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Change The World - Helvetica Girl  作者: コヨミミライ
暁の火に導かれ百の鬼は夜を往った
19/20

銀の幕は閉じて、黒き幕が待っている。

「あー、疲れた」

 校門を出た暁火は並木道を歩きながら肩を回す。

 顔には明らかな疲労の色が浮かんでいた。

「病み上がりに無理するからですよ」

 後ろを歩く郁斗を暁火は不満そうな目で顧みる。以前から見えているかのように霊体化した郁斗を性格に見ていた暁火だが、妖気を持ったことで本格的に視認できるようになっていた。

「いろいろ心配されて気疲れしただけですよ。果穂には葉月さんのこともいろいろ問い詰められましたしね」

「あー、そういえばそうでしたね」

 総合体育館で一緒にいたところを目撃され、妙な勘違いをされたままになっていた。

 果穂は完全に二人が恋仲だと思っているようだ。交流試合で大勝したこともあってテンションが高くなっているだけでも疲れるというのに、果穂好みの話題を提供する形になってしまった。

 結局、今日のうちに誤解を解くことはできず、静江にまで伝播する始末だ。

 正直に言えば、郁斗も郁斗でいたたまれない状況だった。自分の目の前で恋人なのかどうかという話をされながら、否定ができないというのは歯痒い。

「でも、あの人はなんだかとても嬉しそうでしたね」

 我がことのように喜んでいたのを思い出す。何度も何度も「よかった」と嬉しそうに笑い、時折その眦には涙が滲んでいた。

 心の底から祝っているように、少なくとも郁斗には見える。

「ん? ああ、果穂のことですか? あれは、アタシが今まで男性と親しくなるってことが全くなかったのを果穂は知ってるから、それでじゃないですかね」

 うんざりしたように言う暁火の口元もどこか嬉しそうに緩んでいた。

 勘違いで祝福されたとはいえ、そこまで喜ばれたことは暁火自身嬉しいのかもしれない。

「なんだかそれも意外ですね。総代は誰とでも親しくなれるタイプだと思ったんですが」

「そうでもないですよ。叔父を除けば、こうやっていろいろ話してる男性の方は葉月さんくらいですし」

「男性は苦手ですか?」

「そういうわけではないんですけどね」

 暁火は口早に答えて、腕時計に目を落とす。

「あーそうだった」

「ん? どうしました?」

 訝しむ郁斗に暁火は振り返って、腕時計を嵌めた手首を翳した。

 針が示す時間は十一時七分。現在時刻から大きく離れている。

「止まっていますね」

「そうなんです。あの一件以来です」

 あの一件。総合体育館でのことだろう。

 時計が示している時間はちょうど暁火が妖力を暴走させた前後だ。あれだけ莫大な力の只中にあったため、何らかの故障があっても不思議ではない。

 時計を見つめ暁火は惜しむようにため息を吐き出し、意を決したように郁斗の顔を見上げた。

「葉月さん、寄り道していいですか!」

「なんでだ。疑問形のはなずなのに語尾が全然疑問形じゃないぞ」

「行きますよっ!」




 畠山がいつもと変わらず喫茶店で洗い物をしていると、暁火と郁斗の二人が訪れた。

 店内には畠山以外には誰もおらず、いつも通り寂れている。

 暁火と郁斗は挨拶もそこそこにカウンターに座り、畠山と向かい合った。

「それで、今日はどんなご用件だい?」

「用件がなきゃ来ちゃいけねぇのかよ。ここ喫茶店だろ」

「用がないと会っちゃいけないの、だなんていじらしい科白だね。仏頂面の兄ちゃんが言ってるんじゃなかったら、俺も嬉しかったんだけどさ」

 大仰に肩を竦める畠山とあからさまに舌打ちをする郁斗に、暁火は苦笑する。

 相変わらず二人は仲がいい。

「ちょうど近くに用事があったんで、立ち寄らせて頂きました。先日は、百鬼夜行の動員数の確保にご協力頂きまして、有り難う御座いました。夜行組を代表してお礼を申し上げます」

