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Change The World - Helvetica Girl  作者: コヨミミライ
暁の火に導かれ百の鬼は夜を往った
18/20

Blue Eyes Blue

 夜行組の屋敷。いつも通りの朝、小鳥たちもいつものように囀る。

 部屋の隅に置かれた電気ストーブがささやかなうなりを漏らし、締め切られた室内の空気を熱していく。

 出かける用事がない菖蒲は珍しく、無地のシャツにパーカーを羽織り、フリースパンツを履いた部屋着姿で食卓についていた。背筋をぴんと伸ばして正座をした菖蒲は南瓜の味噌汁を啜り、鰤の塩焼きに箸を伸ばす。

 隣に座った張は隣でパックの納豆を混ぜ、向かいの席に座った前掛け姿の牛木はその巨体を器用に座布団の上に納め、無骨な手からすれば随分と小さく見える茶碗に盛られた米を丁寧な箸使いで口に運んでいく。

 いつも通りの食卓。いつも通りの朝。

 ただ、牛木の隣の席にも朝食は用意されているが、そこに座る者はいなかった。裏返された茶碗をなんとなく見つめ、菖蒲は細い息を吐き出す。

 微かに聞こえてくるのそのそと鈍い足音。廊下に繋がる襖がのろのろと開けられ、寝癖頭の郁斗が眠たげに目を擦りながら起きてきた。

「あー、おはよう」

「遅い。そしてだらしない」

 相変わらず寝起きの悪い郁斗に菖蒲はため息を吐き出す。

 共同生活を初めて長いが、彼の生活リズムは一向に改善されない。

 暁火を護衛するようになって、丁寧な物腰に合った生活を行うように多少は頑張っていたようだが、数日と経たないうちにその決意は折れたようだ。今となっては反動なのか、より悪化している始末である。

