人に非ざる人
詳しいことは安全な場所に着いてから説明する、と青い瞳の男は言った。
何から何まで分からず、また目の前の男さえ自分にとっての味方と言えるのかどうかも分からない状況であったが、その一言でまだ自分の身が危機に晒されたままであるということだけは暁火にも分かった。どのみち、この状況下で自分ができることはない。
いっそ開き直り、傘を差してくれた男と共に覚束ない足取りで歩いて行くと、有料駐車場へと辿り着いた。なんてことはない、よく通る道にある見慣れた駐車場だ。そこに一台の白いアウディS4が停まっていた。
男と並んで車に近付いていくと正面右側に位置する運転席の窓が下ろされる。
クセ一つない艶やかな紅い髪と細い眼鏡越しに見える理知的な瞳。男物のスーツを着た見覚えのある容貌に暁火は目を丸くした。
「貴女は」
「さっきぶりね、店員さん。改めてこんばんは。とりあえず乗ってちょうだい」
店に来た時と変わらぬ穏やかな口調で言って、美女はくすっと笑う。
ドアの鍵が外される音。男がドアを開け、暁火は促されるまま車へと乗り込む。
「濡れてるんですけど、大丈夫ですか?」
座席は赤い革張りだった。ライトに照らされた表面に目立った汚れはなく、汚れきった状態で座るのは気後れするものがある。
「構わないわ。状況が状況だもの。これ使って」
目の前の運転席に座った女性が身を乗り出して、真新しいふかふかのタオルを差し出す。暁火は一言礼を言ってから受け取ると、反対側の扉がちょうど開き、青い瞳の青年が乗り込んできた。
「あんたも使いなさい」と言って、女性がタオルを男へと放り投げる。乱暴な手つきで受け取った男はわしゃわしゃと掻き毟るように頭を吹き始める。それを横目に見て、暁火も髪の毛の水気をタオルで拭っていく。
「どこまで説明したの?」
「まだ何も」
「何も? 何から何まで?」
車のミラーに映る女性の目が驚きに見開かれた。
「呆れたわ。貴女も貴女でよく着いてきたわね。こんなワケも分からない男に」
「え? ああ、まあ、今更どうすることもできないですし、逃げてもしょうがないな、と思いまして」
脇髪をタオルで挟み込むようにしながら暁火が答えると、女性は感嘆とも呆れとも取れるため息を漏らした。
「肝が据わってるのね。血を感じるわ」
「血?」
「あとで説明させてもらうわ。それで」と美女がまた後部座席へと身を乗り出してくる。
知性的に輝く瞳に真っ直ぐに見つめられ、暁火の背筋がぴんと張った。
「まず自己紹介をしましょう。私は雨箒菖蒲。で、そっちが葉月郁斗。詳しいことは後で説明するけど私たちは夜行組という組織の者よ」
「雨箒さんに葉月さん」
「菖蒲でいいわよ。よろしくね、暁火ちゃん」
菖蒲が愛らしい笑顔で首を傾げるように暁火の顔を覗き込んでくる。
人形のように整いすぎた顔に寄られ、背もたれに埋もれるほどに引き下がった暁火の顔が少しだけ赤らんだ。
「ふふ、大変な目に遭ったのに、結構けろっとしてるのね」
「ま、まあ、過ぎたことですからね」
暁火の返答が気に入った菖蒲は上機嫌に笑い、身を引いて座席に座り直す。
車のエンジンがかかり、臀部から振動から伝わってきた。スクーターとは比べものにならない力強い唸りだ。
「道すがら話しましょう。あまりここに長居するのも危険だしね」
菖蒲の運転で車が動き出す。
ゲートの前まで移動すると車が停まり、暁火の隣に座っていた郁斗は何も言わずに菖蒲から差し出された駐車券を受け取り降車した。車を回り込んで支払い口へ向かい、会計を済ませていく。
運転席が左側にあるので降りて支払いを済ませるしかないのだと暁火は気付いた。
「領収書忘れないでよ」
「分かってるよ」
郁斗の面倒そうな声。首に水をたっぷりと吸ったタオルを引っかけた暁火は、遮光用の黒いシートが貼られた窓越しに、ゲートの蛍光灯に照らされた背中を見つめる。先程まで非日常的な光景を繰り広げていた背中が、今は財布の中の小銭を数えているのは何とも不思議な感覚だった。
「いろいろあって疲れちゃったかしら?」
