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Change The World - Helvetica Girl  作者: コヨミミライ
怪奇へと廻りて帰る
2/20

埋野暁火の日常

 陽が昇る。

 何千、何万を繰り返し、それでも飽きることなく、数え切れないほど繰り返される景色。世界の果てから今日も、何も知らぬ顔であっけらかんと太陽が焦らすように昇ってくる。

 朝露が光に弾け、目覚めた雀が次第に鳴き始めていく。

 しんと冷えた朝の空気に暖かい光が浸透し、金色の光が建ち並ぶ家々の屋根を照らし出す。

 誰が夜を惜しんでも、今日から逃げたいと思っても、朝は平等だと言い張って慈悲深く、或いは無情に降り注ぎ、固く閉ざした瞼を透ける眩い光で人々に到来を知らしめる。

 彼女の住むアパートの一室にしても例外ではなく、むしろ昨晩カーテンをしっかり締め切っていなかったのが災いして一層酷い有様であった。隙間から射し込んだ細い光は布団に包まり眠る彼女の目を的確に狙い、瞼という自前の盾を突き抜け、目を焼く。

 寝苦しそうに呻き、薄く開いた目で光の射す方を一瞥し、少女はため息交じりに寝返りを打つ。太陽に背を向けて、引き上げた布団に潜り込んだ。

 十二月の冷たい空気と朝日の二重攻撃。効果は抜群だった。惜しむように自分の体温で暖まった布団を被っていると、さらに今度は携帯電話から着信音。初期設定のまま変わっていない電子音は寝起きの耳には少しうるさい。

 寝ぼけ眼のまま手探りで近くにあったはずの携帯電話を取ろうとする。

 ぺしゃんこになった枕よりも少し上で充電用のケーブルに繋がれていた携帯電話を、布団から伸びた手が掴み、そのままほの暗い洞穴へと引きずり込んだ。

「んん……はい、もしもし」

 くぐもった気怠そうな声。

「ああ、おはよう、メノー。起こしてしまったか」

「ん? ああ、はい? ん?」

 電話口で低い女性の笑い声。

「聞くまでもないようだな」

「あ、あれ、あー、はい」

 全く会話になっていない。その応答が面白かったようで電話の向こうの大人びた声の女性はまた笑う。

「分かっているか? 私だ。手子峰だ」

「ん、ああ、なんだ、店主マスターか……店主マスター!?」

 上擦った声を上げた少女は、覆い被さっていた布団を蹴り上げて起き上がる。

 笑い声もいよいよ押さえきれず腹を抱えて笑っているのが目に浮かぶ大笑いがスピーカーから溢れた。

「こここ、こんな朝からどうしましたか!? きょっ、今日シフト入ってましたか? 私すっかり忘れててて!」

「落ち着け、落ち着け。今日は平日だ。そういうわけじゃない」

 枕同様ぺったんこになった敷き布団の上に正座した少女は、その言葉にぴたりと止まる。

 細い黒髪は寝癖で外に跳ね、着ているパジャマも寝相の悪さで着崩れていた。呆けた顔も相まって、何とも情けない。

「あ、そうですか」

 平坦な声が漏れる。パニックになり、安堵して、抜け殻のようでさえあった。

「実は今日、夕方からのバイトが急に体調を崩してしまったようでな。悪いんだが、今日出てもらえないか?」

「あれ、今日のシフトって荻山さんですよね?」

 はっと我に返った少女の言葉に、今度はうなり声が返ってくる。

「そうだ。あの健康と体力だけが取り柄のような体育会系バカのオギーも無敵ではなかったということだな。大事になるといけないから休みを取らせた。急なことだから、無理にとは言えんがどうだ?」