「朝は弱いんだよ」

 郁斗は言いながら牛木の隣にどかりと胡座をかく。巨体の牛木よりも、細身の郁斗の方が横幅を取っていた。

「いつも遅くまでゲームをしているからだろう」

 言いながら牛木は郁斗の茶碗を手に取り、脇に置かれていた土鍋からご飯をよそっていく。男らしい体つきと無骨な手に不釣り合いなほど、その所作は主婦のそれだった。

 痛いところを指摘され、郁斗は眠たげな顔をさらに顰める。

 およそ十分に渡り、執拗にかき混ぜていた納豆をパックから熱々の白米の上にかけた張がくつくつと喉の奥で笑う。

「何をおっしゃいますか。我らが夜行組の斬込隊筆頭を務める葉月郁斗が自己管理もできぬ小僧なわけがありますまい。きっと本当に何か体に異常があるはずですよ」

「ただのゲーム依存症でしょう」

 遠回しな嫌味に次いで、菖蒲にストレートな文句を言われ、さらに郁斗は顔を顰める。隣の牛木が頻りに頷いていることも含めて納得がいかない。

 起き抜けにこうも寄って集って莫迦にされると郁斗も穏やかではあれない。そもそもとして、もともと短気な部類だ。

「テメェら……」

 よそった味噌汁を郁斗の前に置こうとして、よからぬものを感じた牛木はそのまま味噌汁を持った手を引く。

 廊下を走る忙しない足音が襖の向こうから聞こえてくる。

「人を莫迦にすんのも!」

 郁斗が立ち上がり、声を荒げる。

「いい加減にし」

「おっはよーございまーす!」

 部屋に飛び込んできた暁火のはきはきとした挨拶が郁斗の怒声を遮る。

 先程までの郁斗の怒りなどなかったかのように三人は暁火へと目を向けた。

「おはよう、暁火ちゃん」

「おはようございます、女将」

「おはようございます、組長」

 菖蒲、張、牛木の挨拶が続く。牛木は持っていた味噌汁を何事もなく郁斗の席に置き、今度は暁火の茶碗に米をよそっていく。

 部屋に入り、向かい合った郁斗と張の間の席に座ろうとして、暁火は一人だけ立っている郁斗を見て首を傾げた。

「あれ? 葉月さん、なんで立ってるんですか?」

「立ちたい時があるんですよ、男には」

 曖昧に笑って郁斗は座布団の上に胡座をかいた。郁斗の様子に納得いかないながらもそこまで気にせず、暁火もまた自分の席に座る。

「そういう時があるんですか? 男の人って?」

「私に聞かれましてもね」

 問いかけられた張は郁斗を一瞥し、ニヤニヤしながら答える。

「じゃあ、張さんは女性なんですか?」

「さあ、どちらでしょう」

 くすりと笑んで、張はいつもと同じ調子ではぐらかす。

 暁火は未だに張の性別が分からず、実際のところ他の者たちも分かってはいないらしい。

 性別を明かさず、また解明もできず、張はそういうものだと誰もが割り切っていた。

 味噌汁と米を手渡され牛木に礼を言った暁火は、腑に落ちないものを無数に抱えながらも手を合わせ「いただきます」の一言で朝食を摂り始める。

 見計らったように縁側の障子が開き、冷たい風が暁火の背中を撫でた。振り返ると、片手に新聞紙をぶら下げた老人、ご隠居こと葉蔵の姿。

「いやはや、今朝は冷えるな。老体の透けた骨には応えるわい」

 後ろ手に障子を閉めた葉蔵の新聞には百目鬼新聞の文字。妖の世界で出回っている新聞のようだ。

「おはようございます、おじいちゃん」

「ああ、総代。おはよう。変わらず元気よのう」

 好々爺然としたのんびりとした笑みで応じ、葉蔵は暁火と向かい合うように食卓へついた。

 葉蔵がゆったりと新聞を広げると、張の目が妖しく輝き、興味深そうに細められる。

「おや、朝刊が来ましたか」

「うむ。果報は寝て待てと言うが今回ばかりは待ち遠しかったのう。軒先まで新聞を取りに行ったのは久々じゃわい」

「して、どのように?」

「うむ、どれどれ」

 張に促され、葉蔵は広げた新聞に目を凝らすと、すぐに口を広げてひゃっひゃっひゃと上機嫌に笑った。

 菖蒲や牛木、郁斗も興味をそそられ葉蔵に目をやる中、自分は無関係だろうと暁火は佃煮を乗せた白米を口に運んでいく。

「うちの総代が一面を飾っておるわい。いやはや、やはり見てくれがよい分見栄えがよいのう。クソ生意気な小僧だった先代よりずっとよい」

 葉蔵の声を聞きながら、食事を進める暁火は何かに引っかかり、何度もその言葉を頭の中で繰り返す。

 うちの総代、夜行組の総代、夜行組の組長。

「あー、アタシが載ってるんですか?」

「おうとも。載っておるぞ。ほれ、見てみるとよい」

 差し出された新聞を受け取り、暁火はその記事に目を通す。

 誌面の四分の一を占有する写真にはドスを握り締め、飯綱会会長に飛び込む寸前の暁火が映っていた。見出しには行書体で「百鬼夜行復活。夜行組新組長、飯綱会を誅伐す」の文字。

 一体どこで撮ったのかは分からないが、間違いなくこれは昨夜の写真だ。

 事の経緯も事細かに書かれ、本文の中に埋もれるように、暁火と飯綱会会長の楕円形に切り取られた顔写真と経歴が並べられていた。

「この新聞って全国区ですか?」

「妖の世界に関わる者のところには漏れなく配布されておるじゃろうな」

「いやぁ、こりゃアタシの名前が妖の世界に知れ渡っちゃいますねぇ」

 参ったなぁと暁火は困ったように笑う。郁斗からすればまんざらでもなさそうに見えた。

 暁火から新聞を受け取った張を文面に目を走らせ、脇から興味津津な菖蒲も覗き込む。

「これで夜行組の復活は知れ渡り、カバチを垂れる輩もいなくなるでしょうね」

「他の妖衆にも協力を要請して見た目の数を増やした外連の百鬼夜行であったが、効果は抜群のようじゃの。気勢も削がれ、すぐに沈静化するじゃろう」

 地方の妖衆に新たな当主が就任したところで、本来なら百目鬼新聞の一面など飾りはしない。

 これだけ大々的に取り上げられているのは葉蔵の根回しあってこそだと誰もが気付いている。

 数年ぶりの大規模な百鬼夜行。加えて新組長が一般人同然の女子高生であるという話題性。これらを駆使して喧伝することで管理下にある妖衆たちの不穏な動きを抑え込もうという策略だ。

