夜が溶け込む。
暗い室内。
いつの間にか雨は止み、窓から射し込む青白い月明かりだけが闇を切り取った空間に電子音が鳴る。絶望的な音楽の中、郁斗の手に収まる液晶にはゲームオーバーの表示があった。
再挑戦を拒否し、郁斗は携帯ゲーム機を畳み、布団の上へ投げ出す。
「ダメだ、全然モチベが上がらない」
ため息を吐き出し、頭を掻く。
もやもやとした気持ちを発散するためにゲームをしてみたが、全く気分が乗らない。
どうにも落ち着かない。こんなことしている場合ではない、という気持ちばかりが郁斗の胸の中に蟠っていた。
息抜きをしているはずなのに却って気疲れする。
こんな気分では到底眠れもしないだろう。
郁斗はため息を吐き出し、立ち上がる。
部屋を出て台所へと向かい、中に入っていたスポーツドリンクを喉に流し込んだ。それでも気分は冴えない上に、飲み物が喉につっかえているような感覚さえあった。部屋に戻ってもすることはなく、余計に悶々とするだけだろう。
苦し紛れの気分転換として縁側を歩いていると、庭に向かって座り込む少女の姿があった。
浴衣を着た黒髪の少女。右の脇髪だけを耳の上で留め、右耳には小さな銀のピアスが揺れている。
「埋野さん」
声をかけると暁火は顔を上げ「ああ、葉月さん」と微かに笑う。
「風邪を引いてしまいますよ? お疲れでしょう?」
「大丈夫ですよ。お風呂に入って疲れも抜けましたし」
膝を抱えるようにして縁側に座った暁火はにこやかに答えて、庭に目を戻した。
隣に立った郁斗も同じように庭を眺める。
しんと静まり返った夜気。多くの者たちが出払い、屋敷内の多くも寝静まっている今、静寂だけが降り積もっていた。
「妖も夜には寝るんですね」
「ん? ああ、そうですね。人間の生活リズムに合わせなければなりませんから」
郁斗たちはともかく、社会に溶け込んでいる妖たちは人間の生活で生きるしかない。彼らに合わせて自然と朝に起き、夜には眠る生活となっていた。
「眠れないんですか、埋野さん」
思い立って問いかけると暁火は白い息を吐き出し、夜空を見上げる。
変わらず表情に屈託はなく、思い詰めている様子ではなかった。
「眠れないっていうより、少し整理しようと思いまして。いろいろな話を聞きましたし」
「突然のことばかりですからね。決断を急かすようなことはしません。時間をかけて考えてください」
そして何より郁斗はそうしてほしかった。
焦燥にかられ、周囲に流される形で決断をしてほしくはない。
「ちなみになんですけど、もしアタシがならなかった場合ってどうなるんですか?」
暁火の問いに郁斗は腕を組んで少し唸る。
政にはあまり詳しくない頭で、今後の流れを予想していく。
「そう待たずして夜行組は組織としての形を保てなくなります。早々に新たな管理者を探すことになるでしょう。夜行組はここら一帯の妖衆をまとめ上げてはいますので、恐らく兄弟分から選ばれていくはずです」
「管理する人が変わって、後はその人達次第っていうわけですかね」
「でしょうね。本来は跡目が見つからない場合、その時点での総代が次の管理者を指名するのですが、今回は何分急だったもので。飯綱会は恐らくこの混乱の間に手回しをして、自分たち、または自身の兄弟分などを管理者にすることを企てているのでしょう。彼らは義理場の末席であることが以前から気に食わなかったようですし」
「んー、いろいろあるんですね」
まだ会って間もないが、暁火の感想はどれも簡素だ、と郁斗は思っていた。
そして何より、穏やかではきはきとした口調に反して淡泊である。
しかし薄情というわけではなく、複雑な物事をシンプルに捉えられているようでもあった。
それは彼女から見える世界の断片であり、断面なのかもしれない。
「じゃあ、新しい管理者が決まるまで、あの殺人者は野放しになってしまうんですか」
「いえ、その心配はありません。飯綱会の、というよりもあの男の目的は跡継ぎである埋野さんを見つけ出して始末することです。そして俺たちが貴女を庇ったことで、跡継ぎが埋野さんであることは明らかになりました」
「ああ、そうか。なら向こうはもう無差別に殺す必要がないんだ」
「もし、埋野さんが組長にならなかったとしても、貴方は先代のご息女です。今までと変わらない日常を送れるように、俺たちが護ります。誰かのためだとか、俺たちのためだとかではなく、自分のための選択をするように考えてください」
振り返った暁火は目を丸くして、隣に立つ郁斗を見上げた。
そしてすぐに微笑み、また夜空を見上げる。
青白い月。夜の冷たい風に浸透するように光は滲んでいる。星の光も綺麗に届き、満天の星空が広がっていた。
「なんだか意外ですね。ならなくてもいいと言われるとは思ってもいませんでした」
「先代、貴女の父親は貴女を跡継ぎとすることにあまり乗り気ではなかったようでした。しかし、先代は自らを慕い集った者たちを路頭に迷わすような真似もよしとはしないお方でした」
「あはは、それは難しい問題ですよね。二律背反っていうんでしたっけね、こういうの」
暁火は笑う。まるで無関係のように笑う。
先代のどちらの遺志を尊重すべきか迷い、結局郁斗たちは齢十七の娘一人にその決断を丸投げしてしまった。その無責任さが分からない暁火ではないだろう。
この数時間の間だけでも郁斗は分かった。彼女は聡い。
それでもどうして笑っているのだろうか。
「ていうか、そうか。アタシの父親なんですよね」
ふと暁火が独白する。
感情を捉えさせない平坦で、空虚な声だった。
「先代、夜行鷹緒について何か訊いたことはありませんでしたか?」
暁火は腕を組み、小さく唸る。
「そもそも父親がいないってことに疑問を感じたことがなかったんですよね。普通に母親と二人で暮らしていて、父親がいるなんてこと考えたことなかったっていうか」
「すごいですね。周りを見ておかしいとか思いませんでしたか?」
「んー、それが当たり前でしたからね。でもそっか、お母さんが死んで、もう一人だと思ってましたけど、アタシにはつい最近まで親がいたんだ」
哀しむわけでも、喜ぶわけでもない、小さくなだらかで抑揚で、ただ感じ入っているような声だった。
血の繋がりはあれど、一度も顔を合わせたことすらない父親は他人と変わらないのかもしれない。
見たこともない肉親がいたという事実と、その人がすでに死んでいたという現実、しかもその人物との因果によって今この状況に陥っているという結果。あまりにも複雑なそれぞれのことが今、暁火にどんな感情を起こしているのか、郁斗には分からない。
空を見上げる彼女の口角は変わらず上を向いている。
「悩んでいますか?」
「んー、どうでしょう。悩んでるっていうよりも考えてるだけですかね」
暁火はどこからか取り出したチュッパチャップスの包装を外し、口に銜え込んだ。
「できることがあるのにしないってのは放棄だと思いますし、できるからっていって軽はずみに請け負うのも無責任じゃないかなってね。ま、ちゃんと考えてみますよ、いろいろと」
そう言って暁火は歯を見せて屈託なく笑う。
まるで楽しんでいるようだ、と郁斗は心の隅っこで思ってしまっていた。