 電話を耳に当てたまま、ちらっと壁にかけられた野暮ったいカレンダーに目をやる。今日の日付には特に予定も書かれていなかった。なんてことはないありふれた平日だ。

「特に用事もないですし大丈夫ですよ。いつも通りの時間帯で大丈夫ですか?」

「ああ、そうだな、助かる。よろしくお願いするよ」

 布団の上に座ったまま、傍に置かれたテーブルの端に揃えて置かれたハードカバーの手帳に手を伸ばし『十八時、バイト』と手短に書き込む。

「それじゃ学校頑張れよ。二度寝はするなよ」

「大丈夫ですよ。それでは失礼します」

 笑いながら答え、携帯電話を耳から離そうとすると「ああ、そうだ」と呼び止められる。

「どうしました?」

「最近はどうにも冷える。あのマギーでさえやられたからな。メノーも気を付けろよ」

 店長の気遣いに少女は一瞬呆けて、その後頬を綻ばせる。

「ありがとうございます。店主マスターも気を付けて」

「ああ。それじゃあこれで」

「はい、また後で」

 通話が終わり、少女は携帯電話をテーブルの上に置く。タッチディスプレイではない、旧式の携帯電話だった。

 ちらりと時計に目をやる。

 まだ随分と時間的に余裕があった。

 喋っていたら脳もすっかり目覚めて、二度寝も必要なさそうだ。

 かちかちと秒針が時を刻む四畳半の狭い部屋。

 小さな座卓と布団と部屋の隅に積み上げられた段ボール。昨日の夜見たまま変わらない風景。

 寝癖でぼさぼさの頭をかき、彼女はゆっくりと立ち上がる。

「とりあえず顔洗うか」

 誰にでもなく、なんとなく呟いた。




 顔を洗い、スカートとブラウスに着替え、その上から黒いカーディガンへ袖を通す。セミロングの黒髪をブラシで梳かし、右の脇髪をピンで留めて身支度はほぼ整った。昨日の残り物と叔母の家からもらったお裾分けで手短に朝食を済ませていく。

 静かなのも居心地が悪く、賑やかし程度の意味合いでかけた朝のニュース番組の最近のトレンドは電撃破局した芸能人夫婦について。あまりいい印象を抱いていないタレントがコメンテーターにいたので、チャンネルを全国放送ではなく、地方のニュースに合わせると三滝ヶ原の連続殺人事件について報道されていた。

 今日未明にまた犠牲者が見つかったようだ。先月の頭から始まり、これですでに十件目。遺体はどれも焼き焦げており、身元の確認にはまだ時間がかかるようだ。

 そのニュースを座卓についた少女は焼き鮭の皮をもさもさ食べながら眺める。

「ご飯時の見るもんでもないね、これ」

 渋々チャンネルを先程の全国放送に戻すと星座占いのコーナーになっていた。

「あ、双子座四位じゃん」

『今日は何か大切な役目を任されてしまうかも。でもプレッシャーに押し潰されずに頑張れば、周りからの評価も鰻登り!? 鯉登り!? ラッキーアイテムは傘です!』

「ほう、ちょっと当たってるか」

 少なくとも今朝方、大切かどうかは分からないが役目が回ってきたと言えなくもない。

 携帯電話で手短に天気を確認すると夕方からは曇りとのことだった。

 少し当たっているので、持っていく価値はあるかもしれない。

「ちょっとは信じてやろうじゃないの、っていけねいけね」

 時計を見ると、大分針が進んでいた。余裕があるとゆっくり構えていたが、少し悠長すぎたようだ。

 卵かけご飯を掻っ込み、じゃがいもと大根の味噌汁を急いで飲み干す。素早く立ち上がって重ねた食器を台所で水に浸し、部屋の壁にたてかけた鞄とハンガーにかけたパイロットコートを引っ掴んで玄関へと向かう。

「いってきまーす」

 忙しなく、踵の潰れたローファーを履いて、思い出したようにビニール傘を手に取って、足早に家を出ていく。

 冷たい風が頬を撫でた。




 吐く息も白む通学路。自分と同じ学校の制服にそれぞれのコートを着た学生たちが歩いて行く。

 男子の一団は最近出たばかりのゲームの話で盛り上がり、女子たちもいくつかの塊になってきゃっきゃと歩きながら話している。

 学校へと続く並木道。木々の足下には落ち葉が積もり、水気のない風が吹くと干涸らびた枯れ葉が地面を滑っていく。植物は不思議だ。暑くて人々が薄着になっている時にぶかぶかと生い茂って、誰もが着膨れしてる時にこそ素っ裸だ。捻くれている。

