暴虐の力
〆
「埋野さん、貴女はどうするつもりなんですか?」
「まだ自分が何をすべきなのかは分かりません。ただ、それが見えてくるように行動しようと考えてみたんですよ、アタシなりにね」
暮れなずむ空の下、群青に染まる夜の手前。学校からの帰り道。
向かい合う暁火と郁斗。
郁斗は何度も彼女の言葉を反芻し、しかしその真意を捉えあぐねた。
何か嫌な予感がする。彼女が何かを決断をしようとしている。それを感じ取り、郁斗はゆっくりと深呼吸をした。
これから紡ぐべき言葉を必死に考える。
「一体、何を考えているんですか、埋野さん」
「いつまでも後手で回るのは嫌なんです。ここは一つ打って出てみませんか?」
パックに詰められたたこ焼きの爪楊枝をびっと突き立て、暁火は力強く笑う。
いけない。彼女の言葉、そして表情。全てが郁斗が認めたくはない方向へ向かっていた。
「どういう意味ですか」
感情的になるのを必死に押さえた声は自分でも驚くほど平坦だった。握り込んだ拳の内側が汗で湿る。
説得の言葉を考えようとした頭はずっと空回りを続けていた。
郁斗の動揺など気付きもしないのか、口に放り込んだたこ焼きをゆっくりと味わい飲み込んだ暁火は郁斗のサファイアの瞳をじっと見つめる。
「相手の襲撃にいつまでも身構えて、現れたら対処するなんてやり方じゃきっとあいつらはずっとつけ上がったままです。ここは一つ連中の鼻っ柱を思いっきり叩き折って、もう二度と楯突こうなんて思えないくらいに木っ端喰らわせるべきじゃないですか?」
「そのために貴女は何をしようと言うんですか?」
この話の先、暁火が何を言わんとしているのか、郁斗は察していた。この話の続きなど聞きたくはない。だというのに回りくどい言い方に業を煮やし、郁斗は問うてしまう。
暁火はふふんと得意気に笑った。
「釣り上げてアタシたちの土俵に引き摺り出すんです」
「釣り?」
「そう。釣りです」
暁火はくいっと指先の爪楊枝を釣り竿のように上げる。
「敢えてアタシたちの情報を流し、隙を教えて襲わせます。そこを待ち構えて一気に叩いて、連中の小細工なんてささらもさらにしてやりましょう!」
ぐっと握り拳を作り熱弁する暁火に、郁斗はため息を吐き出す。
「それは無理です。いくら何でも連中だって莫迦じゃない。今度は特例を踏まえた上で襲ってくるはずです。俺と分断させようともしてくるでしょう。一度警戒心を抱いた相手はそう簡単に騙せませんよ?」
先日の小手先の罠は初見だから通用したものだ。
もう二度と同じ手は喰らわないだろう。仮にもし郁斗と暁火が引き離されれば、助けることはできない。暁火を危険な目に遭わせることとなるし、命の保証もできない。
その作戦に賛同はできなかった。
これ以上、危険なことを考えないようになるべく強く否定したつもりだったのだが、暁火の顔から笑みはまだ絶えない。
「まずそうなるでしょうね。だから、今度はさらにその裏を掻くわけです」
〆
捻れた刃を持ったナイフが弾かれ、虚空へと舞い上がった。
尾を曳く金属の悲鳴。藤城戸は驚愕に目を瞠る。
対峙する郁斗の足下には刃が割れ砕けたナイフが六振り。隠し持っていた得物は全てが壊され、最早太刀打ちすらできなくなった郁斗の手には、存在し得ないはずの長大な包丁。
「盃は交わされた」
郁斗は呟く。低く凪いだ声だった。
振り抜いた撫切り包丁を引き戻し、郁斗はその刃先を唖然とする藤城戸へ向ける。
「どういうことだっ! 一体なんでお前が力を使えるってんだよっ!」
「八代目組長が就任した以外に理由があると思ってんのか? 埋野暁火は今この時、正式に夜行組組長の座に就いたんだよ」
言葉にすれば、事実は深々と郁斗の胸に突き刺さった。
出来れば避けたかった結末。それはしかし実現してしまい、こうして郁斗の窮地を救っていた。