 いつもの能天気さのない堅い声で言い、暁火は深々と頭を下げる。その様に自然と畠山の表情も温和な笑みが薄れ、引き締まったものとなった。

「頭を上げてくださいよ、組長。僕は報酬を頂いてやっていますから。報酬分の働きをしただけに過ぎません」

 暁火はゆっくりと顔を上げる。畠山をじっと見つめる目は真剣そのもので鋭いものだが、唇には未だ笑みがあった。

 鋭利さと柔らかさが同居する表情は、どこか暁火らしいと郁斗はなんとなく心の片隅で思う。

「あれだけの数を集められたのは畠山さんの人脈あってこそです。本当に助かりました」

「そう言われて悪い気はしませんけどね。今後もご贔屓にしていただければそれで十分ですよ」

 腰に手を当て、畠山は表情を和らげる。

 どうは言っても、丁寧に感謝され、評価されることは喜ばしい。今後の仕事を考えた上での話だが。

「それでお礼を言いに来ただけってわけでもないのだろう、組長ちゃん。一体何をお求めだい?」

「お気付きでしたか。畠山さんは相応の報酬さえあれば如何なる情報でも売るのでしたよね?」

 背筋をぴんと張り暁火は畠山と真っ向から向かい合う。黒曜の双眸の表面はギラギラとした虹彩を輝かせていた。

「そうだね」

「それはつまり、自らが身を寄せる組織の秘密でさえも?」

 畠山は現在、夜行組がほぼ独占している情報屋だ。つまり暁火が示すのは夜行組そのもの。

 味方さえも売るのかどうかという問いかけに、畠山は首を横に振った。

「勘違いされることも多いけど、それはないね。僕は夜行組の情報を横流ししないという口止め料も含めて割高の料金をもらってる」

「では、組織に加わっていない、ただの女子高生の情報は?」

 郁斗が息を呑む。我が目を疑うように、畠山を凝視する。

 腕を組んだ彼はそっと微笑み、細めた目で暁火を睨んだ。

「もう一度訊こうか、一体何がほしいんだい?」

 立ち上がろうとする郁斗を暁火は手だけで制す。

「誰に売ったのか、です。もちろん、嫌とは言わせませんよ?」

 不敵な笑みを浮かべる暁火に、畠山は困った顔で呆れ混じりにため息を吐き出す。

「参ったな、ただの可愛らしいお嬢さんだと思っていたんだけど、どうやら猛禽や大蛇の類だったようだ」




 冬の日没は早い。

 夜も深まった道を暁火と郁斗は歩いて行く。

 居並ぶ民家から漏れる光と散在する外灯だけが二人の歩む道を照らしていた。

「あいつ――畠山の処遇は如何なさいますか?」

「畠山さんが売ったのは夜行組に所属しない一般人の情報です。夜行組と取り交わした約束を反故にしたものではありません」

 暁火の声は堅い。いつも通りの穏やかな表情のようでありながら、目だけは炯々とした野性的な輝きを孕んでいた。

 まるで人の皮を被った妖。隣を歩く彼女から放たれる威圧感に、郁斗の握り込んだ拳の内側も汗ばんだ。

「夜行組が総崩れの危機に瀕し、畠山さんも身の振り方を考える必要があったのでしょう。際どい情報を流してでも、もしもの場合の立ち位置を確保すべきだという判断だったのでは?」

「まあ、きっとそういう考えなんでしょうが……」

「畠山さんは我々夜行組に無償で首謀者の情報を提供してくれました。この一件はこれにて手打ちとします」

 一息で言い切って、暁火は大きく深呼吸して手を打ち合わせる。

「はい! 真面目な話はここまで!」

 その一言で暁火の小さな体から放たれていた威圧的な雰囲気は霧散した。

 本当に霧の如く消え去り、暁火の笑みも自然なものとなる。

 しかし、郁斗はそう上手くは切り替えられず、未だに気難しい顔をしていた。彼の強ばった顔を見て、暁火はむっと頬を膨らます。

「切り替え大事!」

 暁火が振り回す掲げた腕を掴んで、半ば無理矢理にそっと下ろさせた郁斗は重い息を吐き出す。

 強引に作った穏やかな顔は痛みに歪み、今にも泣き出しそうな顔を必死に抑え込もうとするようなものだった。

「そう上手いこと行きませんよ。なかなかどうしてね」

 暁火の顔から上機嫌そうな笑顔が消失し、代わりに郁斗を見上げる真摯な瞳が姿を現す。

「それでも切り替えていくしかないですよ。過去に足を取られていたら、動けなくなってしまいます」

「確かに、そうですね」

 暁火のその一言は郁斗の胸の最も柔らかい場所に深々と突き刺さった。あまりにも的確すぎる言葉のナイフは、心中全てを見通されているようにも思え、自分自身がとても恥ずかしい存在にも思えてならない。