 随分と飾りっ気のない木のアーチをくぐり、彼女もまたのんびりと歩いていく。

「暁火! おっはよー!」

 後ろから投げられた声に振り返ると、自転車を漕いでくる見知った顔があった。

「おー、果穂。おはよう」

 息堰き走ってきた果穂が暁火の隣で急停車する。細いタイヤが地面を擦った。

「どしたん、そんなに慌てて」

「いやー、寝坊しちゃってさー。部長に叱られるからかっ飛ばしてきたの」

 はっはっは、と息が乱れている割りには快活に果穂が笑う。

「いや、もう十分手遅れだと思うけど」

「うん! だから少しでも軽減できるように急いでいる所存です!」

 握り拳を作り、力強く答える果穂に暁火は曖昧に笑う。

 剣道部の部長は規則に厳しい人だったはずだ。恐らくは盛大に怒られることだろう。

「まあ、むしろまだ時間あるし、朝のうちたっぷり怒られた方が後の部活に響かないっしょ! というわけだから先行くね! また後で!」

 額に浮いた汗を拭って、一息つく間もなく果穂は自転車を漕ぎ出す。

「あ、ああ、うん」

 呆気に取られながら答える頃にはすでに彼女の姿は遠い。驚くべきスピードと体力だ。

「気を付けるんだよー!」

「はっはっは!」

 返答なのかどうかも分からない笑い声を上げて、果穂は立ち漕ぎのまま暁火を顧みて手を振ってくる。ポニーテールがその名の由来の通り尻尾の如く揺れていた。

「いや、だから気を付けろよ」





 教室にはまだあまり人がいなかった。

 疎らにいる同級生たちはそれぞれに固まって何か話している。通り過ぎ際に挨拶を交わしながら、一番奥の席に座ると、前の席に座って本を読んでいた静江が振り返った。

「おはよ、アケちゃん」

「ん、おはよー、静江。部活動してるわけでもないのに毎朝早いねー」

「うち農家だからねー」

 透き通った愛らしい声で答えて、静江がくすくすと笑う。眼鏡越しに見える円らな瞳は小動物めいている。

「そういえばさっき果穂ちゃんも来たよ。今日は珍しく遅いんだね」

「ああ、アタシも登校中にすれ違ったよ。なんでも寝坊したみたいで、かなり急いでたけど」

「そのまま校門前にいた門山先生と衝突事故起こしかけて、すんごく怒られてたよ」

「あー。叱られないために急いで、叱られてんの、あいつ」

 とんでもない本末転倒だった。

 教育指導の門山は何かあるとすぐに職員室に連れて行って説教をする。

 普段は温厚で気前もいいのだが規則などに関しては人一倍過敏だ。恐らく果穂も今頃説教を喰らっていることだろう。

 災難だ。

「猪突猛進っていうかなんていうか」

「たまに猛牛みたいだよね」

「ポニーテールなのに、ね。ポニー」

 くだらない言葉遊びに二人はつい笑ってしまう。

 いつものんびりとして穏やかな静江と、こうやって他愛のない話をするのは暁火の毎朝の日課のようなものだった。

「そういえばアケちゃん、一人暮らしは順調?」

「ん? ああ、二ヶ月目だけど結構何とかなってるよ」

 チュッパチャップスを咥えて、なんとなく現代国語の教科書に収録されていた話を読んでいると、静江が話題を持ち出してきた。生徒達もいつの間にか増え、教室内も賑わい始めた頃だ。