皮肉な話だ。
自身の体の妖たらしめる根幹が暁火と小径で繋がっていることを感じる。淀みない妖気が全身へと行き渡り、力が溢れてくる。
長たる彼女より与えられた使命を果たすための力だ。
そしてこの状況に持ち込んだのも全て彼女の作戦。
組長としての認可の手続きを菖蒲たちに進ませ、暁火と郁斗は敢えて行動の情報を流し襲撃を誘った。どんな小細工を用いてこようと、組長が正式に決定となり妖力の行使が可能となれば何一つ意味などない。
「クソ、ハメられたのは俺たちってことかよ」
「お前らが無茶しでかしたせいで思った以上に際どい賭けになったがな。全く、うちのお嬢も大概無茶がすぎるってもんだ」
本来ならば人の多いこの総合体育館の敷地内は安全だと仮定していた。試合が終わる頃には菖蒲たちも手続きを終え、彼らの襲撃に合わせて盃を頂くはずだったのだ。
暁火を危険に晒し、窮地となってしまった。それでも賭けに勝ったのは暁火たちだ。
慣れ親しんだ得物を構える。長らく、赴くままに顕現させることができなかった相棒。
特例によって限定的に与えられたものではない、正真正銘自身に伝わる妖気によって形作られた自身の現し身。
握り込めば、やはり手に馴染んだ。
「埋野さん、貴女の勝ちですよ」
得物を見つめ、郁斗は呟き、そして目の前に立つ敵を睥睨した。
新任したばかりの組長がここまでやってのけたのだ。彼女を支える部下が遅れを取るわけにはいかない。
「不肖、夜行組が斬込隊筆頭、葉月郁斗。推して参る」
暗闇の中、藤城戸の影が身構える。
深く呼吸し、雑念を振り払う。如何に心が痛もうとも、事は至るところに至ったのだ。
ならば、少なくとも死合う今だけでも、それを受け容れるしかない。
宝石のような目を開き、郁斗は床を蹴り抜き動き出した。
総合体育館の正門前に一台の白いアウディが停まっていた。
不可視の結界に鎖され、夜の住人のみを頑なに拒む門を見据えているのは、赤い髪の美女と筋骨隆々の小高い山のような巨体を持つ白髪の交じった頭髪の男だった。
作務衣から伸びた腕は木の幹のように太く、浅黒い肌に包まれている。右の指ががっしりとした顎にかけられ、その表面を太い指の腹が撫でた。
無数の傷跡が刻まれた顔を顰め、その男は肉の裂け目のように細い目で門を見上げる。
「小径は繋がった。行くわよ、牛木」
「応」
雨箒菖蒲に言葉を投げられ、牛木と呼ばれた男は抑揚の欠けた低い声で唸るように応じた。
二人の後ろに停まるアウディの運転席側でウィンドウが下ろされ、中から女性とも男性とも分からぬ幽玄な美貌が顔を見せる。
「姐さん、私はここで待たせて頂きます。存分に暴れてきてください」
振り返った菖蒲はため息を吐き出し、張を冷たい目で睨む。
「結界は壊すんだから一緒に来たらどう? 組長の危機よ? 助けに行くべきじゃないかしら」
張は声を上げて笑い、大袈裟な動きで両手を広げた。
「勘弁してくださいよ。妖たちの戦場だなんて、ただの人間には荷が勝ちすぎるでではありませんか。領分を弁えて、私はここで待たせて頂きますよ、僭越ながらね」
張自身、わざわざ出向く必要性を感じていない。
暁火は霊盃を戴き、正式に夜行組八代目組長に選ばれた。昨夜、誓いの盃を交わした菖蒲たちと暁火の間に予め作られていた小径からは上質な妖力が膨大に送り込まれてくる。
これだけの妖力を得た以上、菖蒲と牛木、どちらか片方が出向くだけでも十分のはずだ。
それは菖蒲自身も分かっているらしい。
「ま、いいわ。それじゃあ、留守番お願いね」
「ええ、任せて下さいな。間違いなどと誤魔化す必要もありません。徹底的に潰してやってください。それこそ蟻の巣に油を流し込んで燃やすように、ね」
身を翻した菖蒲の細い背中に張が声を投げかける。振り返った菖蒲は赤い瞳に妖艶な輝きを宿して笑う。