 赤刃と名高き火蜥蜴、樋口出流に負わされた傷も治り切らぬ暁火には無理をさせたが、彼女はその傷を気取らせることなく見事にやりきった。

 夜行組を取り纏め役から引き摺り下ろす計画を先導していた飯綱会が一夜で徹底的に潰されれば、賛同していた者たちもこれ以上動くことはできないだろう。

「なんだか高度に政治的な話、って感じですね」

 二人の会話を聞いていた暁火は苦笑する。

 普通に女子高生として生活してきた暁火は当然のようにこういった駆け引きには疎い。

「いずれは女将が一切を執り行うべきことですよ。今はまあ、言うならばOJTの位置付けですから、私やご隠居がある程度のことはしますが、少しずつ覚えて頂きますからね」

「もちろんですとも! 頑張らせていただきます!」

 ぐっと箸を握ったまま拳を作る暁火に張は苦笑する。

 先日組長になったばかりの元一般人とは思えない順応力だ。妖の世界だけで生きてきた者でも物怖じするような場面でも彼女は惑わない。

 その真っ直ぐな態度の裏で何を考えているのかは分からないが、もしもなんてことをまるで考えていないようだった。

「これから覚えることがいっぱいね、暁火ちゃんは」

 菖蒲の一言に牛木も頷く。

「うむ。妖術も基礎から覚えなければならないし、できれば護身用として武道の心得もあった方がいいだろう。また妖衆の成り立ちを始め、妖の世界の歴史や文化も学ばなければならないな」

 牛木の挙げていくものを指折り数えるが、さらに次々と用語が並び暁火の指が追いつかなくなる。

 少なくとも十以上のことを覚えなければならないのは確かなようだ。

 昨日の一件で一段落こそついたが、組長としてすべきことはむしろこれからが本番とも言えた。

「まあ、からっきし馴染みのない世界でやっていくわけだから仕方ないわ。私たちも出来うる限りのサポートはするし、組長とはいえ見習いなわけだから、いつでも頼ってね、暁火ちゃん」

「はい! よろしくお願いします!」

 深々と頭を下げる暁火を、郁斗は頬杖をかいて仏頂面で眺めていた。

 自然と重い息が漏れる。心配していた郁斗が莫迦らしくなるほど、彼女はこの場所に馴染みきっていた。




 暁火は自身に宛がわれた部屋で座卓に向かい、ハードカバーの手帳の上でペンを走らせていた。隣には広げられた書籍、古びた紙の四隅は変色している。行書体の文字がびっしりと書き込まれ、所々に簡略化された人体のイラストが載っていた。

 時刻は十一時をすぎ、もう少しで午前中が終わる。暁火の膝で丸くなった三郎は穏やかに寝息を上げて、すっかり寛ぎきっていた。

 固く閉ざされた障子から透ける陽光が部屋に射し込み、畳に格子で区切られた四角い光が無数に刻まれている。座卓と部屋の隅で畳まれた寝具、その傍に置かれた平べったい学生鞄以外にはほとんど何もない一室だ。

 CDプレイヤーから伸びたイヤフォンを耳に差した暁火の目は手帳と古書の間を行き来し、ペン先は秋の並木道で枯葉を踏むようなステップで紙の上で踊る。

 いつも聴いているCD。外国の男性歌手の歌声。

 最後の曲がもうすぐ終わる。また最初から奏でられ始める。

 何度も聴いた最後の曲が終わりに近付き、ふと暁火はペンを止めた。ペン先が紙を引っ掻いた音がやけに尾を曳き、体に染み込んだ。

 幻覚でしかない残響が途切れるのを待って、暁火はボールペンを唇にそっと宛がった。

「ブルーアイズブルー」

 間もなく奏でられるであろう楽曲のタイトルを暁火はぽつりと呟く。

 膝の上で丸まっていた三郎の耳がぴくりと動き、首を擡げた。遅れて暁火も廊下を歩む誰かの足音に気付く。

 歩幅の広い大きな足音が暁火のいる一室の前で止まった。

「総代、いらっしゃいますか」

 聞こえてきたのは郁斗の声だった。

 間もなく最後の一曲が終わるCDを一瞥する。なんでもない、ただの偶然に、くすぐったそうな笑みが零れた。

「はーい」

 CDを停止させた暁火は伸びのよい返事をして、三郎を膝から下ろして立ち上がり、とたとたと入り口に歩いて行く。襖を開けると郁斗は目を瞠り、ため息を吐き出して額を押さえた。

