そして日常は終わりを告げ
三滝ヶ原高校から一番近い駅はスクーターで二〇分の走った先にある湊本駅。この付近で一番大きく、唯一商業施設を抱える駅ビルでもある。
その湊本駅の隣には、多少値の張るホテル郡が横並ぶ。そのビルの地下で細々と営まれている喫茶店兼バー『ジャックワイパー』が暁火のバイト先だ。
もともとは雑居ビルとしてテナントを受け容れていたのだが、数年前湊本駅が駅ビルへと改修されるという話が広まり出した頃にグランドホテルとなった経緯があり、ジャックワイパーはその雑居ビル時代から営業している。そのためホテルと地下は内部で繋がっておらず、地下に行く場合は正面から見て左端にある急勾配の狭い階段を降りていかなければならない。
西洋の高級ホテルのような外装をした中、肩身も狭そうに置かれているネオンの看板は何とも場違いだ。
タイルもところどころ砕けた階段を降りると、天井が低く、また妙に長い通路が広がっている。蛍光灯に照らされた細長い空間は妙にのっぺりとした印象を与え、味気がない。
両側にはテナントが入ることのなくなったスペースだけが並んでおり、末期的な病院めいた風情さえある。
歩み慣れた道を暁火は進み、最奥のジャックワイパーへ辿り着く。
細長い小さなドアと店内を覗ける窓。看板の類は一切ない。肝心の窓にも近くのライブハウスのイベント情報が記載されたチラシが貼り付けられており、中の様子を窺うにもある程度の決心が必要だろう。
古いせいなのか妙に甲高い悲鳴を上げる扉を開け、暁火は薄暗く狭い店内へ入っていく。まちまちに置かれた黒い丸テーブル、入って左にはドラムやアンプの置かれた低いステージ。右側にはカウンターと無数のお酒が並ぶ棚。
黒を基調とした内装は絞られた間接照明に照らされており、全体的に薄暗いながら不自由ではない。
落ち着いた雰囲気の情緒ある空間には、微かに流れるジャズがよく溶け込んでいる。
カウンター席では、エプロンを着た女性が斜に座り、片手で開いた文庫本を読んでいた。
よほど読書に集中しているのか、来店を告げるベルが鳴ったにも関わらず暁火に対して反応を示すことはなく、カウンターの傍まで来て、ようやく彼女は暁火の存在に気付く。顔が上げられ、元来鋭い目が暁火へと向けられる。黒絹のように滑らかな髪を頭の上で丸めた、どこかひんやりとした印象を与えるほどに鋭く、整った顔立ちの女性だ。
「ああ、代わりって埋野さんだったんだ」
真壁が独白するように静かな声で言う。
「はい。荻山さんの代わりで」
「うん。聞いてるよ。とは言っても今日はあまり忙しくならなそうだけどね」
言って、真壁は誰もいないテーブル席に目を向ける。今日はライブもないので、来るのは一九時以降に来る常連の面子だけだろう。
「この時間帯はいつもお客さん少ないですけど、今日は特に少ないですね」
「最近は物騒だから。そのせいかもしれないね。ていうか十中八九そうでしょ」
「ああ、そういえば。犯人が早く捕まるといいんですが」
「全くだね。そうしないと時子も私も路頭に迷ってしまう」
クールな表情のままに冗談めかして言われ、暁火も笑う。
「そうならないように頑張らないといけませんね。それじゃアタシは着替えてきます」
真壁は片手を挙げるだけで応じた。
暁火はカウンターの脇を通り、厨房を素通りして、休憩室へと向かう。シックな店内からは一転して、休憩室はフローリングの床に白い壁、暖色系を基調としたインテリアで纏められた明るい空間だ。
中央に置かれたダイニングテーブルには抜群のスタイルを誇る肢体をパンツスーツに包んだ妙齢の女性。後ろ髪を留め、テーブルに広げた書類に向かって、何やら書き物をしていた。
「おはようございます。店主」
「ん? ああ、メノーか。おはよう」