冷たい風が菖蒲の足下で逆巻き、赤い髪がふわりと舞い上がった。しなやかな足に纏わりつく風はまるで号令を待ち焦がれる戦士のようだ。
「私は総代の命令通り叩き潰すだけよ。身の程を弁えないモタレどもに木っ端喰らわしてやるわ」
蟠っていた風が弾ける。周囲の木々がざわめき、無数の風の奔流がぶつかり合い、絡まり合い、軋み犇めき、嘆き悲しむ女性の悲鳴のような音を掻き乱して、悍馬となって結界へ殺到した。
不可視の結界の表面に霜が降り、無数の罅が刻まれていく。
「牛木ッ!」
「分かっている」
控えていた筋骨隆々の大男の腕が隆起する。傷跡に埋もれた細長い目を見開き、全身から血管が浮き出た。幾重にも菱形を重ねたような紋様が浅黒い肌の表面に掘り出され、青白い光を淡く放ち始める。
立ち上る膨大な妖力に分厚い肩口からは陽炎が生じ、踏みしめたアスファルトが轟音と共に砕けた。
獣じみた裂帛の咆哮と共に両の足がさらに沈み込んだかと思えば、その巨体が消失。強風が駆け抜け、無色透明な結界の破片が虚空へ舞い上がる。
立ち上った塵埃が風に浚われ、結界には大穴が穿たれていた。
殴り抜けた体勢のまま結界の内側に立つ牛木の分厚い唇から吐き出された呼気は湯気を伴っている。まるで重機の排熱だ。
姿勢を正した牛木は、腕を組み満足げに笑う菖蒲を一瞥する。巌のような顔に感情はなく、ただただ険しい。
「行くぞ」
「ええ、そうね」
菖蒲も走り出し、牛木と共に敷地内へと消えていく。
窓から顔を出した張はその背中を見送り、ぬばたまの黒髪を掻き毟るように掻いた。
「断頭の鉄風に加えて、豪放磊落の剛風と悲嘆の雪風が揃い踏み。いびせえもんですねぃ。誰だって芋引いてバックれるってもんですよ、こりゃ」
頼りなく張は笑う。
夜行組が誇る実力者たちだ。これらを一度に相手取るなど、少なくとも張は御免被りたかった。
何か手を講じる必要もない。結末は分かりきっている。最早疑いようなどなかった。
相手をこの状況に引き摺り出した時点で何がどうあっても埋野暁火は勝利している。
「組長に就任して真っ先に、自らジギリをかけるだなんて。全く、いなげなお嬢さんだ」
ついこの間、妖の世界に関わったさえなかった女子高生とは思えない。
彼女は張、またあらゆる妖たちの推測を軽々と飛び越え、今この時この瞬間にさえ長としての素質を示し続けている。
驚くほどに有望であり、そして何より恐ろしい。
一体どんな人生を歩めばあのような在り様になるのか、張には予想だにできないでいた。
総合体育館裏、テニスコートに菖蒲と牛木が駆けつけると、すでに老人と赤刃、樋口出流が対峙していた。
老人の後ろには彼女たちの新たな長、八代目組長埋野暁火も立っていた。足が覚束ないのか体はふらふらと揺れ、背筋を曲げて肩口を押さえていた。ぶらりと垂れ下がった右腕の袖口からは血が流れ、指先へと滴っている。
「暁火ちゃん!」
張り裂けそうな声で叫んで、菖蒲が暁火へと駆け寄る。名を呼ばれた暁火がゆらりと振り返り、頭から流れる血に塞がれた目と腫れた頬、切れた唇が菖蒲の目に飛び込んだ。
「あ、菖蒲さん。お手数おかけしてしまったすみません」
気楽そうに笑って、暁火はどこか場違いな謝罪を口にする。その痛ましさに菖蒲は目頭に熱さえ感じる。
普段と変わらずに笑っているつもりなのだろうが、いつもよりも遙かに弱々しく、何より痛々しい姿だった。立っているのもやっとのような状態、こうなる可能性もあるとは覚悟していたが、やはり胸は痛んだ。
菖蒲へと近付こうと一歩踏み出した暁火の足が崩れる。積み木が崩れるように容易く暁火の体は傾き、踏みとどまることもできない。倒れそうになるその体を、墜落しそうになる小さな頭を菖蒲の柔らかな胸がそっと抱き留めた。
一瞬事態が分からず呆けていた暁火はすぐに我へ返り、体を起こそうとする。