「さ、行きましょう? すぐには切り替えられなくても、なんてことはないって顔して歩いてみたら、そのうちなんてことなくなってるものですよ」

 怯える郁斗を知ってか知らずか暁火はにっと笑って歩き出す。

 弾むような足取り。枷の重みなど知らぬような身軽さ。

 彼女はいつでも何にも阻まれず、何にも縛られていないように見える。

 持ち前の前向きさが彼女をそう見せるのか、それとも彼女もまた、なんてことはないと装っているだけなのか。

 郁斗にはやはり分からなかった。




 毛利金次郎は自室の炬燵に入り、たった一つしかない眼にキズミを嵌め込み、気難しい顔で口をへの字に曲げていた。

 部屋の隅に置かれた石油ストーブが周囲の空気を熱し、上部に置かれた薬缶からは蒸気が溢れる。

 毛利の手先が卓上で細かに動き、機械台に嵌め込まれた腕時計の開かれた内部を弄っていた。

 蒸気の噴き出す音とカチャカチャという硝子細工のような音だけが室内を満たす。

 その静寂を破ったのはチャイムの音だった。作業の手を止め、顔を上げた毛利は眼窩に挟んでいたキズミを外し、玄関を睨んだ。

 この時間帯に人が来る予定はなかった。訝しみつつも億劫そうに立ち上がり、毛利はのそのそと素足で玄関まで向かい、単眼を覗き穴に宛がう。

 ドアの向こうに立っているのは学生服姿の少女だった。

 肩まで伸びるセミロングの黒髪に、真っ直ぐで力強い黒の瞳。パイロットコートに両手を突っ込み、寒そうに肩を縮めていた。脇髪をピンで留め、晒された左耳は隅が赤らんでいる。

 埋野暁火だった。

 毛利は素早く鍵を外し、ドアを少しだけ開く。

「嬢ちゃん、一体どうしたんだ?」

「あ、毛利さん。突然すみません」

 にこっと笑い暁火は頭を下げる。

「あの小僧はどうしたんだ? いねぇようだけどよ」

「葉月さんはいらっしゃいませんよ。今日は学校の帰りに立ち寄らせていただきました」

 毛利は驚きに大きな目をさらに大きくし、禿頭の天辺をかりかりと掻いた。

「そいつぁ珍しいな。まあ、いいさ。寒かったろう。あったまっていくといい」

 毛利に促され、暁火は「お邪魔します」とはきはきとした声と共に部屋へ上がっていく。暁火を炬燵に入れた毛利は、そのまま腰を落ち着けることなく石油ストーブの上に置いた薬缶を片手に台所へと向かった。

「コーンスープでいいか?」

 内部機構を剥き出しにした卓上の時計を見つめていた暁火は、突然台所から声をかけられ弾かれたように顔を上げる。

「あ! そんなお構いなく!」

「これくらい気にするこたねぇよ」

 気前よく答え、毛利はインスタントのコーンスープを作っていく。カップに流し込んだ粉にお湯を注ぎ込むだけの簡単な動作で珈琲を用意し、両手にカップを持った毛利は部屋へと戻る。

