埋野暁火はここに立つ。
喫茶店を出た後、暁火は寄りたい場所があると言ってきた。
もう七時にもなり、これ以上夜が深まらないうちに屋敷へ戻りたいところだったが、郁斗も幾分振り回されることに慣れてきている。
大人しく従った方が却って早く帰れるだろうと考え、ついて行くことにした。
彼女の後を歩き、辿り着いたのは一軒の民家。二階建てのよくある普通の庭付き一戸建てだった。
「ここは?」
「アタシを育ててくれた叔母夫婦、義理の両親の家。ちょっと顔見たくなって、ですね」
チュッパチャップスを咥え、ポケットに手を突っ込んだ暁火は家を見上げて答えた。
郁斗は「埋野」と刻まれた表札を一瞥する。
リビングと思われる部分の窓のカーテンは閉められているが、中からは光が漏れていた。
「じゃあ、邪魔しない方がいいですかね」
「別にそんな込み入った話するわけでもないし、大丈夫ですよ」
暁火は笑っていうが、郁斗は気が引けた。
この数日間で暁火は様々なことを体験した。全く知らなかった世界の理に巻き込まれている。
そんな彼女が、自分の育った場所に訪れた理由はきっとあるはずだ。そこに巻き込んでしまった者が立ち入るのは不躾のように思えた。
「家族の時間を邪魔するのも気が引けますし。外で見張っておきます」
「外だと寒いじゃないですか」
「妖はこれくらいじゃ風邪ひきませんよ」
「アタシが気にします。さ、行きましょう」
いつもより強い口調で言い切り、暁火は歩き出す。
逆らわない方がいいのだろう。
暁火がインターフォンを鳴らすと、内側から足音が聞こえ、鍵が開けられる。
「あら、暁火。どうしたの?」
現れたのは四十代半ばほどの女性だった。彼女が暁火の義理の母親なのだろう。
突然の来訪は心底意外だったようだ。
「ちょっと近くに用事があってさ、寄ってみたんだ」
今まで体験したことなど微塵も感じさせない笑顔と気楽さで暁火は答える。
「お邪魔してもいいかな?」
上目遣いで窺うように問いかける暁火に、暁火の義母は肩を竦め、息を吐き出した。
「何言っているの。あんたの家でしょ、ここは。ベルなんて鳴らさずにただいまって入ってくればいいのよ」
義母の言葉に暁火は何も言わず、ただはにかむようにして頷いた。
郁斗から見れば、溢れ出る感情を抑え込もうとして、それでも滲み出てしまったような、らしからぬ笑い方だった。
今日は知らない暁火の表情をよく目にする。
暁火が家に入り、ドアの隙間から霊体化した郁斗も滑り込むようにして入っていく。
スパイスの香り。どうやら今日の夕飯はカレーのようだ。
「あんた夕飯は?」
先に廊下に上がった義母が暁火に訊ねる。
「あー、まだ食べてないけど」
どうやら先程食べていたたこ焼きは夕食の足しにもならなかったらしい。
本当によく食う女だ。郁斗は見ているだけで胃が重くなってくる。
「じゃあ、食べていきなさいよ」
「あるの?」
「あるわよ。あんたんとこに持っていくつもりだったし」
「あーでも」
暁火が答えに戸惑う。
恐らくは霊体化している自分のことを気にしているのだと、郁斗は気付く。
「いいですよ。食べていって。俺は後で何か適当に食べます」
元々暁火の食べっぷりを見て、しばらくは夕飯がいらない気分だった。その言葉を聞いた暁火はちらっと目だけで郁斗は見て、すぐに義母へと向き直る。
「じゃ、いっただきまーす」
できれば郁斗としても家族の団欒はしてほしかった。
これで暁火が元々いた日常に触れれば、少しでもその尊さを再認識すれば、少しでも考えが組長にならないという方向に傾くかもしれない。
「お父さーん、今日暁火夕飯食べていくわよー」
「なんだと!?」
リビングから素っ頓狂な男性の声。
椅子の倒れる音が続き、どたどたとリビングから誰かが前のめりになって飛び出してくる。
白髪交じりの頭髪にスーツを着た中年男性だった。中年にしては弛んでいない体つきと、四角い眼鏡をかけた顔立ちはどこか紳士的でさえある。
今は取り乱しているわけだが。
「暁火! 帰ってきたのか!」
「いやぁ、ていうか寄っただけっていうか」
苦笑いする暁火に駆け寄り、義父はその小さな手を取った。
「いやぁ、暁火大きくなったな! しばらく見ないうちに!」
「一週間前に会ったばっかでしょー! もー、叔父さんったらぁ!」
噛み合わない会話をしているのに二人とも楽しそうに笑っている。
義父は暁火に会えたことが嬉しくてたまらないんだろう。皺を深めるようにした笑顔は本当に嬉しそうだった。
「せっかくだ! 夕飯食べていきなさい!」
「だから食べていくって言ってるでしょ!」
先にリビングへ戻った義母から手厳しい指摘が飛んでくる。
なんというか、ホームドラマのワンシーンのようだと郁斗は思った。
よい家族なんだろう。血の繋がった本当の家族というものを知らない郁斗でもそう感じた。
実の両親ではないとしても、彼らは間違いなく暁火にとって両親であるということは、その横顔が物語っている。
屈託なく、穏やかで、挑戦的でも不敵でもなく、ただただ日常的で、しかし日常の只中にあっても多くの者ができない、満面の笑顔。幸せであるのだろう、と見る者全てが分かる表情。
