に納めている。これらが国益となるからこそ俺たちのような組織は国から認められているんだ」

「国は利益を得ることができ、妖たちは人間たちに混じって暮らすための人権が与えられる。そういうことですね」

 金額を確認している郁斗の代わりに畠山が頷き説明を受け継ぐ。

「そんでもって妖という超常の存在による事件に対処することができ、しかも戸籍の維持をしなければならない妖は基本的に勤勉で、その上体の作りが人間とはそもそも違うから使いやすいわけよ」

「確かにナイフで刺されても平気ですもんね」

 郁斗に目を向け妙に納得する暁火に畠山が苦笑する。

「ま、それはこいつの体が特段おかしいんだけどね。とりあえずはそういうギブアンドテイクになってるわけよ。だからこれくらいの金額は安いもんなわけさ」

「んー、妖の世界もいろいろな事情があるんですねやっぱり」

 おとがいに指をかけて、暁火はここまで聞いた話を頭の中で反芻する。

 超常の怪奇現象への対策組織であり、妖の生活を支える管理組織でもあり、それ以外にも多くの仕事がある。今暁火が見聞きしたものはその一端でしかないのだろう。

「ま、それもこれも人間の世界の暮らしやすさあってこそだけどね」

 全てはそこに帰結する。

 人間の文明と文化がここまで発展しなければ、今日の関係性は生まれなかっただろう。長らく自然界と共にあった妖にとっても、人間の生み出す芸術や技術、娯楽はどれも魅力的だった。

「よし、相変わらず過不足なしだ」

 金額の確認を終えた郁斗は札束を戻した封筒を懐へと収める。

「それはよかった。もう行くのかい?」

「ああ、回るところがまだあんだよ」

「そいつぁ忙しい。後でランチでも食べにおいでよ」

「面倒くさい奴から先に済ませてるってのが分からないのかね」

「酷いなぁ」

 そう言いながらも畠山は笑っていた。郁斗の顔も不機嫌そうではあったが、目に険のようなものはない。

 先を急ぐ郁斗についていくように暁火も店を後にしようとして立ち止まり、一度畠山へと向き直る。

「いろいろ教えていただきありがとうございます」

 深々と一礼する暁火に畠山は一瞬目を瞠り、腰に手を当ててすぐに相好を崩した。

「いいんだよ。アケビちゃんみたいな可愛い子相手に僕は紳士だからね。今度プライベートで来てよ。うちのハヤシライスは評判がいいんだ」

「ハヤシライス、いいですね!」

 顔を上げた暁火もはきはきとした声で応じる。

 美味しい食べ物はそれだけで興味をそそるものだ。暁火も例外ではなく、期待に目は輝いていた。

「自画自賛ってのもなんだけど、味に自信はあるから、時間が空いたら来てよ。待ってるから」

「ええ、その時はよろしくお願いしますね」

「もち!」

 畠山は爽やかな笑顔で親指を立ててみせる。

 気前のいい畠山の言動はまさに人間のそれで、心優しい言葉は人間よりも人間らしくあり、容貌もまた人間のそれとは変わらない。

 人間と妖の境界線は一体どこにあるのか、いまいち暁火にはぴんと来ていなかった。




 次の目的地はそう遠くないらしく、車は畠山の喫茶店に置いたまま、閑静な住宅地を郁斗と暁火は歩いていく。

「いろいろやることが多いんですね」

「まあ、大抵は下っ端の仕事ですよ。もし埋野さんが組長になったとしても、こういったことをすることはありません」

 暁火が前を見たまま口を開き、郁斗もまた暁火を見ずに返答する。

 足下から前方へと伸びていく並んだ二つの影が互いが隣にいることを伝えていた。二つの影の背丈は全く違い、自分より遙かに短い影に多くを背負わせつつあることを再認識して郁斗の胸が微かに痛んだ。

 明るい声からは思い悩んでいる様子は窺えない。例え顔を見ても、彼女が何を考えているのかは読み取れないのだろう。

「じゃあ、もし組長になった時の仕事ってどういうものになるんですかね」

「そうですね。一番はやはり組織としての顔役ってのが大きいでしょうね。貴女は夜行組が代紋を背負うことになります。もちろん最終的な決定権は常に埋野さんにあり、我々夜行組の行動は全て貴女の意志によるものということになります」

「んー、いまいちぴんと来ないような……」

 暁火が隣で唸る。影は腕を組み、郁斗の隣でふらふらとしていた。

 頭の中で暁火にどう説明すべきなのか郁斗は考える。年端もいかない少女が背負うかもしれない責任は出来るだけ伝えなければならない。

 かといって言葉を尽くしすぎれば、却ってそれは伝わらないように思えた。

「通常の業務ではあまり意識することはないでしょう。ただ、例えば妖の秩序を乱す者がいた時、その者に対して我々が力を行使することを決めるのは貴女になります。その責任はやはり埋野さんが背負わなければなりませんし、夜行組全体の力は貴女の保有する力と同義です」

「力。アタシの力、か」

「我々の力は強大です。そして力に善も悪もありません。もちろん我々は埋野さんのサポートに徹し、出来る限りのことは伝えます。しかし、世の中には善とも悪とも区別できない物事があります。その時貴女がどのように力を使うのか、そもそも行使するのかしないのか。最終的な判断は埋野さんが下さなければなりません。人や妖の命が関わる決断を下すことの重みは分かりますね?」