 お礼を言ってカップを受け取った暁火は包み込むように二つの手を添えた。掌から指先までを突くように鋭く刺激する暖かさは心地よく、凍りかけていた血が溶け流れるようだ。

「それで、今日はどうしたんだい、嬢ちゃん」

 珈琲を啜り毛利が問いかけると、暁火はパイロットコートのポケットに手を突っ込み、腕時計を取り出した。毛利が初めて会った時に暁火が身につけていた時計だ。

 針は止まり、見当外れの時間を示している。

 毛利がたった一つの眼を引き絞り、小さな手に収まる無骨な腕時計を凝視した。

「なんとか修理できないかと思いまして」

「……貸してみな」

 毛利は預かった時計をあらゆる角度から観察していく。外側には特に異常が見られない。

 しかし、長年使っているせいなのか、細かい傷は多い。表面を綺麗に磨いてはいるものの、先日より傷が増えているようにも見える。

「随分、無茶をしたみてぇだな」

「分かりますか?」

「そりゃあな」

 次に毛利は腕時計を耳の傍で腕時計を振る。

 内部からズレた音が微かに聞こえた。時計盤を見ると、針が少し後退していた。

「ぜんまいがイカれてるみてぇだな」

「直りますかね?」

「やるだけやってみてだな、こりゃ」

 毛利は機械台に嵌めていた制作途中の時計を脇に置き、暁火の時計を代わりに嵌め込む。ドライバーで素早くネジを外し、しっかりと台座に時計を固定してから蓋を開いた。

 すでに慣れた作業だ。キズミを眼窩に挟んだ毛利は数々の器具を自身の指先同然、否それ以上の巧みさで操り、時計の内部を弄っていく。

 雪の結晶を砕くような繊細な音。歯車と歯車が触れ合い、小さな音がぽろぽろと零れる。

 暁火は細かく動く器具の先端と、その音に浸る。コーンスープの甘い匂いが鼻腔をくすぐり、石油ストーブの野暮ったい温もりさえ心を落ち着かせた。

「そんで、嬢ちゃんはいつから気付いてたんだ?」

 ふと毛利が口を開く。

 暁火はくすっと口角を上げた。

「毛利さんこそ、いつから気付いていたんですか?」

「嬢ちゃんが組長になったっつぅ話を聞いて、時間の問題だとは思ってたんだよ、俺ぁ。思ったよりも早かったけどな」

 毛利は暁火に眼を向けない。まるでそこが逃げ道であるかのように、齧り付くように時計を見つめていた。

「畠山さんから伺いました。アタシの情報を買い、飯綱会の者たちを差し向けていたのは毛利さん、貴方だったんですね」

 毛利は答えず、頷くこともせず、器具を持ち替えて作業を進める。

 暁火はそっと深呼吸をし、毛利と向かい合った。その瞳に鋭さはなく、むしろ常日頃の温和な色を湛えている。

「最初の襲撃、追跡者チェイサー藤城戸。あの時、畠山さんはアタシたちが店を出た直後に毛利さんへ情報を伝えたそうですね。そして貴方は藤城戸に尾行をさせた」

 あの時点では何者かに情報が漏れているという推測もなかった。藤城戸はこの部屋から暁火たちが出るのを待っていたにすぎないと考える方が自然だ。

 少なくともあの時点で毛利が容疑者に挙がらないほどには、飯綱会と彼は関連づけられていなかった。

「アタシは畠山さんが情報を流している可能性があるとは考えました。それは本当に根拠の無い推測にしかすぎないものでしたけれど。一か八かで次の日の予定をそれとなく畠山さんに話してみたら、アタシたちの行動を先読みしているとしか思えない襲撃。畠山さんが誰かに情報を売っていることは明白でした。でも、まさか貴方がそうだったとは」

「あの小僧が、女子高生一人に出し抜かれたってわけか」

 引き結んでいた毛利の唇が微かに緩む。年端もいかない娘だと侮ったのかもしれない。

 暁火の瞳は揺れない。ずっと、ただひたすらに、毛利を見つめ続けている。

「毛利さん、どうして貴方が飯綱会の反乱を手伝ったんですか。アタシにはそれがどうしても分からないんです」

「それで組長が直々にやってきたわけか。護衛もつけずに」

「貴方はアタシに何かをしようとは思っていない。そんなことをするくらいなら、もうとっくに逃げているはずです」

「そう、だろうな」

 毛利はゆっくりと息を吐き出す。一度、作業の手を止め、禿頭を爪で引っ掻くようにカリカリと掻いた。

 暁火の予想はおおよそ当たっている。毛利は彼女が現れた時こそが自身の最期だと確信した上で、彼女が来るのを待っていた。全てを受け容れ、落とし前をつけるつもりだ。その心は今も変わらない。

 ただ、そうと分かっていても、一人でやって来る彼女の大胆さには恐れ入る。

「塔ヶ岳升臣には会ったか?」

「飯綱会会長、ですね。会いました」

「そうか。あの餓鬼は俺が昔面倒を見ていてな」

 言いながら毛利は止めていた作業を再開する。時計にたった一つの眼を向け、他には何も見えなくなる。見えたとしても意識することはしない。

 暁火の表情さえも見えない。見えないようにした。

「あの坊主がまだ妖衆の一員でさえなかった頃だったか。俺ぁあいつに何かありゃ世話を焼いててな。野心の強ぇ奴だった。今のままでは終わらないって随分と息巻いてて、どっかに行っちまったと思ったらいつの間にか妖衆のボスをやっていやがった。どういう手を使ったのかは知らねぇが出世したもんだと思ったよ」

「それで、協力したんですか?」

「いんや、そうじゃねぇんだ。あいつは俺の前からいつの間にかいなくなって、いつの間にか妖衆を作ってた。あそこからのし上がるつもりだったんだろうよ。だが、ダメだった。そしてあいつはあんたを殺そうとして、それも失敗して、あんたが夜行組と行動を供にするようになって、俺のところに助けを求めにきた」

 毛利はキズミで隠した単眼を細める。

 久々に毛利の前に現れた彼は随分と気取った姿をしていた。上品なスーツを着て、髪を後ろに撫で付け、身につけるものは何もかもが高級なものばかり。

 それなのに顔だけは、最後に見た時と少しも変わらず、今にも泣き出しそうな情けない顔をしていた。

「あんたを初めて見た時はびっくりしたもんだ。まさかこんな年端もいかない嬢ちゃんが組長だなんてな」

「アタシのことはあの時初めて知ったんですか?」

「そうだな。俺はあんたを殺すための作戦を考えてやるだけのつもりだった。そしたらあの坊主と一緒にわざわざ俺のところへ来てくれるっていうじゃねぇか。殺す奴の顔を見てやろうって思ったよ」