ペンを止め、暁火へと振り返った手子峰は細い眼鏡を押し上げた。
「突然バイトを入れてしまい、すまなかったな」
「いえいえ、気にしないでください」
暁火は休憩室の奥のハンガーにパイロットコートをかけ、手に取ったエプロンを着ていく。
「でも荻山さんが病欠なんて珍しいですよね」
「ん? ああ。どうにも突然だったらしくてな。電話口でも辛そうだったよ。全く、オギーをダウンさせるとは一体どんな未知のウィルスなんだか」
手子峰にとって、荻山の病欠は未だに信じられない事態のようだ。
デスクワークの時にしかかけない眼鏡を外した手子峰は、眼球の疲れを追い出すように目元を揉み込む。吐く息もいつになく重々しい。
「お疲れですか?」
エプロンの紐を結んだ暁火が手子峰の向かいの席に座り訊ねる。
「いや、そうではないんだがな。昨日はどうも近所が騒がしくて、よく眠れてないんだ」
「あー、それは災難でしたね」
連続殺人事件だけではない。街全体の治安が悪化していた。
ほんのささやかな変化ではあるが、町全体がじりじりと何かにのしかかれ、軋みを上げている。
空気そのものが張り詰めた琴線のような緊張感を纏っているような感覚。
得体の知れない焦りにも何か。
「最近は妙な連中を多く見かける。交通事故なども増えているし、私の知り合いの店でも不審火が起こった。オギー以外にも体調を崩している者も多い。一体何がどうなっているんだか」
「町そのものがストレス溜め込んでるみたいですよね」
「まさしくそんな感じだな。メノーも何かあれば言うんだぞ?」
「アタシは今のところ特に何もないですよ。いつも通り平和に充実してます」
「そう言うことを皮肉なく言えるのはメノーのいいところだな」
暁火の何気ない一言に手子峰は表情をそっと和らげる。
嘘でも、虚勢でもない言葉であることを手子峰は分かっていた。飾り立てているわけでもないし、ましてや信じ込もうとしているわけでもない。
暁火は自分の人生が平和で充実しているものだと、ごく当然のように感じている。
それは最早一種の才能であると手子峰は捉えていた。
「周りの人たちに恵まれてるんですよ、きっと。みんながよくしてくれるから、こうやって特に苦もなくいれるんです」
謙遜する風でもなく、暁火はまた当然のように返す。
「そういう風に感じ取ることができることこそが、まさにいいところだよ。道理で君の周りが充実しているわけだ」
手子峰はカップに注がれた熱いカプチーノを口に含む。暁火は手子峰の言葉の意味が分からず、不思議そうに眉根を寄せて、首を傾げていた。
当初の予想通りジャックワイパーに訪れる客は常連ばかりであった。
暁火にとっても気心の知れた仲であり、特に忙しいということもない気楽な時間だ。
手子峰はカウンターで常連客たちと話に花を咲かせ、暁火と真壁が注文通りに酒やつまみとなる料理を運んでいく。
大皿に盛った唐揚げを仕事終わりの中年男性とその後輩の若い男性の座るカウンターに暁火が持っていった時、ちょうど店のドアが開く。
「いらっしゃいませー」
はきはきとした声と共に振り返る。来店したのは見慣れないパンツスーツ姿の女性だった。
店主の手子峰にも負けず劣らずの大きな胸に締まったウェスト、タイトなスラックスを履いた脚は細くすらりと長い。
日本人離れしたスタイルのよさだ。肌は雪のように白く、顔立ちは理知的で落ち着き払っている。何よりも目を引くのは紅い長髪。黒の上に色を塗り足した時特有の不自然さがない、髪の芯から色づいている艶やかさ。背中まで真っ直ぐに伸び、クセ一つない。
細いシルバーの眼鏡をかけ、まさにキャリアウーマンといった出で立ちだ。
黒いバッグを肩にかけた女性は暁火と目が合うと、紅を差した唇にすっと笑みを宿した。