 意味もなく流し読みしていた教科書を閉じて、机の脇へと追いやる。

「家事とかは前からしてたから、むしろ作る量が減って楽なくらいだよ。それに叔母さんもお裾分け持ってきてくれたりするし」

「まあ、叔母さんも心配なんだろうね」

「むしろ心配してくれてるのは叔父さんの方かな。何かと気を揉んでるから、叔母さんが来てくれるみたい」

「あー、叔父さん、アケちゃんのこと可愛がってたもんね」

 静江が朗らかに笑う。暁火の家庭事情も知っているので、心配している叔父の姿が目に浮かんだ。彼女の叔父が娘のように暁火を可愛がっていることを静江は知っている。

 困ったように言う暁火の顔はどことなく嬉しそうだし、きっとまんざらでもないのだろう。

「でも、上手くいってるならよかったよ。突然一人暮らし始めたって聞いた時はびっくりしちゃった」

 何気ない静江の言葉に暁火は少し戸惑うように頬をかく。咥えたチュッパチャップスの棒が心の動揺を示すようにふらりふらりと揺れた。

「あー、いや、ほら、なんかする前から一人暮らしするぞって言うのもなんか気恥ずかしいじゃん?」

「あはは、確かにちょっと恥ずかしいかも」

 応じて笑いながらも、静江は次に繋ぐ言葉を探す。

 どうして暁火が一人暮らしを始めようと思ったのか、静江はまだ知らない。果穂も知らないようであった。

 聞くタイミングを逃し続け、ずるずると二ヶ月。正直に言えば気になっていた。

 叔母夫婦とも仲良くしているようだったのに、何故突然家を出ようと思ったのか。

 後ろめたいわけでもないのに今更になって聞くのも躊躇われた。

「まあ、一人暮らしも最初はどうなるかと思ったけど、してみたらなかなかいいもんだよ、実際」

 頬杖をかいた暁火は窓の外に目をやり、感慨深そうに呟く。

「そうだよね、大変だよね。それなのに家を出ようと思ったのは、何かきっかけでもあったの?」と、咄嗟に閃いた上手い繋ぎを口に出そうとしたその時、教室の引き戸が滑る音。

 担任の駒沢が無気力な挨拶をしながら入ってくる。ホームルームの時間だった。

 静江は渋々、黒板の方を向いて居住まいを正す。

「おーう、おはよう、生徒諸君。出席取るぞー。埋野、アメしまえー」

 縮れたボサボサ頭を掻きながら駒沢が指摘すると、静江の背後からごりごりという破砕音。暁火は返事もせずに飴を噛み砕いているようだ。静江にとっては文化の違いを見せつけられた気分だった。




「暁火お願い! 一生のお願い!」

 午前の授業が終わり昼休み。

 拝むように手を合わせ、果穂が深々と頭を下げる。向かい合わせになった二つの机を越えた先の正面には、紙パックのイチゴ牛乳のストローを咥えた暁火。眉間に皺を寄せ、ストローを噛み締め、心底嫌そうな顔をしていた。

 突き合わせた二つの机に沿うように寄せた机につく静江は、二人の間で戸惑ったように笑っている。

「一生のお願い、今月だけで何回使ってるのさ。何世代先の来世にまでいらぬ貸しをつけるつもりよ」

「いーじゃん! 日本人は生まれた瞬間多額の負債抱えてるっていうし! 貸しの一つくらいどうってこないじゃん!」

 机に手をつき、果穂が身を乗り出す。

「一生の願い軽いなおい」

「頼むよー! ついてきてくれるだけでいいからさっ!」

 手を取ろうとする果穂の手をハエでも払うように叩き落とし、暁火は手で強引に身を乗り出した頭を押し戻す。強引に椅子に座り直させられた果穂は潤んだ目で助けを乞うように暁火を見つめた。

「果穂ちゃんが一人で謝りに行けないって、そんなに怖い人だったっけ、部長」

「いや、そうでも……いや、怖いんだろうけど、ただ勢いを今朝削がれたせいで行きづらいだけだよ、果穂は」

 静江の何気ない問いに暁火はため息交じりに答える。

 時間を置いてしまったので余計に決心がつかないのだろう。

「別にアタシがついていってもそんなに大差ないんじゃないの? ここは小細工なしに正面から行く方が誠意あると思うんだけど」

 痛いところを指摘されて果穂の肩がぎくりと跳ねる。当人も薄々思っていたようだ。

「そ、そうなんだけど……とりあえず部長のところ行くまででもいいから、私を連れて行ってくれないかなって!」

「お前、アタシの貴重な昼休みなんだと思ってるわけさ」

 言いながら暁火はコンビニで買ってきたサンドイッチを開封する。

 膝の上で握り拳を作っているであろう果穂の恨めしげな視線など素知らぬ顔でぱくぱくと昼食を食べていく暁火。静江も静江で多少遠慮がちながらも小さな弁当箱に入ったおかずを小さな箸で口へ運んでいく。