「ダメですよ、菖蒲さん。血がついちゃうんで」
「よく頑張ったわ」
暁火を離さぬよう両手で強く抱き締め、耳元で菖蒲は囁く。今にも泣き出しそうな、それでいてどこまでも安らかな声に、暁火の全身から力が霧散する。
「あ、あれ」
押し留まることもできず、暁火の体が完全に菖蒲へと委ねられた。
「すみません、何だか力入らなくて……」
胸に埋められた暁火の表情は見えない。服越しに熱した微かな呼吸だけが感じられる。
戸惑う彼女を落ち着かせるように菖蒲はそっと小さな頭を撫でた。
「いいのよ。後は私たちに任せておきなさい」
二人の横合いを巨体が駆け抜け、樋口の前に老人と並び立つ。小高い山のような体で二人を隠し、牛木は裂け目のような細い目で樋口を睥睨した。
「雨箒。お前は組長を」
「ええ、分かったわ」
応じる菖蒲の胸元、暁火が緩慢な動作で億劫そうに顔を上げ、見覚えのない背中を見た。
「あの人は」
「俺は牛木隆奴だ」
抑揚にかけた声でそれだけ言って牛木はすぐに樋口へと向き直る。それが彼なりの自己紹介だったのだろう。
対して樋口はさらなる邪魔者に舌打ちする。
雨箒菖蒲と牛木隆奴――どちらもこの一帯では知らぬ者のいない実力者。夜行組を最強たらしめる者たち。新たな組長である暁火から、妖力供給が再開された二人を相手取るのはあまりにも無謀だった。
それでもこの場所で退くことは許されない。自身にこの役目を与えてくれた者のためにも引き下がるわけにはいかなかった。
仕留めねばならない。今この場所で。
組長が決まった彼らは管理者としての権限を再び手に入れた。ここで逃げたところで後はない。
ならば、出来る限りの損傷を与えなければならない。この命に代えても、だ。
覚悟を決め、樋口出流は空いた左手に赤き刃のナイフを生み出す。二つのナイフを構える樋口に老人は顔を顰めた。
「趨勢は決したじゃろう。退け、若いの」
「黙ってろ! もう俺たちに後はねぇんだ。だったら死ぬまで暴れて、親父たちが逃げる時間を稼ぐだけだっ!」
「鉄砲玉め」
牛木が身構える。恐らくは新たな組長を守るためと思われるその姿勢に、しかし樋口は笑った。
喘鳴めいた掠れた笑い声を響き渡る。
「まずはその女を組長として使いモンにならねぇようにしてやんよっ!」
逆手に構えたナイフの刃が赤い光を放つ。太陽を反射した煌めきとは違い、刃そのものの発光。
放たれた波動が響き合う。
暁火の体を穿ち、まだその体内に残留する誰でもない樋口自身の鱗と共鳴し、再び熱量を取り戻す。
体の違和感、ついで蘇った内側から肉を焼かれる数十の激痛。
短い悲鳴と共に暁火の体が撥ね、その体から白い煙が立ち上る。
「暁火ちゃんっ!」
もがき苦しむ体を押さえ込もうとした菖蒲が顔を歪める。暁火の傷口から溢れる熱量が肌を刺した。
「何をしたのっ!」
樋口を睨み付け、菖蒲は鋭い問いを放つ。断続的に悲鳴を上げ、菖蒲の体にしがみついて離れない暁火を見て、樋口は声を上げて笑う。
「鱗だよ、俺の! テメェだって俺がどういう妖なのかは知ってんだろぉ?」
「火蜥蜴、その灼熱の鱗か。なるほどの」
「流石だ、ジジィ。年食っただけはあったなぁ、おい!」
ナイフを構えた樋口の両手に無数の切れ目が入り、菱形に切り分けられていく。整然とした切れ目に沿って浮き上がった肌が赤黒く変色し、硬質の鱗へと変化する。
爪は急速に伸び、長く鋭い凶器となった。
樋口出流は人間の血が混じっていない純粋な妖だ。
火蜥蜴。常に肉体は高熱を宿し、自在に火を操る妖。正しく赤い蜥蜴のような外見をした妖でありながら、樋口は変化の妖術を用いて人間の姿を装っている。
赤刃と呼ばれる樋口の得物は自身の本来の肉体の特性を部分的に引き出し、凝縮したものであり、その柄から刃先に至るまで全てが樋口そのものだ。