「埋野さん、貴女は総代なんですから、わざわざ自分で開けることはないんですよ」

「いやいや、一応新人ですから」

 はっはっはと暁火は鷹揚に笑う。

 自覚があるのかないのか分からない暁火に、郁斗は頭が痛くなってくる。

「まあ、いいです。総代にお渡ししたいものがあります」

「渡したいもの?」

 思い当たる節がなく、暁火は首を傾げる。郁斗は自分のポケットに手を突っ込み、四角い小さな箱を取り出した。暁火の掌にも収まる小さな箱だ。白く光沢のある紙製の表面にも飾りっ気はない。

 差し出された箱を注視した暁火は不思議そうに郁斗の顔を見上げた。

「なんですかこれ?」

「とりあえず開けてみてください」

 言われて、暁火は受け取った箱の蓋を開ける。

 織り込まれたサテン生地が敷き詰められた箱の真ん中に紅の煌めき。

 小さな指輪だった。紅い小さな宝石が嵌め込まれた、銀色の円環。指輪を摘まむように取り出し、暁火は矯めつ眇めつ指輪を観察する。

 リングの外周には光の当て方を変え、目を凝らせば辛うじて分かる程度に浅く何か文字のようなものが彫られていた。目を惹き付けるのはやはり紅い宝石。物自体は小さいというのに輝きは強い。

 光源も弱いこの場所でも誇示するように輝く様は、まるで溜め込んだ光を放っているようでもあった。輝きそのものも一定の間隔で強まっては弱まることを繰り返しており、生命の鼓動さえも感じ取れそうだ。

 詳しくない暁火でも、これが平凡な宝石でないことは分かった。

「なんですか、これ」

「指輪です。小指でちょうどだと思います」

「それはつまり、つけろってことですね」

「はい。左の小指につけてください」

 言われるまま暁火は指輪を左手の小指に嵌め込む。

 驚くほどにサイズはぴったりで、キツくもなければ緩くもない。

 指輪を嵌めた手を広げ、暁火はその見た目を確認する。

 どうやらはしゃいでいるようだ。

「おー、綺麗ですねー。どうです? 似合ってます?」

 芸能人が結婚した際の記者会見の見様見真似で顔の高さに指輪を嵌めた手を並べ、暁火は郁斗に問いかける。

 返答に困り、郁斗は頭を掻いて、言葉を探した。

「あー、お似合いですよ、ええ」

 若干投げやりな郁斗の感想に暁火は眉根を寄せる。

「なんかバカにされてるっぽい」

「まあ、そう言わず。その指輪は妖気の動きを抑える指輪です」

「ただの指輪なのにそんな効果があるんですね」

 改めて暁火は指輪を確かめる。

 リングに彫り込まれた、絡みつく蔓のような見慣れない文字や、嵌め込まれた宝石はそのためのものなのだろう。

「張のツテでとある付喪神に拵えさせたものです。それで、この前のようなことはある程度抑えられると思います」

「あー、なんだか大変だったみたいですからねぇ」

 暁火が困ったように眉根を寄せて苦笑する。

 彼女は先日の一件を覚えていないとのことだった。途中から記憶が途切れ、目覚めた時には全てが終わっていたという。尋常ではない妖力の暴走、そもそも人間であるはずの彼女が妖気を持っていたこと自体が異常だというのに、その量と質も破格なものだった。

「あれは何だったんですかね?」

 郁斗は肩を竦める。

「分かりませんね、正直。我々は妖気を感じ取ることができるわけですが、ご隠居を始め全員が総代から妖気を微塵も感じ取っていませんでした。それは先代の血を受け継いだ娘とは思えないほどに、です」

 暁火を見つめる郁斗の目が微かに蒼く淡い光を帯びた。

「ただ、あの一件を境に総代からは常に妖気の迸りを感じます。あの時と比べれば弱いものですが、それでも強力な妖気です」

「そんな気はしないんですけどね」

「これは張の推測でしかありませんが、総代の際限なく生まれる膨大な妖気が溢れている状態なのだと思います。すぐに影響が出るわけではありませんが、当面は妖術を通して妖気の扱いを学んでもらうことになるでしょうね」