「あの時にアタシへいろんなことをしてくれたのは、アタシを油断させるためだったんですか?」

 その声は問い詰めるようなものではなかった。素直に疑問を投げかけただけのように思える。

 毛利は首を横に振った。頷くべきだと分かっていながら、それでも否定してしまった。

「俺ぁ年端も行かないお嬢ちゃんを殺す片棒を担がされてるとは思わなかったんだ。申し訳ないって思ったよ。話してみても、俺ぁあんたを憎んだり、殺したいなんて微塵も思えなかった。それでも乗りかかった舟、いや乗りかかったなんてもんじゃねぇ、俺はもうとっくに沖へ出た気持ちでいたんだ。引き返すことはできねぇ。騙すようなことをしちまった悪かったな」

 思えばあれは間もなく殺すことになる彼女へのせめてもの償いだったのかもしれない。

 少しでも優しくして、自分の罪悪感を消したかったのだろう。それでも罪の意識は消えず、喜ぶ暁火の顔を見れば見るほど、むしろ押し潰されそうなほどに胸の奥底の重しは増えた。

「騙されたなんて思ってません。あの時もらった蜜柑の甘酸っぱさも、言葉の温かさも全部本物です」

 時計に目を落としたまま、毛利は唇を噛み締めた。

 暁火を殺さずに済んで本当によかったという気持ちが溢れ出す。何よりここまで真っ直ぐに育った娘を殺そうとした自分が酷く醜悪なものに思えた。

 安堵が辛苦となって、毛利をより深く俯かせる。

「お嬢ちゃんも大変だな、こんな世界に巻き込まれちまって。俺が突き落としちまったも同然だ」

「それは毛利さんの方です。貴方は仕方がなくあの人に協力しただけで」

「そうじゃない」

 自分が思っていた以上に低い声が絞り出される。

「俺ぁどこかに消えたあいつが戻ってきて、俺に助けを求めてくれたことに心のどこかで安心したんだ。あいつが最後の最後に縋れる存在が自分であったことが嬉しかったんだ。自分の存在を認められたようで、自分の価値が証明されたようで、安心しちまったんだよ。俺ぁあんたみたいな子供を殺して、自分の心を守ろうとしちまったんだ」

 自身を慕ってくれていた若者が忽然と姿を消した時、毛利は自分が捨てられたように思えてならなかった。人間に紛れ込むこともできず、ただ淡々と時計を作り続けて日々を食いつなぎ、代わり映えのない日常を続ける自分は愛想を尽かされたのではなかろうと底知れない不安に襲われたのだ。

 その彼が戻ってきて、あの時と変わらない情けない顔で自分に助けを求めてくれた。

 それが嬉しくて、嬉しくて、心底安堵して、その安堵を手放すことができず、繋ぎ止めるために暁火を生け贄にしようとしてしまった。

「毛利さん……」

 名を呼ぶ暁火の声は少しだけ湿っていた。

 今、彼女はこんな惨めで情けなく子供のように孤独を怯えている自分を見て、どんな心情なのだろうか。

「本当にすまなかった。嬢ちゃん。俺があいつを説得していれば、協力なんてしなければ、あんたをここまで追い詰めることはなかった。組長になることもなくいられただろうに……。それを俺が」

「毛利さんのせいじゃありませんよ。アタシは、自分でこの道を選んだんです」

 穏やかな声で暁火は言う。

 あまりにも穏やかで、優しく、静かな声音。

「それは選んだつもりになっているだけだ。あんたは選ばされたんだ」

「違いますよ。最初に組長の話を持ちかけられた時から、アタシはなんだかいいなって思っていたんです」

 一瞬、毛利は顔を上げそうになり、それを必死に押し止めた。

 今暁火がどんな表情をしているのかは分からない。だからこそ、分からないままでいたかった。

 一度目を逸らしてしまったばかりに、もう顔を上げることが怖くてたまらない。

「皆さんには内緒にしているんですけどね。アタシ、あの時からなんだか無性にワクワクしてました。みんなが必死にアタシのことを心配して考えてくれているのに、そんな軽い理由で受けちゃいけないって思って、必死に考えてみようと思ったんです。でも、実際に追っ手を追い払った時、あの激しい戦いを見て、すごくドキドキして、興奮しちゃいました」