暁火は盆を脇に抱え、とたとたと女性に歩み寄る。
「いらっしゃいませ」
「どうも」
凜としているようで優しい、綺麗な声で女性は小さく頭を下げる。
「ここは初めてですか?」
「ええ。少し気になって寄ってみたの。大丈夫かしら?」
「もちろん! どうぞ好きにおかけください」
紅髪の女性は促されるままに、すぐ傍にあった席に腰掛け、足下にバッグを置いた。
「オススメはあるのかしら?」
丸テーブル上のラミネート加工されたメニュー表を手に取り、赤髪を耳にかけながら訊ねる。暁火はおとがいに指を引っかけ、少しばかり考えるように唸る。
「アタシは未成年なので、お酒のことはあまり分からないんですが、食べ物でしたらこちらのガーリックトーストなどは人気ですね。カマンベールをつけて召し上がると美味しいですよ」
「あら、素敵ね。じゃあ、それとアイスコーヒーをお願いしてもいいかしら?」
「かしこまりました。ガーリックトーストにアイスコーヒーですね。少々お待ちください」
一礼して、暁火は静かな歩調でカウンターの隣の厨房へと下がる。
ちょうど小休憩を取っていた真壁がキッチンの前に椅子を置き、足を組んで煙草を吸っていた。手元の文庫本を読みながら、人差し指と中指で煙草を挟み、口元を覆うように咥えている。
「煙草は外で吸わないとダメじゃないんですか?」
諫める風ではなく、冗談めかして言うと、真壁の鋭い目が暁火を一瞥し、すぐに文庫本へ落とされる。
「ん? んー」
気のない返事だった。
「店主に怒られますよ」
「時子のことは気にするな。というか、新しいお客か?」
「話題を逸らしますね」
指摘に対して真壁は大して反応を見せず、身を乗り出して店内を窺う。
四人がけのテーブルに一人座る赤髪の美女の姿。知的に落ち着いた容貌はメニュー表を眺め、口元を綻ばせている。
真壁は癖で口笛を吹きたくなる気持ちを抑え、唇を尖らせたまま浮かせた腰を椅子へと戻した。
「いい女だな。乳がでかい」
「また、そんなおっさんみたいな。お客さまに変なことしないでくださいね?」
「私は自分からちょっかいを出したことは一度もないよ。自慢じゃないけどね」
刃物を連想させる鋭利な目で真壁はお茶目にウィンクをしてみせる。愛らしさよりも、底知れぬ冷たい予感を呼び起こす仕草だった。
泰然自若とした静かな佇まい、穏やかでありながらも抑揚にかけ、酒に焼けた低い声、何よりも獲物を見据えるようなキツい眼光。真壁の振る舞いは爪を隠した鷹を思い起こさせる。
「煙草はほどほどにしてくださいね。料理に臭いがつくのはまずいと思いますから」
「ああ。外が暖かくなったらな」
暖簾に腕押し。改める余地のない真壁の説得を諦めたように、暁火は手早くアイスコーヒーを用意し、ガムシロップとミルクをお盆に載せて赤髪の女性へと運ぶ。
「お待たせしました」
「ええ、ありがとう」
優しい口調で赤髪の女性が応じる。
テーブルにそっと置き、暁火はちらっと女性に目を向けた。
身に添うパンツスーツを着こなす彼女の姿を暁火は今まで一度も見たことがない。長年住んでいるこの僻地、これほどの存在感と美貌を持つ姿は意識しなくても目につきそうなものだというのに、だ。
日本人離れした外見からすると、もしかするとここに暮らしているわけではないのかもしれない。
そこで暁火は、指を絡めた手に細い顎を載せ、どこか淫靡な上目遣いで自分の顔を見つめてくる紅い瞳に気付いて、覚えず身を硬くした。
「あ、あの、アタシの顔に何かついてますか?」
「私からすると、貴女の方が何か言いたげに見えたけれど?」
くすくすと意味ありげな笑声がテーブルの上に転がる。
すっと暁火の白桃のような頬に朱が映った。