 妖の生命力そのものである妖気が常に漏れ出し続けていることはあまり好ましい状況ではない。

 早急に対処すべきというわけでもないが、長引けば周囲に影響も出かねないだろう。

「総代の妖力も含め調査は続けさせます。一先ずはそれで問題はないと思います」

「じゃあ、もう学校に行っても大丈夫ですかね?」

 思い当たり暁火が弾んだ声で郁斗に問いかける。

 瞳は期待に輝き、よほど行きたいのか顔全体がうずうずとしていた。

「体の具合に問題がないのでしたら、大丈夫だと思いますよ。念のため、確認は取りますが」

「ホントですか! じゃあ、早速準備しちゃいますね!」

 止める間もなく暁火は身を翻して、通学用の鞄を持ち出し、物を詰め始める。

「いや、まだ決まったわけでは……って今から行く気かよ?」

「善は急げって言うじゃないですかっ。葉月さんも早く聞いてきてくださいよっ!」

 郁斗は知っている。

 こうなった暁火を止めることは誰にもできない。少なくとも郁斗は暁火を説得できない。

 真面目に勉学を励もうとしている分、より一層何も言えない。

「埋野さん」

「ん? 何ですか?」

 学校へ行く準備を整える暁火は振り返らずに返事をする。

 郁斗は少し躊躇うように考え、誤魔化すように頭の後ろをかき、やがて観念したように大きく息を吐き出した。

「あまり根を詰めないようにな」

 転がり出たその言葉に暁火の手がぴたりと止まる。

 郁斗からは暁火がどんな表情をしているのか分からない。失敗したかと思った。

 こんなことを言うべきではなかったのか、と後悔が影の棘となり心臓の表面に食い込んだ時、暁火の頭が少しだけ動く。

「分かってるよ。大丈夫だから」

 そっと静かな声で優しく答え、暁火はまた鞄へ荷物を詰めていく。

「そうか。ならいい」

 たったそれだけ。ただそれだけで十分だった。郁斗はほんの少し表情を和らげ、部屋を後にした。

 暁火は彼の足音が遠のいていくのを待って、机の上に置かれたCDプレイヤーに目をやる。

 聞き逃した最初の一曲。様々な記憶に寄り添ういくつかの曲のその始まり。

 半生を共に歩んだ音楽。

「ブルーアイズブルー」

 その曲のタイトルは、暁火が夜行組の組長となったその時、また新たな意味を孕んだのだ。





     〆


 とても長い夢を見た気がした。

 深い海から引き上げられるわけでもなく、また淀みから引っ張り出されるわけでもなく、ただ浮力に従って浮き上がるように暁火は目を覚ました。

 体は重く、指先に至るまで動きがぎこちない。油を差さずにいた機械のように全身が動かそうとする度に軋んだ。

 ぼやけた目で周囲を見回すと、見慣れたサファイアの瞳があった。

 どうしてか見る度に懐かしさを思い出す、まるで宝石のような透き通った碧。

 その目は今、涙に濡れていた。

 手に感じる温かさ。

 意識は不明瞭で、記憶は不鮮明で、自分が今どこにいて、またどうしてここにいるのかも分からない。体だけがぼんやり横たわっている感覚の中、宙に浮いた体を繋ぎ止めているのは、その温もりのように思えた。