部分的に本来の姿を解放すれば、鱗は頑強な鎧となり、爪は鋭利な矛と化す。
手以外は人の形を保っているが、その犬歯は獣のように長く鋭いものとなっていた。
「テメェら全員倒せなかったとしても、腕も一本や二本くらいは消し炭にしてやんよっ……!」
四肢で地を掴み、樋口が一息で牛木へと肉薄する。
驚異的反射神経と身体能力によって、揃えて振り下ろされたナイフを牛木の鋼鉄の拳が弾く。空中で身を翻した樋口が着地し、即座に後方へ飛び下がる。正確には下がったという事実だけしか認識できない。
素早すぎる動きに樋口の体は霞んでいる。強靱な脚力によって擂り鉢状に凹むコートを見て、そうだと分かるだけだ。
牛木の体も同様に霞む。テニスコートを囲うフェンスの一部が凹み、金属音が鳴り響く。
剛腕が唸り、拳が空を裂き、地面が窪む。
炎が逆巻いたかと思えば、二人はもうその場にはおらず、全く別の場所で拳とナイフが打ち合わされる。
人智を越えた戦い。文字通り目にも止まらない攻防。
地を走ったナイフの痕跡。一瞬の間を置いて、刻まれた線をなぞるように炎が吹き出す。
暴風がフェンスに叩きつけられ、そのまま金属製の網が引き千切られた。
菖蒲はくずおれた暁火を支えるようにしゃがみ込み、痛みに呻く体を抱き締め続ける。傷口から漏れ出た熱量に菖蒲の肌も焼けるが、そんなことは構わなかった。
「暁火嬢の容体はどうじゃ?」
激戦の隙間から零れ出た鱗の流れ弾を杖の一振りで弾き落とし、老人が問う。
「危険な状態です……。このままじゃ本当に……」
目の前でこれほど苦しんでいるというのに止める手立てがない。苦痛に顔を歪ませ、喘ぐような呼吸を繰り返し、悲痛な悲鳴を漏らす彼女を助けることができない。
樋口を倒さなければ、せめて意識を奪わない限り、止まることはない。
何か、手はないのか。
張を呼ぶべきか。彼でも、この場で治すことは難しいだろう。
菖蒲自身の力で鱗だけを無力化することも考えたが、暁火への負担が大きすぎる。菖蒲の力は強すぎるのだ。凍り付かせる目的以外での小手先が効かない。
何より目の前の翁が何一つ施さないことが実情を物語っていた。
また菖蒲たちは少女一人に苦しみの一切を背負わせている。
その時、必死に手を探す菖蒲の背筋がぞくりと震えた。悶える暁火の体から何かが立ち上っている。
白い煙以外に何かが混じっていた。陽炎、違う。もっと黒く、漠然とした何かが彼女の全身から湧き出て、景色を歪ませている。
「雨箒! 離れろっ!」
低く重々しい声が叫び、突如菖蒲の隣に現れた牛木が力任せに押しのける。
途端、冥い奔流が湧き出し、牛木の巨体が軽々と弾き飛ばされ、フェンスへ叩きつけられた。
強引に暁火から引き離された菖蒲は猫のようにしなやかに着地し、映り込んだ風景に目を瞠る。
想像を絶する痛みに藻掻き苦しんでいた暁火の背中から湧き出した深い闇の奔流が翼のように広がっていた。蹲る小さな体には不釣り合いなほどに巨大な翼はフェンスを越えるほどに長大なもの。
肌を刺すような感触。周囲を浮遊する黒い粒子。
「あれは……」
「妖気が溢れておるようじゃ」
いつの間にか傍に現れていた翁が答える。蹲っていた暁火は地面に手をつき、緩慢な動作で強引に起き上がろうとしていた。
「妖気って……あの子は人間ですよ!?」
「そのはずじゃ。儂もあの子から妖の力は感じてはおらんかった。あいつの血を受け継いでいるとは考えられんほどにあの子はただの人間じゃったはずだ」
しかし、現に彼女のからは尋常ではない妖気が溢れ出している。それも視認できるほどに強力な妖気だ。並大抵の妖では扱えないほどに上質であり、何より膨大なそれは人間から放たれるべきものではない。
立ち上がろうとした暁火の顔が歪む。
「ダメだわっ! 制御できていないっ!」