 暁火からの返答が少し遅れる。それでよかった。それだけ考えているのなら安心すらする。

「二つを天秤にかけてどちらを生かすのか決めなければいけない時もあるかもしれないっていうことですよね。んー、確かにそれは責任ですよね」

 言葉の表面だけから考えるなら、暁火は郁斗の言ったことを正確に捉えてくれている。

 しかし、その声に陰りはなく、能天気すぎるようでもあった。常に彼女の声質には気楽さめいたものが含まれている。

 一瞥したその横顔、引き結ばれた唇には変わらぬ笑み。黒く大きな瞳は真っ直ぐに前を見つめていた。

「しっかり考えてくださいね、自分が背負うかもしれないもののことも」

「大丈夫ですよ、そんなに心配しなくても。ほら、何かを得るっていうのはいつだって何かを背負うってことじゃないですか。後は、責任と得るものの釣り合いがどう取れてるか、だと思うんですよ」

 さらりと暁火が紡いだ言葉が郁斗の足を縫い止める。

 彼女の価値観の一端に触れた指先から全身へと電流が走り抜けたような感覚。

 郁斗は自身が誤解していたのだと心底思い知らされた。彼女が何を考えているのかは表情から読み取れず、ただ漠然とまだ何も決めていないものだと思い込んでいたのだ。

 しかし、彼女はそれよりもずっと先に踏み込んだ考えを巡らせていたのかもしれない。

 少なくとも立ち止まってなどいなかった。

 先を歩いてから郁斗が立ち止まっていることに気付いた暁火が振り返る。

 黒い髪がふわりと広がった。

「どうしました?」

「いや、ちょっと驚きまして」

「ん? 何にです?」

「考えてたんですね、いろいろ」

「そりゃ考えますよー。大事なことですから」

 声を出して暁火が笑う。

 それくらい彼女にとっては当然のことなのかもしれない。だが郁斗にとって、そうではなかった。

「もっと戸惑っているものかと思ってたんですがね、俺は」

「前も言ったじゃないですか。考えてはいるけど、悩みはしてないって。菖蒲さんたちも言っていたようにしっかり考えてはいるつもりですけど」

「自分が今の立場になったことや、重大な役目を任されることに関しても、悩みとかないんですか?」

 普通ならば、そういうものなのではないか、と郁斗は思っていた。

 暁火の今の状態は突き詰めれば不条理だ。ただ普通に生きていた女子高生が突然、妖衆という今まで縁もゆかりもなかった組織のトップに突然なれと言われている。その上、すでに厄介事にも巻き込まれ、命の危機にまで晒されている。

 これが不条理でなくて何だというのだろう。もっと恨み言の一つや二つ並べられるものだと郁斗は予想していた。

 なのに彼女の表情は曇ることを知らず、瞳は炎が宿っているかのように力強い。

「そんなの考えてもしょうがないじゃないですか。多分なるべくしてなったものだと思うし、そのことについてとやかく考えても何も変わりませんよ。皆さんはアタシに考える猶予をくれて、その上こうやって実際にどういうものなのか見せてくれている。そしたらアタシにできることはしっかりそれを踏まえた上で、自分の決断を下すことじゃないですか?」

「そうかもしれないが、本当にそれでいいのかって――と、いけね」

 敬語が抜けていたことに気付き、郁斗は口を押さえる。つい必死になってしまった。

 暁火の受け答えが自分を顧みていないようで感情的になりつつある。少し驚いたようで暁火の口はぽかんと開いていたが、すぐに両端が上がっていく。

 悪戯心のある小粋な笑みだった。

「畠山さんも言っていましたけど、そっちのが素なんですね」

「すみません。つい抜けてしまいました。先代のご息女に失礼な口を」

 郁斗は即座に頭を下げるが、暁火は快活な笑い声で応じた。

「いいんですよ、そんなの。葉月さんの方が年上でしょうし」

「そういうわけにはいきませんよ。そこはしっかりしておかないといけません」

「そうですか?」

「そうですよ」

 頑なに拒む郁斗に暁火はスキップでもするような足取りで近寄り、後ろ手を組んで上目遣いに見上げる。

 黒い瞳には茶化すような、少年めいた輝き。

「アタシからすると、ぎこちない敬語で話されるよりそっちの方が楽なんですけどね」

 痛いところを指摘されて郁斗の頬が少し赤らむ。それ自体が情けなく、郁斗は渋い顔を作って明後日の方角に顔を向け、落ち着かずに頭をかいた。

 どうやら女子高生に不慣れだと見抜かれてしまう程度には自分の敬語は下手だったらしい。

「もっと気安く話しかけてもいんですよ?」

「それはまあ、少しずつ考えておきますよ」

「大体なんで敬語なんですか? 菖蒲さんみたいな感じでいいじゃないですか」

「どうだっていいじゃないですか。さっさと仕事を終わらせたいですし、急ぎますよ」

 深く追求されることを避けて、郁斗は暁火の脇を抜けて歩き出す。

 その口調は幾分かぶっきらぼうで、突き放すようで、先程までの畏まったものより気安かった。

 先を行く背中を少し見つめ、笑みを少しだけ深くして暁火もまた彼の後を追って歩き出す。

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