 誰かが何かを言っている。涙に濡れた声で、心底安心したように、掠れた声だ。

 思考が纏まらない。ただ体がここにあるという感覚だけが散らばっている。暁火は涙に濡れた碧い瞳をただ見つめていた。

「ブルー、アイズ、ブルー……」

 いつも聴いている曲のタイトルがなんとなく頭に浮かび、暁火が意味もなく呟いた。

 その青い瞳を青くしたのは暁火自身なのだろう。

 青い瞳の誰かが手を伸ばし、暁火の額に触れた。不慣れな感触に目をぎゅっと閉じ、身を硬くした暁火はそっと息を吐き出す。

 額に感じる温もり。また一つ、拠り所なく浮かんでいた体を繋ぎ止められる。

 その温もりに触れられた場所が彩られ、ようやく実体を持った。その時まで何もなかったものが、温もりによって掘り出されていく。

 温もりはざらざらとしていて、そして少しだけ硬かった。どこか無骨なその感触に何故だか無性に安心して、閉じた目から自然と涙が流れ出た。

 溢れた一筋の涙が流れ、横たわった暁火の耳たぶに堕ちる。

 もう一度滴った涙の雫を今度は何かがぬぐい取った。微かに感じた温もり。

 その痕跡だけが今の暁火に知覚できるものの中で、唯一確かなものだった。ほんの一瞬触れた感触がいつまでも肌に染み込み残留している。

 誰かの温かさが肌を伝い、内側の滞った血液にまで浸透していく。循環を思い出した血液が温もりを体の真ん中へ誘い、全身へと行き渡る。

 ブルーアイズブルー。ならば、青い瞳を青くしたのが自分自身だとすれば、彼の心を自分は砕いてしまったのだろうか。

 恐る恐る目を開く。誰かがまた暁火の頭を撫でた。

「今は休んでてください」

 誰かの声が聞こえる。先程よりもはっきりと聞こえる。

 その湿った声が、どこまでも深い優しさに溢れているように思えて、暁火はゆっくり目を閉じた。

 体を繋ぎ止める温もりを手放さないように暁火はまた意識の奥底へと沈んでいく。


     〆


 登校の許可はすんなりと得られた。

 差し当たっての脅威であった飯綱会が完全に消滅し、しばらくは暁火の身も安全だろうという判断だ。ただし、まだ本調子ではないということを考慮し、張の運転する車で送っていくのが条件だった。

 そうして暁火は張の運転するBMWの後部座席で揺られている。

 三郎は窓の外から見える、次々と流れ去っていく景色を興味深そうに眺めていた。前の座席には張と郁斗の姿。郁斗は今後も暁火の護衛を務めるらしい。

「そういえば女将、飯綱会のその後をまだお話していませんでしたね」

 三郎と同じく景色を見ていた暁火は張の言葉に顔を戻し、席に座り直す。

「ああ、そうでしたね。どうなったんですか?」

「首謀者である飯綱会会長、塔ヶ岳升臣は右の小指を切り落とした後、除名処分となりました」

「また小指だ」

 暁火は自分の小指に嵌められた指輪に目を落とす。

 これも郁斗の指示で右の小指に嵌めた。何か理由があるように思える。

 関連性に気付いた様子の暁火に張は口の端を釣り上げた。

「小指、というのは妖気の入出力を司る重要な部位です。男性の場合だと、左の小指は入力を、右の小指は出力をそれぞれコントロールする部分であり、小指の欠損は即ち対応する機能の喪失を意味します。ちなみに女性だと左右が逆になります」

「入力と出力……」

「妖にとっての生命そのものである妖気は体内での生産と体外からの吸収で賄われます。出力に関しては妖術などが分かりやすいですね。あれは体外に出力した妖気で外部の妖気に働きかけることで様々な現象を引き起こします」

 張は饒舌に妖気の何たるかを語っていく。立て板に水とはこういうことを言うのだろう。

「だから妖術を扱うために必要な右手の小指を切り落としたわけですか」

「そうですね。塔ヶ岳升臣は妖連合から除名となり今後いかなる妖衆にも迎えられません。人間社会を渡り歩くための戸籍もまた失効した今、彼が生きていける場所はどこにもありません」

 あとは自ら命を絶つか、野垂れ死ぬ以外の結末しかない。

 もし運良くどこか居着く場所を見つけ生き残ったとしても、今後彼が妖の世界に何らかの影響を及ぼすことは不可能だ。

 彼が妖という存在を口外したところで身元不明の出自も分からない者の話など誰も信じない。

「なんだか妖衆ってたまにヤクザみたいですね、常々思っていましたけど」

 暁火がぽろっと言った素直な感想に張の目が光る。

 水を得た魚のように幽玄で生気の薄い顔に活力が溢れた。

 張の生き生きとした表情に郁斗は気が重くなる。

「もともとヤクザというもの自体が妖衆の影響を色濃く受けているものと言われていますからね。まだ国に妖衆の存在が認められていない当時は生計を立てるために露店を開く者や、賭場に出入りする者も多かったと聞きます」

