百鬼は夜を踏破し
飯綱会の構成員たちが次々と事務所から連れ出されていく。
喚き散らし必死に暴れる者もいれば、観念したように促されるまま大人しく歩む者もいる。我が身の破滅に絶望し啜り泣く者、魂が抜け出たように静かな者、有り様は様々だ。
事務所の外、壁に凭れ架かった暁火はその様をなんとなく見つめ、細い息を吐き出した。瞼も重たげに開いた目は力なく、自重のほとんどを壁に預けて腕を組んでいる。
「お疲れ様、暁火ちゃん」
慌ただしく事後の処理に取りかかる一団を離れた場所から見つめる暁火に声をかけたのは、赤い髪を簪で纏めた白い着物の美女。艶然と笑いかける彼女に、暁火も表情を和らげた。
「菖蒲さんこそ、お疲れ様です」
「隣いいかしら?」
「ええ、もちろん」
億劫そうに暁火が頷くと、菖蒲は並ぶようにして壁へ背を預けた。
「ごめんなさいね。まだ傷も治りきっていないのに、昨日の今日でこんなことさせちゃって」
「大丈夫ですよ。まだちょっとだるいですけど、これくらいのことなら。それに傷は張さんにある程度治して頂きましたし」
壁に背中を預けたまま暁火は少しだけ身を捩る。
溢れ出した痛みに眉根を寄せ、押し殺した声を体から絞り出すように深い息を吐く。
「無理はだめよ。あとのことは隠居や私たちで済ませるから、暁火ちゃんは先に郁と戻っているといいわ」
菖蒲の提案に暁火は小さく唸り、賑わう一団を一瞥する。
一段落はついたもののまだまだやることはたくさんある様子だ。
「戻ってもいいんですかね。アタシ組長だから、一応最後までいるべきなんじゃないですか?」
「大丈夫よ。それにまだ病み上がり以前の人が何かをできることがあるわけでもないでしょう?」
手厳しいように思える菖蒲の言葉はしかし真実だった。
体を動かすことすら億劫で、立っているのも辛い暁火が今できることは何もない。少しでも気を抜くと倒れそうなのを隠すために暁火はこうして壁に体を預けている。
答えがないことを肯定と取り、壁から背を離した菖蒲は腰に手を当てて優しく笑う。
「女子高生に無理をさせるほどうちの組は落ちぶれちゃいないわよ。ここから先は組長がいなくても大丈夫だから、早めに休んで元気になって、貴女じゃないといけない役目に備えなさい」
「それも、そうですね」
菖蒲の言葉に一瞬驚いたような暁火の顔がすぐに笑みへと変わる。
彼女の言っていることは尤もだった。
無理をして体を壊して、いざという時に動けないことが一番の問題だろう。
「それじゃ、あそこで黄昏れてる郁のことよろしくね」
菖蒲の視線が向けられた先へ暁火も振り返る。
暁火たちよりもさらに離れた場所、街灯の下にぽつりと立つ人影があった。
黒い袴を纏った長身痩躯。黒に思えるほど深い蒼の髪をした青年が立ち尽くしている。
「分かりました。それじゃあ、菖蒲さん、後はよろしくお願いします」
「ラージャ」
大人の艶っぽさを含んだおどけた声でそっと笑う菖蒲に一礼をして、暁火は彼の元へと歩き出す。
不思議と、重いはずの足取りは軽かった。ふらつきそうになる体を叱咤し歩む。
吹きすさんだ渇いた風の冷たさに暁火は肩に引っかけていた黒い羽織の前を胸元へ引き寄せ、ふらふらと彼の元へ進む。
目の前に立つ彼の背中は細く、儚く、また痛々しくも見える。ただ独り、安っぽいスポットライトの下に立っていた。
待ち呆けた子供のようだ。
その後ろに立ち、暁火はゆっくりと深呼吸をする。どんな言葉をかけるべきか、ほんの少しだけ考えたが、そういうのは必要ないかもしれない、と思い至った。
「葉月さん」
暁火が努めて明るい声をかけると、その肩がぴくりと揺れ、ゆっくりとした動きで彼は振り返った。透き通った、青空の色を取り込んだようなサファイアの瞳は暁火を捉え、微かに細められた。
「どうしました、総代」
「菖蒲さんが今夜はもう帰っていいと。葉月さんにご一緒してもらっていいですかね?」
「ああ、そういうことでしたか。分かりました。いいですよ」
静かな、いっそ無味乾燥とも取れる空っぽの声で応じ、郁斗は歩き出す。
暁火も後を追うように足を進め、その背中を追う。郁斗の足取りは確かで、また背中もはっきりと見えるが、どこか空虚で中身がないように見えた。
「総代、体調は如何ですか?」
郁斗が口を開いたのはもう事務所も見えなくなり、ただ灯りの落とされた住宅ばかりが並ぶ場所に至ってからのことだった。
「大丈夫ですよ。ちょっとふらつく程度なんで」
「昨日の傷も癒えないうちに無理をさせてしまいすみません」