「ほら、果穂も早く食べな」

 話題の終了を言い渡す暁火の無慈悲な一言に果穂が項垂れる。

 頭の中では試合終了のゴングが鳴り響いていた。




 食事が終わった後も果穂は涙目で机に突っ伏していた。

 情けない呻き声を漏らして、しゃくりを上げる果穂を尻目にサンドイッチの包装と空になった紙パックを片付けた暁火は立ち上がる。静江も呆れ混じりに笑って席を立った。

「ほら、行くよ。果穂」

 背中に当たった言葉に一拍置いてから果穂が素早く起き上がり、二人を顧みる。

「え!?」

「先輩、今の時間なら多分部室だから。謝るんでしょ?」

 言って、教室を出て行く暁火の背中を見つめる果穂の目が涙に潤む。

「うぅ……暁火ぃ」

 椅子を蹴立てて立ち上がった果穂は追い縋るように走り出し、そのまま廊下を歩く暁火の背中に低い姿勢のまま抱きついた。

「いっだっ!」

「暁火ぃ! さすがは私の親友だ! 信じててよかった!」

「絶対に信じてなかったよね!? てか歩きにくいから離れてよ!」

 腰にしがみつく果穂を引き剥がそうと試みるが、がっしりと巻き付いた腕はびくともしない。体育会系の底力を見せつけられる。

「あれ、ていうか静江も来てくれんの?」

「まあ、ついていくだけ、だけどね」

「いいの? せっかくのお昼休みなのに? 無理に来ることないだよ?」

「なんでお前はそういう言葉の一つでもアタシに使わないんだろーなー」

 もう引き剥がすことは諦め、暁火はカーディガンのポケットから取り出したチュッパチャップスを咥えて歩き出す。果穂はべったりとくっついたまま離れそうにない。

 さっきまでこの世の終わりに直面しているような様子だったというのに、今はそれが嘘のようにニコニコとしている。

「暁火が私に対して、静江みたいにかんわいー振る舞いしてくれるなら考えてもいいよー」

「そりゃないわー」




 三滝ヶ原高校の剣道場は、体育館に隣接する弓道場のさらに隣にある。

 校庭で遊ぶ生徒たちの声が聞こえる剣道場前に人の姿はなかったが、弓道場からも人の気配を感じた。そんな只中、果穂を先頭に三人は剣道場前の地面に正座していた。

 二段の段差の上、開け放たれた入り口には剣道着に袴姿の女生徒。床に立てた竹刀の柄に両手を添え、冷然とした顔には困惑の色があった。

「部長! この度は!」

 真ん中に正座した果穂が声を張り上げる。両手をそっと膝の前につき、背筋をピンと伸ばす。

「朝練に遅れてしまい、誠に申し訳ございませんでした!」

 果穂に合わせて静江と暁火も深々と頭を下げる。

 沈黙。校庭で遊ぶ男子高生のはしゃぐ声と弓道場の弓が翻る鋭い音、そして学校の前を通り過ぎていく車の排気音。寒風が吹きすさみ、三人の体を無慈悲に撫でていく。

「……いや、つぅか怒ってねぇし」

「え!?」

 ばっと果穂が地面に擦りつけていた額を部長へと向ける。ポニーテールが空を裂くように振るわれた。部長の言葉を聞き、静江と暁火ものろのろと頭を上げる。

 部長は明らかに困惑した顔で、むしろ呆れきっているようでもあった。

「うちの朝練は自主的なもんであって強制じゃねぇって前から言ってんだろ」

「え? あ、あれ……そうでしたっけ、やだなぁ、もー、あはは、ははは、はは……」

 はぐらかすような空笑いが虚しい。背中に感じる寒気とちくちくとした感触。間違いなく斜め後ろにいる暁火からは睨まれていた。

「あ、でも、お前、毎日来てんだから、遅刻したら家出る前に連絡しろよな。最近物騒だから、心配すんだろ」

「部長……! 私を心配してくれるんですかっ!」

「いや、お前がいないと今度の交流試合の時に困るからだよ」

「ぶちょー……」

 何を期待したのかは分からないが、果穂は泣きべそかくような声を漏らして項垂れる。一連の出来事には普段気を遣う静江の笑顔も曖昧だ。

 立てていた竹刀を片手で握り、肩に載せた部長は呆れきった顔でため息を吐き出し、その鋭い視線を暁火へと移す。