「じゃあ、妖衆がヤクザの走りだったわけですか」

「そうなるかもしれませんね。文化や行為だけが形骸的に受け継がれているようです」

 張は上機嫌に答えている。しっかりと中身の返答が出来、その上理解してくれる聞き上手の暁火の存在が嬉しいようだ。

 これが郁斗や菖蒲だと聞き流すことも多いため、張は面白くないらしい。彼が葉蔵と行動を供にすることが多いのも、話し応えがあるからだろう。

「夜行組の車には歴史の授業をするサービスがあるとは知らなかったな」

「ああ、これはすみませんね。貴方には眠たくなる話でしたか」

 皮肉交じりに張は苦笑する。

 あまり反省はしていないだろう。そもそも張が反省などという殊勝なことをするとは到底郁斗には思えなかった。

「そういえば張は結構、内輪でしか通用しないような言葉を多く使ってんのに、総代には伝わってますよね」

「え? ああ、Vシネマとか一時期よく見てましたから」

「へぇー……は?」

 さらっと答えられたので、さらっと流しかけた郁斗は違和感を抱き、座席から身を乗り出して暁火を顧みる。

「Vシネマって何? ヤクザ映画見てたって言うんですか?」

 暁火の眉根が寄り、不満げに唇を尖らせた。

「任侠映画ですよ」

「訂正そこかよ」

「いやぁ、昨日も一生に一度は言ってみたいけど、まず言えないであろう台詞を言えて、めっちゃ気分よかったですよー。無理してでも行って正解でしたねっ!」

「マジかよ……」

 嬉々として語る暁火に郁斗は絶句する。

 どこにでもいる、妖の世界に関わったことすらない、平和ボケした能天気で平凡な女子高生。当初のその認識はおおよそほとんどが覆されていた。

 彼女は知れば知るほど不可解だ。

「話を戻しますが、追跡者チェイサーこと藤木戸遠哉は消息不明。もともと雇われでしたからね、のらりくらりと立ち回って上手いこと逃げおおせたのでしょう。またその他の構成員に関しては身柄を拘束し、処分に関しては現在保留となっております」

「保留?」

「ええ。見せしめとして処刑するか、それとも指を詰めて除名とするか。一度女将の判断を仰ごうと思いまして」

「なっ!? お前何考えてっ!」

 声を荒げる郁斗を手で制し、張はミラー越しに後部座席の暁火に目をやる。彼女は腕を組み、小さく唸って考え込んでいた。

 いきなりの大声に驚いた三郎だけが忙しなく周囲を見回している。

「そっか。アタシが組長ですもんね。アタシが決めるのは当然ですよね」

「張! 昨日今日組長になった女子高生に何決めさせようとしてんだっ!」

「遅かれ早かれ決めなければならないことです。女将には覚えて頂かなければなりません。命を天秤にかけた上での判断というものを」

 怒鳴る郁斗の声を涼しい顔で聞き流し、張は笑う。

 それは間違いなく暁火のためであり、また張自身のためでもあった。

 人の命が関わる決断を暁火ができないようでは、いずれ従う部下たちに被害が出る。必要な犠牲ならばともかく、判断が遅れたために死ぬというのは避けたい事態だ。

 暁火には早急にそれを身につけてもらわなければならない。

「いんですよ、葉月さん。これは必要なことですから」

 後ろから暁火が郁斗を宥める。当の本人に言われてしまえば、郁斗も反論することはできない。

 必要なことだというのも分かっている。しかし、それを年端も行かない女子高生に背負わせていいものとは思えなかった。

「何か代案があればお聞きしますよ。物によっては可能な範囲内で実行できるよう手助けもいたします」

「今まではどうしてたんですか?」

「ケースバイケースですね。量刑というのはどこまでも主観に影響するものです。先代ならどうするというのも推測はしきれません。あのお方は随分と気の赴くままだったのもありまして」

「んー、まあ、張さんと葉蔵さんが話し合って、そう結論が出たっていうことは、その塩梅なんでしょうね」

 しばし考え込んだ暁火は息を吐き出し、張の背中に見つめる。

「少し、時間を頂いてもいいですか?」

「構いませんよ」

 本当は即決する力を早急に身につけてほしいところだが、そうもいかないことは張も分かっている。

 まずは命の処遇という決断をすることから慣れていけばいいだろう。

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