「いえ、そういうわけでは」
呆としていた暁火が疲れているように映ったのだろう。菖蒲は鏡越しに後部座席を見ていた。
「バイト終わった後で悪いけど、もう少しだけ付き合ってちょうだいね。貴女にとっても他人事ではないはずだから」
暁火は低い天井を見上げる。座席に頭を預けると、今まで以上に振動が体に伝わってきた。
冷え切り、疲れ切った体には心地よいマッサージのようだ。
今、暁火が何を考えているのか、菖蒲には読み取れない。表は落ち着いていても、内心ではまだ混乱していて思考が纏まっていないのかもしれないし、もしかするとこれからの話のことに考えを巡らせているのかもしれない。
どちらにせよ菖蒲は、説明の責任を果たすだけだ。それが現時点で彼女にできる唯一のことだった。
何から説明すべきなのか、菖蒲は必死に考える。何度も頭の中で反芻した言い回しが分かりづらいものではないか、説明として不適切ではないか、どの順番で説明すれば一番分かりやすいのか見直していく。
出来る限り彼女が事態を飲み込めるように尽くすのが、彼女に対して誠意だ。
「あ、そういえば!」
革張りのシートに凭れかかっていた暁火ががばりと身を乗り出す。
「ん? どうしたの?」
「あ、あの人……葉月さん刺されてるんです!」
「ああ、気にしなくていいのよ」
暁火の言葉をさらりと流し、何でもないように菖蒲は笑う。緊迫感のない反応に流石の暁火も目も瞠った。
「深く刺されてたんですよ! 早く治療しないと!」
説得を試みる最中、車のドアが開かれ、会計を終えた郁斗が乗り込んでくる。サファイアのような透き通った瞳が不安げな暁火の目と交錯した。取り乱した様子に郁斗は首を微かに傾げる。
「どうかしましたか?」
「あ、いや、その……」
暁火が口ごもっている間に車は走り出す。丁寧で繊細なハンドル捌きだ。揺れも少なく、加速にも危なげがない。
「ちょうどいいわ。多分見た方が早いでしょうし。郁、ちょっと傷口見せてあげなさい」
「ん? ああ、なるほどな」
菖蒲の意図を汲み取り、郁斗は湿りきった開襟シャツの裾をたくし上げた。剥き出しになったのは六つに割れた逞しい腹筋。滑らかな表皮を押し上げる筋肉の脈動に暁火は少しばかり顔を強ばらせる。
「え?」
傷はなかった。かなり深々と刺されていたのだから、見落とすようなことはないはずだ。
確かに郁斗は刺され、事実シャツには夥しい赤黒い血液が染み込んでいた。穴が空くほど自分の腹筋を見つめてくる年頃の少女の姿に郁斗が思わず笑ってしまう。
「そんな見ないでくださいよ。視姦ってのも乙ではありますが」
「しかん?」
「郁、後にしなさい」
聞き慣れない単語に首を傾げる暁火を素通りして刺すように鋭い声が運転席から投げ入れられる。
郁斗は大仰に肩を竦め、シャツの裾を戻して整えた。
「刺されて、なかったんですか?」
「刺されましたよ、そりゃ。血もべっとりついているでしょう?」
苦笑交じりに言って郁斗は正したばかりの裾を引っ張る。ピンと張られた生地には確かな血痕。暁火には分からないが、それでも偽物とは思えない。
刺されたというのに傷がない。傷がないというのに、先程確かに刺されたという。
暁火には意味が分からない。
「不思議でしょう? 私たち体の作りが違うものでね。大抵のことはすぐに治っちゃうの。肉に裂け目ができたくらいじゃ、あっという間よ」
本当になんてこともないように菖蒲は言う。聞く者に、その程度は確かに大したことはないと思い込ませてしまいそうな言い回しであり、事実菖蒲はそう捉えているのだろう。
車はいつの間にか湊本駅裏の狭い道を走っていた。人一人ない暗く勾配の激しい道を時速六十キロで駆け抜ける。
細道を選んで小刻みに曲がる走り方は、何かを振り払おうとするものだった。
「体の作りが違うってどういうことですか?」
「私たちね、妖なのよ」
しばしの間。
暁火はじっとミラー越しに菖蒲の目を見つめていた。菖蒲も前方を見つつ、様子を窺うように暁火の表情にちらちらと視線を向けている。沈黙の後、暁火はそっと細い息を吐き出した。