 くすっと暁火は笑う。

 あまりにも些細な告白めいて、しかしそれは何ともおぞましい事実だった。

 彼女は命を取り合う戦いを見て、死と隣り合わせの戦いを繰り広げる妖を見て、より一層惹かれた。

 冴え冴えとした白刃の上を素足で渡るような世界を肌で感じ、そのスリルに昂ぶったのだ。

 それは異常だ。危険な嗜好だ。

「軽い気持ちじゃいけない。もっと考えないと、考えてくれているみんなに対して不誠実だって思って、でもやっぱりアタシはあのドキドキが忘れられなくて、心惹かれてしまったんです」

「それはまだこの世界に関わって間もないからじゃねぇのか嬢ちゃん。妖同士の戦いに巻き込まれ、いつ殺されるのかも分かったもんじゃねぇ。窮地に立って、必死に逃げて、それでも逃げ切れず怯えながらに後悔しても手遅れだって分かってんのか?」

「皆さんに何度も言われました。後悔するかもしれないって。でも、もともと選択なんて選ぶ時には正解も不正解もないって、アタシ思うんです」

 暁火の声には欠片も躊躇がなかった。

 芯の通った声は震えてはおらず、毛利の脅しで決意が揺らぐこともない。

「何を選んだって後悔する可能性はきっとあります。正解か不正解か、絶対だって分かるものなんてないです。大事なのはきっと、選択を正解にしていくことなんじゃないかって」

「選択を正解に、か」

 重い息が零れる。

 彼女の答えは妖の長となる者としては理想的だった。あまりにも理想的すぎた。

 取り返しがつかないほどによく似合っていて、だからこそ痛ましくも思える。

「あんたはそのなんとなく程度の理由で、正解か不正解かも分からない道を行くのか」

「選んだからには正解にしてみせますよ、アタシは。理由はきっと後からついてきます。だから、アタシはアタシが進みたいって思った方角にひたすら進むだけです」

 風に流される雲のように、というにはあまりにも破天荒な在り方。

 彼女は流されるような存在ではない。むしろ周囲を巻き込み、時に引き千切り、引き摺り、何にも阻まれずどこまでも突き進む風そのものだった。

 毛利の眼球の裏にこびりついた景色が鮮烈に色を取り戻していく。

 夜行組先代組長、夜行鷹緒――あの男が遺した娘はまさしく、その悉く一切が彼の娘のそれであった。

「あんたは今までそうしてきたかもしれねぇ。だが、それとこれは違うだろうよ。自分の命の今後を決める選択だ。それをあんたは」

「命が懸かっていてもいなくても、選択の重みは変わりませんよ」

 低い声が毛利の肩を叩いた。

 そっと放たれた言葉はしかし硬く、毛利は思わず顔を上げてしまう。

 暁火の双眸には黒い炎が宿っていた。炯々と燃ゆる二つの焔。その熱さに毛利の背筋が冷え切った。

 唇を引き結び、毛利は息を呑む。冷や汗が垂れた。

 毛利とて長き時を生きた妖だ。争乱の最中を生き抜いてきた経験もある。

 それでも恐ろしいと感じた。感じざるを得なかった。

 瞳に映り込んだ自分自身が焼かれている。眼球の牢に鎖された我が身を激情が這いずり、捲り上げていく。

 錯覚だ。そんなものは幻想にしかすぎない。

 だというのに、背中を汗が滴る。脚全体の表皮がひりひりとした痛みを告げた。

 逃げ出したい気持ちを抑え込む毛利を前にして、すっと暁火の黒曜の瞳の奥で燃え盛っていた焔が消え失せる。唇には微かな笑み。

「何かを選ぶということはいつだって何かを捨てるっていうことです」

 声は凪いでいた。穏やかというには希薄で、冷たいというには暖かい。

「いつだってアタシたちは片一方の可能性を殺して生きている。今まで選んできたものが、その一つでも違えばきっと今のアタシにはならなかったし、それはきっとあるはずだったアタシを殺しているってことなんです。だからこそ、アタシはやっぱりアタシの心で分かれ道を進んでいきたい。望まぬ方角を進んだ後悔より、望んだ道の果ての後悔をアタシは何よりも大切にしたいんです」