「分かっておるわい。そもそも暁火嬢は入出力器官などまともに機能させたことはあらんじゃろう。これはまずいかもしれんのう」
「このままじゃあの子の妖気があの子を殺してしまいます!」
力そのものに押さえつけられるように暁火は体を折り曲げ、それでも首を動かし何かを視界に捉える。
この事態に状況を把握できていない樋口がそこには立っていた。
暁火の黒曜の瞳に暗い紫苑の輝き。
翼のように思えた妖気の奔流が根元から折れ曲がり、まるで巨人の腕のように横薙ぎに振り抜かれる。深い闇色の粒子が舞い上がり、交差したナイフで受け止めた樋口の体がフェンスを突き破って隣のコート上を鞠玉のように撥ねた。
「クソッ! なんだありゃ!」
腕をぶらりと垂らし、前屈するような姿勢で立った暁火の体がゆらゆらと向きを変え、背中から噴出する奔流が起き上がった樋口へと振り下ろされる。
受け止めきるのは不可能と判断し、即座に横へ逃げた樋口を狙い、振り下ろされた妖気の腕から無数の触手が生え出す。飛来する尖端をナイフで弾き、さらに樋口は妖の姿を部分的に開放し、ジーンズを突き破って伸びた尻尾で触手を叩き落とした。
暁火の瞳は深い紫の輝きを放つ。妖気の腕がさらに振るわれるが、樋口はそれを飛び越え、一息で彼我の距離を翔破する。
「ふっざけんなよっ!」
突き出したナイフが暁火の胸の直前で止まる。
奔流から枝分かれした新たな妖気の腕がナイフを掴むようにして受け止めていた。もう一つの腕が樋口の体を振り払い、軽々しく吹き飛ぶ。
「ただの妖気の凝縮体であれだけの力があるなんて」
「妖だとしても異常じゃの」
翁が顎を撫でる。
驚嘆に値する力だった。あれほどの力を持つ者は妖でもそうはいない。
彼女はただ力の限り妖気をぶつけているだけにすぎないのだ。本来は何の処理も施されていない妖気など妖には通用しない。風に吹かれたようなものだ。
しかし、彼女から湧き出した妖気はその膨大さから質量を獲得していた。
妖気の腕の内側に樋口の残したナイフが沈み込んでいく。粘性のある液体のように腕の表面が緩く波打ち、ナイフが完全に取り込まれる。
満身創痍の樋口が立ち上がった。口に溜まった血液を唾と共に吐き出し、樋口の手に新たなナイフが生まれる。
再度斬りかかろうとした瞬間、樋口の足が止まる。暁火の背中から噴出する妖気が腕とはまた別に上空へ集まっていた。淀みなく流れる空の淀みは次第にその形を確かなものにしていく。
広げられた翼、鋭い嘴、頭部に嵌め込まれているのは紫水晶のような輝き。
鳥――妖気による猛禽が生み出されていた。
嘴の隙間から甲高い鳴き声が溢れる。羽撃いた翼からは冥い粒子が振り撒かれ、猛禽は翼を折り畳んで樋口へと急降下していく。嘴の隙間から何かが零れる。
橙色の揺らめき。打楽器が如く頻りに打ち合わされる嘴の隙間から覗くのは燃え盛る炎。
速度を一切緩めないままに猛禽の口から火球が放たれる。即座に後方へ飛び下がった樋口の足下で炎が弾けた。
その炎の有り様に、樋口は目を瞠る。橙色に染められた顔には驚愕が溢れていた。
「俺の……炎……だと?」
樋口の横合いを抜けた鳥は即座に体を翻し、目標へと最接近する。状況を把握できず静止した樋口は振り返りもしない。低空を飛行する猛禽が樋口の横を飛翔した瞬間、何かが空へ舞い上がった。
腕だ。
樋口の右腕が鋭利な翼に切り裂かれ、虚空を舞っていた。
悲鳴が上がる。右腕を掻っ攫われた樋口は我に返り、身構えた。
猛禽は先程同様に素早く旋回し、また樋口へと迫ってくる。左腕でナイフを構え、樋口は応戦の構えを取る。
嘴から炎が溢れる。樋口の炎が、彼そのものが火球となって、猛禽の嘴から飛び出した。
高速で迫る火球。樋口は対峙することを選んだ。
彼の体全体を赤い鱗が覆い、目は爬虫類特有の細長い瞳孔へと化す。
生え揃った歯が尖り、鋭利な牙へと変わる。