「おう、黒ストメリケン女子」

「変な名前で呼ばないでくださいよ、先輩」

「黒いストッキングのメリケンな女子で完璧だろ」

 悪びれる様子はない。さも当然と言いたげな顔だ。

 むしろ文句を言われることに納得がいっていないようにも見える。

「お前、剣道部にいい加減入れよ」

「バイトしてるから無理でーす。それに今から未経験の二年入れてどうするんですか」

「お前がそこの小動物に声かけた男を返り討ちにした話は知ってんだよ。今からでも行けるだろ」

 びっと空を裂いた竹刀に指され、静江の肩がびくりと震える。

 面倒な話を持ち出され、暁火の視線が一瞬静江へ向きそうになり、即座に目標を変更。やけに背筋がぴんとしている果穂の細い背中に照準が合わさる。

「果穂」

 低い声で名前を呼ばれ、果穂が暁火とは真逆の方向へ頭を向ける。

「あんたでしょ」

「……さ、さあ」

「ああ、うん。三浦から聞いた」

「部長!」

 正座の姿勢から前のめりになったと思った途端、果穂はどたどたと四本足で部長の足下まで詰め寄る。

「売るなんて酷いじゃないですか! 薄情ってもんじゃないですか! 薄情の上に白状しちまうなんてダブルはくじょうじゃあありませんか! 俺とお前で部を支えていこうって言ってくれたあの頃の部長はどこへ行ってしまったんですか!」

「どこにも行ってねぇし、んなこと言ってねぇよ」

 袴に纏わり付く果穂を、部長は軽々しく足で振り払う。一代で剣道部を立て直した生きる伝説の主将にかかれば、暁火が手こずった拘束も大したことはないようだ。

「三浦果穂さーん」

 背後から聞こえる、いつもよりも心なしか高く、愛想のよさそうな声。

 果穂は知っている。そんな声を出す暁火が一番怖いということを。

「うっ……」

 振り返りたくない。今振り返れば、とてもにこやかな暁火がいるはずだ。

 それが怖いのだ。絶体絶命のピンチ、ここをどうやって抜け出すべきか、果穂は必死に考える。

 謝り倒すべきか。今日は謝ってばかりなので気が進まない。

 では静江に助けを乞うべきか。火に油を注ぐ事態になりかねない。

 部長に助けてもらうか。ダメだ。部長は味方にならない。部長なのに。

 ならば、いっそここから即座に逃げ出すべきか。一番いけない。そのまま追いつかれ、取り殺される。

「どうでもいいけど、余所でやれよ。道場の前以外で。下級生に変な噂立てられたらどうすんだよ」

 助け船かと思ったらそうでもなかった。もしかすると部長からすると果穂の存在は割とどうでもいいのかもしれない。

 涙目になる果穂を知ってか知らずか、部長はちらちらと道場内の様子を見ている。いい加減練習に戻りたい様子だった。目の前で後輩が命の危機に晒されているというのに、だ。

 果穂の腕が掴まれる。いつの間にか暁火が傍にいた。

「それじゃあ藤堂先輩、アタシたちはこの辺で」

「ん? ああ、出来れば前向きに検討しておいてくれ」

「むっりでーす」

 陽気な調子の否定とはあべこべに果穂の手を引いて歩む足取りは力強い。

 最後の悪あがきとして、果穂は部長に媚びへつらうような上目遣いを向けるが、そもそも部長はもうこちらを見ていなかった。

「それでは失礼します」

「はいよ。またいつでも遊びに来てよ」

 落ち着きのない一礼をする静江には部長も柔らかい態度だ。愛嬌の差まで見せつけられる。

 そもそも先程までのような荒っぽい態度を見せる相手の方が少ない。基本的に部長は社交的で気前がいいのだ。

「先輩の薄情者ぉ……」

「人の話を言いふらすあんたが言うかい」

 自業自得だった。




 五時限目と六時限目の間の小休憩。暁火は北校舎と南校舎の間にある中庭の自販機前にいた。

 スカートのポケットに入れていた蝦蟇口の小銭入れから取り出した百円玉を投入し、迷いなく紙パックの紅茶を選ぶ。がこんと重々しい音を立てて落ちてきたパックを取り出していると、低い唸るような音。