「…………」

 毛利は、呼吸する。

 他に何をすべきなのか分からぬようにゆっくりと呼吸をする。ただ一つの目でゆっくりと瞬きをし、時計へと戻した。

 息を吹き返したように両手の器具が動き、歯車の敷き詰められた宝箱を弄っていく。

「……修理にはまだ時間がかかる。明日でも取りにきたらいい」

「もうこんな時間ですしね」

 暁火は時計も見ずに言う。見るべき時計さえない。それでも彼女は毛利の言葉にそう応じた。

「それでは今晩はお暇させていただきます。コーンスープ、美味しかったです」

 立ち上がった暁火は深々と一度、毛利に頭を下げる。彼は顔を上げずに、作業を続けていた。

 暁火は踊るように動き続ける毛利の無骨な手に目を向ける。器具の先端が細かく動き、微かな音が絶え間なく耳の奥をくすぐった。

 まるで、楽器を奏でているようで、そのお世辞にも似合っているとは思えない例えに、暁火は緩みそうになる唇を押さえるように尖らせる。

「アタシは屋敷に戻り次第、手配を行います。それまでまだ時間はあります」

「いつくらいに来るんだ」

「さあ、時計がありませんから。少し帰るのも遅れてしまうかもしれませんね」

「そうかい」

 毛利の返答は素っ気ない。

 無理に感情を押し殺しているかのように平坦すぎた。

 暁火は一言挨拶をして、部屋を後にしようとして立ち止まる。

「逃げてもいいですよ」

「時計の修理が終わったらな」

 毛利は最後の最後まで暁火を見ることなく、ずっと俯いていた。

 キズミを挟み込む眼窩に力を込め、暁火の時計を見つめ続けている。

 その肩が微かに震えていることから暁火は目を逸らして歩き出す。

 彼が恐れているのか、泣いているのか、また何を恐れ、または何を悲しんでいるのか、暁火にはどうしても分からず、触れることすら躊躇われた。




 毛利の住むアパートを後にし、暁火は住宅地を歩んでいく。その斜め後ろで風景が陽炎のように揺らめき、姿を潜めていた郁斗が姿を現した。

 先を行く暁火の背中を見つめ、郁斗は何か言葉を探す。

 ただ時計の修理を頼むだけだと彼女は言ったが、とてもそうは見えなかった。向かう前の何か考え込むような風情、そして戻ってきた時の妙な静けさ。

 詮索するような質問を投げかけることは躊躇われ、それでも彼女の行動を看過するのは危険に思えた。

「総代――」

「あ、そうだ」

 郁斗が声をかけようとした途端に、暁火が立ち止まる。重なった声に暁火は不思議そうに郁斗を顧みた。

 決した意も出鼻を挫かれ転がり落ち、郁斗は後ろめたさを感じた目を逸らした。

「なんでもないですよ」

「そうですか? なら、いいんですけど」

 気にはなりながらも、暁火はポケットから携帯電話を取り出し、ここ数日で妙に登録数の増えた電話帳から張の電話番号を呼び出した。

 携帯電話を耳に当て数回のコールを聞いていると電話が繋がる。

「おや、これは女将。如何なさいましたか?」

「張さん、飯綱会の構成員の処遇について少し話したいことがあるんですけど、今お時間大丈夫ですか?」

 上下関係を無視した丁寧な言葉に、張が微かな笑みを漏らす。

「構いませんよ。しかしわざわざ電話で話すほど急ぎの用事ですかね?」

「出来るだけ早めに確認を取りたかったんです。飯綱会の妖をうちで雇うことってできませんか?」

 張の声が途絶える。暁火の目が空を見上げる。凪いだ表情でありながらも、唇はきつく引き結ばれていた。

 微かに張が唸る。暁火は手に収まった小さな携帯電話をぎゅっと握り締め、言葉を待った。

「雇う、と言いますと、夜行組の組員にしたい、ということですか? それは難しいのではないでしょうか。これから我々は組織を建て直していかなければなりません。組織の長が変わる時期というのは組織そのものが乱れる時期です。そんな只中に反逆を画策した組織の構成員を投げ込むのは、あまりにも危険なのでは?」

「首謀者である塔ヶ岳升臣はすでに除名をされ、その腹心であった樋口出流も身柄を拘束されています。構成員である彼らの多くは反逆そのものに賛成はしていなかったように思いますが」

「そうは言いますが、反逆者たちがお咎めもなく上位組織の組員として迎え入れられるというのは示しがつかないと思いますね。恩情に触れた飯綱会の彼らは貴女に忠誠を誓うかもしれませんが、却って今いる者たちから反感を買うことになるかもしれませんよ? 貴女が統べる足下も無機物ではないことをご考慮するべきではありませんか」