そしてまさに火球とぶつかり合うという瞬間、誰かが樋口の前に降り立った。
「あらよっとっ!」
巨大な包丁のような大剣が振り抜かれ、広い剣幅で叩くようにして火球を叩く。炎が砕けるように弾け、散り散りになった炎が飛散する。
振り抜いた大剣を肩に担ぎ、黒に見紛うほどに深い青の髪の青年が周囲を見回した。
「どういう状況だ、これは?」
突然現れた郁斗に唖然としていた菖蒲は頭を振って、驚きを振り払う。
「郁っ!? なんでここに!」
「追跡者に逃げられてな。駆けつけてみたらこの様だ。うちの総代に何があった?」
「分からぬ。力が暴走しているようじゃ」
菖蒲の代わりに翁が答える。
「へぇ、なるほどな」と呟き、郁斗は大剣をくるりと回して逆手に構えた。
暁火の背中から立ち上る腕のような妖気の塊、そして様子を窺うように頭上を旋回する猛禽。
まだ戦意は失っていないようだ。
俯いた暁火の体は傷だらけで、全身から力が抜けている。妖気だけが強引に暴れている様子だった。
「しばらく見ないうちに随分逞しくなったもんだ」
背中から伸びた腕が振り上げられる。
「郁! 逃げて!」
菖蒲の張り上げた悲痛な声を聞き流し、郁斗は暁火を見つめた。
状況は詳しく分からない。それでもあの状態が暁火にいい影響を与えるものとは思えなかった。
「よく分からんが、よく分からんなりに何とかするしかないだろ」
振り上げられた腕が根元を切られた大木のように傾ぐ。
次第に速度を上げて、郁斗目がけて倒れ込んでくる。
郁斗は逃げず、目を逸らさず、ゆっくりと深呼吸をした。
「目を覚ませッ! 埋野暁火ッ!」
全身から絞り出した声に撃たれたように暁火の肩がびくりと撥ねる。
郁斗の目前で振り下ろされかけた腕は静止していた。
「…………」
もう一度深呼吸。
静止した腕からはぎりぎりと軋みが聞こえる。無理に動こうとしているようだ。
何かが、この腕を押さえつけようとしている。
「上々だ」
歯を見せて不敵に笑い、サファイアの目をぎらぎらと輝かせた郁斗は走り出す。
一体何故暁火がこのような状態になったのかは分からない。
残った腕が郁斗を掴むように伸ばされる。走りながら地を蹴った郁斗は飛び込むようにして、その巨大な手の指と指の隙間をすり抜け、腕の上に着地して間を置かず駆けた。
走るには邪魔な大剣を消失させ、全力で暁火へと駆け抜ける。
原因が分からなくても解決の常套手段はある。きっと何とかなると郁斗は心の片隅で信じ込む。
信じて、飛ぶ。
暁火へと急降下しながら、郁斗は力の限り頭を引いた。
「目を覚ませってぇのっ!」
張り上げた声と共に郁斗は自身の頭を暁火の頭に、力の限り叩きつけた。
鈍く容赦のない音。
全員が息を呑んだ。あまりにも無茶苦茶な行動に、言葉を失っていた。
暁火の体が後ろへ傾ぐ。郁斗の脳も揺さぶられ、視界そのものが激しくかき混ぜられる。
背中から湧き上がっていた妖気が一瞬のうちに霧散し、上空を飛んでいた猛禽も弾け飛び、粒子の飴を降らせた。
飛び散った粒子さえも掻き消え、暁火の体はそのまま後方へ倒れ込む。一拍遅れて、頭を揺さぶられた郁斗の体が受け身の動作も取らずに落下し、コートを転がった。
頭突きをした額と打ち付けた肩の痛みに顔を顰めながらも郁斗は起き上がり、すぐさま暁火へと駆け寄る。
傷だらけで土に汚れ、服もボロボロになった酷い有様の少女が目を閉じ横たわっていた。その悲惨な姿に反し表情は穏やかで、微かに聞こえる寝息さえも静かだ。
場違いなほどに気持ちよさそうな息に郁斗は肩の力が抜けてしまう。
「こんな時でもあんたはあんたのまんまですね、ホント」
優しい笑みで郁斗は呟く。もう振り回されることには慣れてしまった。
郁斗がどれだけ思い悩んでも、暁火は何食わぬ能天気な顔でいる。
それは早くも郁斗にとっての日常となりつつあった。