 空を見ると、昼休みはあんなに晴れていた空がいつの間にか分厚い雲に覆われていた。のしかかってきそうな灰色の低い空。

「傘、持ってきて正解だったかな」

 呟きつつ自販機の取り出し口の脇のポケットからストローを取り、ポケットに突っ込む。

 今にも泣き出しそうな雲。すぐに六限目が始まるため周囲に人の気配はなく、奇妙なくらいの静けさが中庭には積もっていた。光が遮られ、目に見える全ての彩度が下がり、色褪せている。

 暁火はそんな校舎をじっと見つめていた。

「埋野暁火さん」

 名前を呼ばれ振り返ると、見慣れない生徒がいた。

「ん? 誰?」

 染めているものだと思われる栗色の髪にブラウンの瞳。貧弱そうな体に制服を着た男子生徒だった。体つきに倣うように肌は血の気が失せているように白く、目も力ない。

 生気や覇気がないというのだろうか。決してやつれているわけでもなく、顔も整っているのだが、どうにもそのよく出来た顔立ちが人形めいていた。

 眼窩に嵌め込まれた硝子細工がくすんでしまっているようだ。

 誰何には答えず、その男子生徒はぼんやりとした目で暁火を見つめ、そして薄く笑った。

「その様子だとまだ何も知らないようだね」

 薄い唇から漏れた吐息が混じった声は平坦なのに、どこか嘲っているようにも感じられる。

 暁火は訝しむように眉根を寄せ、男子生徒へと向き直った。

「何かアタシに用でも?」

「ちょっと忠告をしに来ただけだよ」

 暁火の目にあった疑る色が赤い敵意を帯びる。

「忠告?」

 普段よりも低い声で暁火は聞き返した。栗毛の男子生徒は長い髪を掻き上げ、真っ直ぐに暁火の目を見つめ返す。

 分厚い雲から落ちてきた不穏な空気が中庭を満たしていく。

「そう、忠告だ。君はこれから何があっても、自分の領分を弁えて、余計なことをしでかさないようにした方がいい。でないと、どうなっても知らないよ?」

「…………」

 正体不明の男を前に暁火は唇を引き結び、決して視線を逸らさなかった。身構えるわけでも、後ずさるわけでもなく、挑むように対峙する。

 普段は柔らかな黒い瞳は鋭く、視線だけで射殺そうとしているようでもあった。

「どういう――」

 予鈴が鳴った。

 老朽化したスピーカーから流れ出る音はざらざらとしている。校舎を一瞥した暁火が顔を戻すと、すでにそこには誰もいなかった。

「…………」

 一人きりの中庭。聞き慣れたチャイムの音だけが校舎の峡谷の中で反響する。

 暁火は男がいたはずの場所を睥睨し、探すように周囲を見回し、人影一つないことを確認して、首を傾げた。

「あ、授業遅れる」

 気付いて暁火は駆け出す。




 多くの学生が待ち侘びた終業のベルが鳴り、最後の授業が終わる。

 掃除が終わり、下校前のホームルームでは相変わらず髪の毛がぼさぼさの担任、駒沢がダルそうに最近は物騒な事件も多いので部活をしていない生徒は早めの帰宅を徹底するように呼びかけた。尤も、書類に書かれた文面をそのまま抑揚無く読み上げることを呼びかけと称していいのであれば、だが。

 また部活動の時間も短くなることの説明と、最近は病欠が多いので健康管理に気を配るようにという注意で今日のホームルームは終わった。

 部活の時間が短くなったこともあるのだろう。果穂は挨拶もそれなりに、いの一番に教室を出て行き、静江も静江で家の手伝いがあるため、居残るようなことはせずそそくさと帰っていく。

 急に入ったバイトのこともあるので、暁火もパイロットコートを着込み、チュッパチャップスを咥え、鞄と傘を持って足早に下校する。まだ学校に残っている生徒も多いようで、校門から伸びる並木道に人は少ない。

 校舎の裏の校庭からは男子生徒の張り上げた声が聞こえてくる。バットと硬球がぶつかり合う小気味よい打音。体育館からは靴底のゴムと磨かれた床が擦れ合う音が絶え間なく聞こえ、部室と特別教室が主な北校舎からは軽音部と思われる調子の外れた楽器の音。