 慇懃な口調に反し、張の声には聞き分けの悪い子供を窘めるような冷たさがあった。

 彼は相手が組長だから、という立場の面を考慮した譲歩を決してしない。妥当性がない限り、どうあっても彼は譲らないのだ。

 分かっているからこそ、暁火は彼に直接話を持ちかけた。

「それはもちろん。ですが、先代の死後より今に至るまでで、少なくはない区民が夜行組を見限り、離れているのも事実です」

「それは確かに。しかし、人員の補填と言えど、そこに彼らを宛がうのはあまり賛成できませんね。数を揃えることは簡単ですが、それらが即戦力になるわけではありません。現在組員の多くは経験が豊富で実力もある有益な人材です。人員を増やすとして、彼らにもコストはかかる。短期的に見れば損失の目立つ選択を擾乱も治まらぬ今選択する必要はありますかね?」

 暁火は眉根を寄せ、思考を巡らせる。

 携帯電話を握り込む手は微かに汗ばんでいた。

「抜け出ていった者の多くは支部に所属する者たちでした。先代との接点も薄いが故に距離感が生まれ、離反を助長した可能性は少なからずあるでしょう。もし彼らがアタシの恩情によって忠誠を誓うのであれば、それこそ支部に分散して配属しようと考えています。そうすれば教育の負担も軽減されますし、支部との繋がりも強いものとなるのではありませんか? 飯綱会は火の妖衆でした。彼らの力は支部の戦力を底上げする意味でも有用だと考えます」

 沈黙。

 張が電話口で微かに唸っている。

 暁火は唾を飲み込み、その言葉を真剣に待った。

 声を出して念を押すことは意見に対する自信のなさが露呈する。何も焦っていないように、勝ち誇ったように超然と構えようと、引き結んだ唇の端を暁火は上へ引き延ばした。

 ため息が零れる。ほっそりとしたどこか色気のある吐息。

 呆れきった張のものだった。

「……なるほど、分かりました。私一人に判断できるものではありませんが、女将の意見には一理もありそうです。一度ご隠居にお伝えし、意見を仰いでもよろしいでしょうか?」

 張が確約とは言わずとも前向きに検討してくれているのだと理解し、途端に暁火の顔が華やぐ。

「ありがとうございます!」

「いえ、お礼を言われることではございませんよ。協議の結果はまた後ほどお話させていただきます」

「はい! お願いします!」

 電話の向こうの張へ深々と頭を下げる。先程までと打って変わった弾むような声。

 まるで息子が受験で合格したという報告を聴いた母親のような喜びようだった。

 一言二言の挨拶を交わし通話を終えた暁火は、唖然としている郁斗へ振り返り、携帯電話を握る手を掲げにっと勝ち誇ったように笑う。

「驚きましたよ。まさかあの張を説得するとは」

 張は滅多なことでは譲らない。どれだけ頼み込んでも、その意見に納得しない限りはその正当性で徹底的に反論を潰していく。

 彼に舌戦で敵うのは夜行組の中では葉蔵のみだろう。

「すんごい緊張しましたよ。面と向かってだったら負けてましたね、きっと」

 眉根を寄せて暁火は困り顔のままに笑う。すっかり気が抜けたのか、表情がいつも以上に緩くなっていた。

 彼女も緊張する、という至極当然のことが郁斗には何かとても意外なものに思えてならない。

「しっかし、いつの間にうちの人員事情を把握してたんですか?」

「ちょっと前に資料全般を菖蒲さんに用意してもらって、目を通していたんですよ。いやいや、やっぱり何が役に立つか分からないもんですね」

「うへぇ……あれ……全部読んだんですか……」

 考えただけでもげんなりする。

 郁斗もライトノベルなどを好んで読んではいるので、活字が苦手というわけではないのだが、あの無味乾燥とした文字の羅列を読むことはまた別だ。

 暁火と出会ってから組長に就任するまでの数日間、そしてその後から今に至るまで彼女には纏まった時間などほとんどなかった。多くの時間、供に行動していた郁斗でさえ気取らせることもなく、その膨大な資料をいつ読み込んでいたのか全く分からない。

「そんなに手札が準備できていたなら、菖蒲に頼んで根回しでもしてもらって、もう少し気楽に済ませることもできたんじゃないですか?」

「あー、そっちもちょっと考えたんですけどね。なんとなく、自分でしないといけない気がしたんです。危ないかなぁとも思ったんですけど、上手く行ったんで結果オーライですね」

 気楽に笑う暁火に郁斗は肩を竦める。本当に張を説得できたことは奇跡としか思えない。

 暁火はいつだって危ない橋を渡る。まるでより危ない道を選んでいるかのように、彼女の行く先には多分なスリルと多大なリスクと膨大なリターンが常に寄り添う。

 彼女は心が訴えた方へ、行きたいと思った方へ進んでいくと言った。ならば彼女の心はひたすらに危険を求め、飢えているのだろうか。

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