「あ、いや、この辺りでは見かけないくらい美人だったもので」
「あら、このお店は可愛い店員さんが口説いてくれる素敵なサービスつきなの?」
「そ、そういうわけではないですっ!」
ムキになって言い返す暁火に赤髪の女性は上機嫌に笑う。怜悧な印象に反して、笑う顔は愛らしく、また少女めいていた。
「ごめんなさいね。冗談よ。つい嬉しくなっちゃってね」
暁火はまだ腑に落ちていないようで微かに赤くなった顔で落ち着きなくセミロングの髪を撫で付けている。その様子がまた愛らしくもあった。
「でも」と前置きをして、美女の目はカウンターで客と話し込んでいる手子峰に向けられる。
話は随分と盛り上がっているようで手子峰も快活に笑っていた。暁火の目も釣られて手子峰を見ている。
「あそこの方は私よりずっと綺麗じゃない。私なんてそう珍しいものでもないわよ。ツチノコじゃあないんだから」
「店主も綺麗なのは認めますが、貴女も十分綺麗ですよ」
「お上手ね」
くすっと美女がまた笑う。
目の前の小さな店員は認めているのか、はぐらかしているのか、判然としない態度に納得していない様子だ。
「一応言っておくと、私はこの近くに暮らしているのよ。ただいつも仕事が忙しくてね、あまり出歩く機会もないだけなの。期待を裏切ってしまってごめんなさいね?」
「いえ、そんなことはないですけど……」
「最近物騒だから、今日は早めに帰れたの。とは言っても、こんな時間帯に帰るのもなんだか久々で、無性に落ち着かなくてね。前から気になっていたこのお店に寄らせてもらったっていうのが本当のところよ」
赤髪の美女は左の髪を耳にかけ、コーヒーの注がれたグラスにそっと触れる。絞られた照明を受け、琥珀色に透けて見えた。
「そういえばさっき未成年って言っていたけど、貴女は学生さん?」
「え? ええ、そうですね」
「学業にバイトで大変ではない?」
思わぬ言葉に暁火は一瞬虚を突かれ、すぐに表情を緩めた。
「そうでもないですよ。むしろ楽しいくらいです。やりたいことをやってるっていうのもあるので、充実してますよ」
「今時珍しいわね」
「バイトも学校も今しかできないことですから。やれるうちにやっておきたいじゃないですか。いろいろ体験してみたいですしね」
はきはきと話す暁火に美女の目が細められる。眩しきものを見つめるようだ。
「ねぇ、もっと別のことに挑戦できるとしたら、してみたい?」
「挑戦って大それたことをしようとは思ってはないですけど、んー、経験する機会があるのならしてみたいですね」
そこまで深く考える素振りもなく、暁火は答える。円らな目に偽りの色はなく、むしろ期待の色さえあった。美女は小さな店員の明るい表情を見つめ、ゆっくりと眼鏡の位置を正す。
何かを見定めるような瞳だった。
ジャックワイパーの営業時間は四時までであるが、学生である暁火は九時で仕事が終わる。
シフトを終えた暁火は、仕事の合間に真壁が作った料理を夕食として頂いた後に、店主と真壁、そして常連の面子に挨拶をして、ジャックワイパーを後にした。
通り慣れた長く無味乾燥とした通路を進み階段を上ると微かな雨音。急な勾配を登りきって地上に出ると、案の定降りしきる雨が暁火を出迎えた。
「おー、占いもたまには信じるものだね」
片手に握った傘に目をやり、暁火は唇の両端を吊り上げる。
落ち込むわけでもなく、暁火は自然な動作で傘を開き、帰り道を歩き始めた。
この雨の中、スクーターには乗れないので今日は置いていかざるを得ない。
幸いバイト先から家までの距離はそう遠くない。三〇分も歩けば着くだろう。
「ま、たまにはこういうのも趣があっていいよね」
鼻唄混じりに暁火は歩く。思い出したように降りしきる雨のせいか、街並みに人の姿は少ない。車道を忙しなく駆け抜ける車のライトと、居並ぶ店舗から漏れる光。