「妖……妖怪みたいなものですか」
菖蒲の言葉を反芻する。たどたどしい声に戸惑いはなく、純粋に事実を確認する類のものだった。
「少し違うけれど、まあそんな感じかしら。あまり驚かないのね。もっとびっくりしたり、笑われると思ったわ」
「いや、そう簡単に信じられはしませんけど、その前にすごいものも見ちゃいましたから」
暁火の表情は曖昧だった。気丈に笑ってるようでどこか頼りなく、詰まってしまいそうな言葉はしかし芯が通っている。
少なくとも菖蒲の言葉を全く信じていない様子ではない。
「何か普通じゃないのは確かに分かりますけど、妖っていうのは突拍子がなさすぎて」
「ふふ、まあ、そうよね。妖って言っても私たちはちょっと毛色が違ってね。一般的に言われる妖よりは幾分人寄りよ」
「人寄り……人ではないんですね」
「そりゃ妖ですから」
郁斗が肩を竦めて、自嘲するように笑う。暁火はそんな郁斗を横目で見て、眉根を寄せた。
「貴方も、それにさっきの奴も」
「ええ、妖です」
暁火の言葉尻を郁斗が引き継ぐ。
車はいつの間にか林道を走り始めていた。長らくここに住んでいる暁火でさえ知らない道だ。
この車がどこに向かっているのかは分からない。何が待ち受けていようと、今更逃げられはしない。
「例えばそうね。私、雨箒菖蒲は一般的に雪女とされている一族の生まれよ」
妖――妖怪の中では触れる機会の多い名前だった。ごく一般的にありふれた名称だというのに名乗りとして聞くのは初めてであるということが、なんだか無性に奇妙だ。
「もちろん、雪女だから冷気を扱えるわ。というよりも代々、氷の妖術に秀でた一族だったから、そう呼ばれるようになったのだけれどね」
「ようじゅつ?」
また聞き慣れない単語が出てきた。
「埋野さんはゲームをしますか?」
分からないことばかりで頭を悩ます暁火に対して、何の前ぶりもなく郁斗が問いかける。不意打ち気味によく分からない話題を振られ、考え込んでいた暁火は素っ頓狂な声を上げた。
「え? あ、あー、まあ、最近はあんまりですけど、昔はそれなりに」
「ロールプレイングとかも?」
「有名なのを、ちょっとは」
質問の真意が分からず、怪訝な顔をしながらも暁火は答える。
「あれで魔法ってありましたよね。火とか雷とか出るものです」
「それはまあ、ありましたけど」
「あれの妖版が妖術です」
とてつもなくざっくりとした説明だった。
納得がいかず思わず暁火も渋い顔になってしまう。あまりの適当さに運転席の菖蒲も額に手を当てていた。
「まあ、大体そんなものなんでしょうね。細かい違いはあるけれど、今はそう捉えてもらって構わないわ」
「いいんですか?」
「多少違っても何となく理解できていれば、とりあえず大丈夫よ」
妖。妖術。すでに分からないことばかりだ。その上、まだ何かあるような口ぶり。
くたびれきった体には多少堪えるものもあった。
「皆さんが妖ってのは正直まだよく分からないですけど、じゃあ、なんでその妖がアタシを襲ったり、こうやって助けてくれたりするんですか?」
殺されそうになった理由は分かる。
あれは間違いなく犯行現場だ。目撃者を殺すというのは、ドラマなどでもよく見かける、ありがちな展開だろう。
しかし助けられる理由は一つもない。暁火にとって菖蒲は先程会ったばかりの人で、身を呈して守ってくれた郁斗に至っては全く知らない他人。そんな二人が何故自分を助け、こうして事情を説明してくれているのか。
暁火には分からない。
「そうね。それは本題に繋がってくるわ」
怜悧な双眸が鏡を通して暁火を見据える。
先程までは少し気安さのあった菖蒲の表情は引き締まり、至極真面目なものになっていた。
思わず暁火の背筋も伸び、居住まいが正される。
暁火は口に溜まった生唾を飲み込み、答えをせがむように菖蒲の目を見つめ返した。
紅を差した唇から息が漏れる。ゆっくりと呼吸をし、菖蒲はおもむろに口を開く。
「実はね、貴女に私たち夜行組の組長になってもらいたいの」