 濃紺な冬の夕暮れ空の下、それぞれの部活が、それぞれの生徒が限られた時間を謳歌している。

 どこか雑多で、そして刹那的な情熱と惰性を一カ所に押し詰めた校舎を顧みた暁火は視線を前に戻し、再び歩き出した。

 暁火が通う三滝ヶ原高校は住宅地となった草ヶ台という高台にある。剣道部と陸上部が強豪である以外、目立った特色のない普通科高校だ。立地が立地であるため、特に将来への展望がなかったり、モラトリアム真っ最中である近辺に住む少年少女が多く通っている。事実、果穂はこの住宅地に住み、静江の家もここからそう遠くはない。

 暁火は登校の際に草ヶ台以外に住む生徒を苦しめる急な坂を下りた先の、すぐ近くにあるスーパーマーケットの駐車場へと向かう。夕闇の中、店舗からは眩い光が溢れ、車が忙しなく行き来していた。

 商品を大量に詰め込んで張り裂けそうなレジ袋を両手に抱えた主婦や、仕事帰りと思われる疲れた顔のサラリーマン、それに小腹を満たすものを探しにきた学生、様々な人が交錯していく中、暁火は店舗の脇の狭い道を抜け、裏側へとこそこそと入っていく。

 搬入口と裏口の並ぶ店の裏側には、人目から隠れるようにスクーターがひっそりと鎮座していた。

 座面の上に載せられていたハーフ形の白いヘルメットを手に取り、暁火は座席下のラゲッジスペースに通学鞄を押し込む。

 飾りっ気のない野暮ったいヘルメットを被り、留め具を合わていると、勝手口が開かれた。

 現れたのは壮年の男性だった。疲れきった顔でため息と共に出てきた男性は肩幅の広いがっしりとした体に、目の前のスーパーマーケットのロゴが入った青いウィンドブレイカーを着ている。男は暁火の姿に気付くと、浅黒い肌の上に目立ち始めた小皺を深めるように相好を崩した。

「お、暁火ちゃん」

「お久しぶりです。泉田さん」

 ヘルメットを被った頭をぺこりと下げ、暁火は飴を咥えたまま器用に挨拶する。

「今から帰りかい?」

「はい。これからバイトなんです」

 はきはきと暁火が愛想のよい声で答えると泉田は笑い声を上げる。

「学校にバイトと忙しいな」

「いやいや、そうでもないですよ。泉田さんは休憩ですか?」

「これ、だよ」

 泉田が胸ポケットを叩く。そこにいつも煙草が入っていることを知っている暁火は「ああ」と納得する。

「やっぱり店長は忙しいんですね」

「まあな。店長とは言っても雇われだしな」

 疲れの滲んだ笑みが零れる。白髪交じりの黒髪が苦労を物語っているようだ。

 そこで泉田は自分の弱音にはっと気付き苦笑する。

「大人の愚痴は子供の前で言うようなもんじゃないな。すまない」

「いえいえ! そんな気にしないでくださいよ! アタシこそ、せっかくの休憩なのに、お付き合いしてもらっちゃって」

「いんだよ。級友の可愛い一人娘だ。いつだって歓迎するさ」

 腰に手を当て、泉田は気前よく言う。

 人のいい、悪意を感じない笑みだった。目尻の皺を深くする彼の笑顔はいつでも屈託がなく、少年のようでさえある。

 ふとバイトがあることを思い出し、暁火はカーディガンの袖をまくり、腕時計を見た。

 細い手首には似合わない重々しいシルバーの時計だ。

「時間まずいか?」

「そろそろ行かないと遅刻しちゃいそうですね。それじゃあアタシはこれで!」

 手押しでスクーターの向きを改め、暁火は颯爽とスクーターに跨がる。エンジンがかかり、スクーター全体が武者震いのように震え、荒々しい駆動音を上げ始めた。

「おう。頑張れよ」

「泉田さんも頑張ってくださいね。それといつも停めさせてくれてありがとうございます!」

 ヘルメットの位置を正し、快活な挨拶と共に暁火はスクーターで走り出す。一瞬だけ振り返ると、泉田は同じ場所で手を振ってくれていた。

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