人の息づくことを確かに示す光がこんなにも溢れているというのに、道行く者はいない。女子高生が一人で歩いて行く様は不自然で奇妙でちぐはぐだった。
水たまりの中で弾ける色とりどりの光。雨水に拡散した光がキラキラと砕けた宝石のように落ちていく。
簾を指先で弄ぶようなささやかで心地よい雨音。通り抜ける車のタイヤに跳ねる水音。
水の旋律、光の律動。
飴を咥えて歩む暁火の足がふと止まる。
細い路地の真ん中に誰かが立っていた。
黒い影。すでに営業を終え、締め切られた商店が並ぶ道、街灯が虫の羽音のような音と共に激しく明滅する。
「止まれ」と書かれた赤く錆び付いた標識。店の窓にはジャックワイパーのライブ情報、そして三滝ヶ原のイベント情報のポスター。
カメラのフラッシュのような白い光の明滅。暁火の目が閃きの度に、見慣れた通りの見慣れない光景の一瞬を切り取っていく。
影の足下には何かがあった。黒い塊。
人の形をしていた。否、人であった。
歳も性別も分からぬがそれは確かに人だ。黒く焼き焦げた人型。
一歩、覚えず後ずさる。ローファーの踵の下で水たまりが弾けた。
佇む影の頭部が微かに動く。
「誰だ」
低い、突き刺すような声。若い男の声だった。
水が跳ねる。大きな歩幅で男が近付いてくる。
迷わず、暁火は踵を返して駆け出した。
脇目も振らず走る。路地を見つけては曲がり、細い道を突き進み、走る。
畳んだ傘を肌が白むほどに握り締め、息を切らせて、脇腹に刺すような痛みを感じながらも走り続けた。
背後から足音が迫ってくる。きっと追われている。振り返っている余裕はなかった。
風を切り裂く悲鳴めいた音が耳朶を後ろから撫でる。背筋が一瞬にして凍り付くような感覚。
暁火の体が前方へと撥ね、体を捻るようにして畳んだ傘を振り抜く。何かがぶつかる音。足下に金属が転がる。
「ラッキーアイテム!」
着地と同時に、つんのめりそうになりながらもさらに走って行く。全力で逃走する。
どれだけ走っても、人気のいる場所に辿り着かない。自分がどこを走っているのか、どうすれば人のいる場所に辿り着けるのか、考えている暇さえなかった。
濡れそぼった服が重い。体にべったりと貼り付き動きにくい。冷たい水気がいつまでも肌の上から消えず、暁火の体温を奪っていく。
どれだけの距離を走り、どれだけの時間を走り続けていたのかも判然とはしない。
全力で走り続けた足は上手く持ち上がらない。疲労の限界に達した足がもつれ、踏みとどまることもできず暁火の体が前のめる。
水飛沫。暁火の小柄で華奢な体がアスファルトに倒れ込んだ。
喘ぐような呼吸。鈍い胸の痛み。早鐘を打つ鼓動。
足はがくがくと震え、立ち上がることもできない。力が入らなかった。
打ち所が悪かったのか、肩からも激しい痛み。
全身が冷え切り、寒かった。アスファルトに地をつき、這いずるように動こうとした暁火の目の前では黒い影がしゃがみ込んでいた。
「見つけたぜ、嬢ちゃん」
影が気安い声を発した。
「そう怖い顔すんなよ。月並みだが、見られたなら殺すしかねぇんだ。嬢ちゃんも少なからず怪異に関わりがあるみたいだしよ」
男の手の中でナイフが閃く。刃が血のように赤いナイフだった。
荒い呼吸をしながら、もう立ち上がることもできない状態でありながら、暁火はその影を睨み付ける。声すら絞り出せない暁火の最後の反抗だった。
「じゃあな」
影がナイフを振り上げた瞬間、暁火の頬を冷気が撫でた。
背筋も凍る冷たさ。目の前の影がしゃがんだ体勢から地を蹴り、後ろへと飛び下がった。
ナイフを構えたまま、影が周囲を見回す。
「またしゃしゃり出て来やがったのか!」
影が舌打ちし、倒れ伏す暁火に迫る。ナイフの赤い閃き。