「いいんですよ。相手が逃げる前に叩かないといけませんでしたしね。皆さんが負担のかからないように配慮してくれたのも分かっています」
暁火は笑って答える。
無理をしているわけではない。
夜行組の組長となることを決めたのは他ならぬ暁火であり、こういった苦労も知った上で選んだ。
「それでも出来れば辛い目には遭わせたくはありませんよ」
先を歩く郁斗は振り返らずに言う。その声こそが辛そうで、苦しげだった。
「何を選んだって、辛いこと苦しいことはありますよ。辛かったり苦しかったりしても、楽しめるものはありますし、アタシはきっとそうだと思って組長になることを選びました」
反論というには気楽すぎる、へらへらとした声で暁火は語る。
「それに正直、今夜はスカッとしましたしね」
能天気に笑い声を上げる暁火に郁斗は歯を噛み締める。感情の行き場が見当たらず、郁斗は立ち止まり暁火へと振り返った。
「貴女は……! 貴女は自分がどういう世界に来たか分かっているんですか!」
突然声を荒げる郁斗の顔を見上げる暁火の顔は唖然としていた。驚かせてしまったのだろう。
気を咎めながらも、郁斗は湧き上がる感情を押し殺せない。一度堰を切った感情は止められない。
一気に溢れ出した不甲斐ないという思いが駆け巡り、全身が熱を帯びる。
「貴女はこの世界の片鱗を目の当たりにしたはずだ。人間とは違う価値観で生き、命の勘定だって違う。常に死と隣り合わせの場所で、貴女だって自身に向けられた殺意を感じ取ったでしょう。それなのにどうして、この世界に関わることを選んだんですか!」
止めどない激情を言葉に変換し、思いのまま思いの丈を一息に捲し立てる。息を切らせた郁斗に反して、気付けば驚いていたはずの暁火は笑っていた。
いつだって彼女は笑っている。どんなことがあっても、それこそが誇りのように彼女の笑みはいつだって曇らない。
「理由なんて後からついてきます。アタシはただ、アタシの心が行きたいと思った方向に進んだだけです」
艶やかな唇が言葉を紡ぐ。
気高く凜とした声だった。
黒曜の双眸に濁りはなく、一瞬たりとも揺れない。真っ向から郁斗を見据えている。
「理由が、ない……そう言うんですか、貴女は」
それはあまりにも残酷な事実だった。
彼女は何かに理由をつけて、自分を納得させたわけではない。本当にただ、彼女の心に従って選んだというのなら、もう郁斗がどれだけ言葉を尽くしてもねじ曲げることなどできなかった。
「強いてあげるなら、やり甲斐がありそうだったから、ですかね」
項垂れる郁斗の脇を抜け、暁火が先を行く。
郁斗は顔を上げられない。上げることができない。
「やると決めたら、アタシはやりますよ。誰がやっていたからっていう真似事でもないし、こうしなければいけないという使命感でもない。アタシはいつだってアタシがいいと思った方を選んできたんです。自慢になりますけど、アタシやると決めたことは大体やり通してますよ」
分かっていた。まだ短い時間しか共に過ごしてはいないが、郁斗はそれを痛いほど理解していた。
いつもへらへらと笑い、能天気に振る舞っているクセに彼女は強情で、やると決めれば譲らず、そして無茶をやり通してきた。
俯き歩き出せない郁斗。先を進む暁火。
立ち止まった暁火は月を見上げ、深く息を吸い込む。小さな手が胸元に手繰り寄せた羽織をぎゅっと握った。
「とまあ、こんなアタシなわけですけど」
暁火は言葉を切り、郁斗を顧みた。
「葉月さんは護ってくれますか?」
その言葉が郁斗の心に深々と突き立てられる。
ただ一つ、その一言が一閃の雷のように郁斗の体を駆け抜けた。
様々なことを考える余り埋もれてしまっていた、きっかけの一片が揺さぶられる。
鮮烈に原初の感情が蘇っていく。
自然と唇が緩んだ。
「そうか……変わらないんだな」
暁火がどちらを選んだとしても、郁斗のすべきことは何一つ変わらない。
そんな大切なことを今の今まで郁斗は忘れていた。
顔を上げる。振り返った郁斗の瞳は青い光を宿していた。
膝をつき、拳を地面に突き立てる。跪き、郁斗は己の君主へと頭を垂れた。
心中であれほど吹き荒んでいた砂嵐が消えている。煩雑な思考を繰り返していた頭がいつの間にか鮮明となっていた。
大切なものを詰め込んだ、大きな大きな宝箱。集めすぎて、最早何が本当に大切なものかも分からなくなった箱の一番底に眠る、最初の宝物を見つけ出したような感覚だった。触れた指先から、最初の思いが全身を彩っていく。
「不肖、葉月郁斗。六生を以て、御身御守護を勤めさせて頂きます」
迷いはもう、なかった。