暁火の耳をけたたましい雨音が埋め尽くす。いつの間にか雨が強まっていた。目を逸らさず、応じるように迫り来る影を凝視する。
その視線を何かが遮った。
くぐもった音。飛沫に煙る視界、二つの影が重なり合っていた。暁火を守るように立った新たな影の腹部に深々と突き刺さるナイフ。
頭を満たす雨音の中、舌打ちだけが鮮明に聞こえた。
「やっぱりテメェらかよ、夜行の」
「思い通りにはさせないさ」
暁火に背を向けた男が応じる。腹部にナイフが刺さっているとは思えないほど平然とした声。
翳っていると思った髪は、黒に見紛うほどに深い蒼だった。
「いいのかよ? 今のお前らが事を構えてよ?」
「本来、その権限はないが、今は状況が状況だ。やるってんならやってもいいんだぞ?」
ナイフを持った影が掠れた笑声を上げる。
「つまりビンゴってことかよっ! 尚更見過ごせねぇな!」
引き抜こうとしたナイフが抜けない。暗蒼の髪の男は深々と刺さったナイフを片手で押さえ込んでいた。
「そう簡単に行くと思われちゃ困るな」
「クソが、さっさと死ねよ」
影が切り裂こうとした瞬間、再び周囲の温度が急激に低下する。二人の足下に溜まった雨水が表面に氷を作り始めていた。
「流石に分が悪ぃか」
「引くってんなら、テメェのこの小物を返してやるが?」
男の嫌味に、影は再び舌打ちをした。
「どこまで行ってもムカつく野郎だぜ」
後ろに飛び下がる影。手元ではナイフが煌めく。赤い刃を滴る紅い雫は雨水を受けて次々に洗い流されていく。
「跡継ぎの顔はこの目でしかと見たぜ。次は殺してやる」
「そりゃまた、随分と分かりやすい負け犬のセリフだな」
「吠えてろ、犬が」
吐き捨てるように言って、影が飛び上がる。商店の軒を蹴って、さらに上昇し、向かいの建物の瓦屋根へと着地したそれは、一度暁火たちを睨んだかと思うと、屋根を伝ってどこかへと走り去っていった。
残されたのは濡れ鼠となった二人の男女。体を起こした暁火はいっそ開き直って、アスファルトの上に座り込んでいた。立ち上がろうにも体は思うように動かず、冷え切った体は小刻みに震えている。
額に貼り付く前髪を掻き上げて後ろに流し、目の前の背中をじっと見つめた。
聞こえるのは雨音ばかり。事態に気を取られ、意識から外れていたが、随分な豪雨になっていた。
側溝から溢れた雨水が道路の上を小川となって流れていく。
しばしの空白の後、彼は振り返った。
最初に見えたのはサファイアを眼窩に嵌め込んだような透き通った青い瞳。夜の暗闇の中でさえ光を放っているように眩く鮮烈な青。どこか痛みを堪えるように細められていた。
長身痩躯に纏った白い開襟シャツに黒いチノパン、そしてブラウンのフリース。全てが水に濡れ、腹部だけが異様に黒ずんでいる。
血だ。体に貼り付き透けた布地を染め上げていた。
青い瞳の青年がふらりとどこか頼りない足取りで暁火へ歩み寄り、崩れ落ちるように前の前で膝をつく。
倒れかけたのかと、暁火は小さく声を上げ近付こうとして、しかし足が動かずにじり寄ることすらできない。
「お嬢様」
男が呟く。
低く、湿っぽい声だった。
男はしゃがみ込んでいるわけではなく、跪いているのだと、そこで暁火は気付いた。
「お迎えに、上がりました」
声はどこか痛切だった。身を切り裂く痛みに耐えて絞り出すようで、聞いている者の心さえ痛みそうだ。
深々と頭を垂れる眼前の男が雨音の中に転がした言葉に呆けた顔をしていた暁火はおずおずと自分の顔を指差す。
「お嬢って……アタシのこと?」
「はい。夜行組第八代目組長、埋野暁火様。お迎えに馳せ参じました」
並べられた単語、その一つひとつの意味を捉えあぐね、暁火は自分の顔を指差したまま、目を丸くしていた。