郁斗は羨ましかった。
そして、そんな場所で育った彼女を怪異の世界に巻き込んでしまったことが、たまらなく申し訳なかった。
埋野家の団欒は賑やかだった。
久々に三人が揃ったこともあってか会話は弾み、三人とも笑い合っていた。
今日が特別であるわけでなく、きっと暁火がこの家に住んでいた頃もこんな食卓だったのだろう。
「そういえば暁火、今日はどうするの?」
「どうするって?」
ふと投げかけられた義母の問いに、豆腐と大根の味噌汁を啜っていた暁火は問い返す。
「もうこんな時間だし、泊まっていったらどう? 一応パジャマはあるわよ?」
「いいの?」
「いいも何も、あんたの家でしょが」
「あはは、それもそうだ」
「おお! そうだ! 泊まっていくといい!」
義母の提案に義父も乗っかる。
恐らく泊まっていくことを一番に望んでいるのは義父なのだろう。
暁火の後ろで壁に寄りかかり腕を組んでいた郁斗は少し考える。事情を説明すれば菖蒲も分かってはくれるだろう。この時間帯に外へ出ることの方が危険とも言える。
何より、暁火のこの時間を邪魔したくはなかった。
「いいですよ。菖蒲には俺から説得しておきますので」
声をかけると暁火は一度、郁斗を顧みた。
毎度のことながら、見えていないはずなのにしっかり、こちらの目を見てくる。
「じゃあ、泊まっていこうかなぁ」
「そうするといい! お風呂は沸いてるからな!」
義父は笑顔で顔の皺がさらに深くしている。
暁火に注いでもらった酒を飲み、顔も赤らんでいた。よほど上機嫌なのだろう。
父親というよりも孫を歓迎する祖父のようだった。
鼾が鳴り響く。
義父は居間の三人がけのソファにもたれかかり、大口を開けて爆睡していた。
一人用のソファに座った暁火は気持ちよさそうに眠る義父の顔を眺める。
「こりゃまた爆睡ですね」
義母は洗い物をしているので、声は聞こえないだろうと郁斗が口を開くと、暁火は困ったように笑う。
「随分飲みましたからねぇ」
「娘が帰ってきて相当嬉しかったんじゃないですか?」
「それなら娘冥利に尽きますけどね。じゃ、もう少し親孝行してきます」
答えた暁火は立ち上がり、キッチンへと足早に向かっていく。
「叔母さん、洗い物やるよ」
洗い物をしていた義母に声をかけると、呆れ混じりに笑い、視線をすぐに食器へと戻した。
「そんないいわよ。ゆっくりしてな。久々に来たんだから」
「いいのいいの。アタシの家なんだから家事だってするよ」
「上手いこと言うわね、あんたは。じゃ、お願いしようかね」
苦笑した義母はスポンジを暁火に手渡し、自分の手についた泡を洗い流す。義母と場所を変わった暁火は嬉々とした顔で洗い物を片付けていく。
「お父さんは?」
「寝ちゃった。随分飲んだみたいで」
「あの人、暁火に入れてもらうと飲み過ぎるからねぇ」
義母は声を上げて笑い、居間で眠る義父の様子を見る。
大きな鼾をかく義父の寝顔は穏やかで、実に心地が良さそうだ。
「お父さん、きっと暁火が帰ってきてくれて嬉しかったのね」
「そうなのかな?」
「そうよ。今でもきっと暁火に戻ってきてほしいんじゃないかしら」
何気ない一言に暁火は言葉を詰まらせる。
食器と食器の触れ合う音、水の弾ける音、スポンジが食器の表面を磨く音がしばしの沈黙を満たした。
「……アタシ、親不孝者なのかな。ここまで育ててくれたのに、突然一人暮らしするって出て行って」
絞り出した声は弱々しかった。
震えるのを抑え込んだことをきっと義母は気付いただろう。
滅多に口にすることのない、そもそも思うことすらない、暁火の弱音だった。
振り返った義母の顔に驚きはなく、怒りも哀しみもなかった。ただ少しの間を置いて、ため息と共に表情を和らげた。
「何言っているのよ、あんたらしくもない。考えなしに決めたわけでもないし、別にこの家が嫌になったから出て行ったってわけでもないんでしょう?」
「そ、それは当然!」
顔を上げて、暁火は力強く否定する。
「じゃあ、いいじゃない。あんたが、そうしたいって思って選んだなら、きっと大丈夫よ」
「大丈夫なのかな。アタシの選択間違ってなかったのかってたまに思うんだよね。叔父さんはここにいていいって言ってくれたのに、それも押し切っちゃったし」
「正しいかどうかなんて知らないわよ、そんなの」
暁火の弱音を義母は一言で斬り捨てる。食器を洗う暁火の手が止まり、義母を見つめた。
珍しい、助けを乞う子供のような目だ。
「世の中ね、この先を決める選択に正解も不正解もないのよ、きっと。当然よね、自分の人生だもの。あとは自分のやり方と捉え方次第じゃないかしら」
「じゃあ、叔母さんは、アタシが一人暮らししたいって言った時に賛成してくれたのは、正しいと思ったからってわけじゃなかったの?」
「正しいかどうかっていうよりも、あんたが選んだことだから、大丈夫だろって思ったのよね、正直」
はっはっはと義母は声を上げて豪快に笑う。
「正しい選択ってのはこの世にほとんどなくて、きっと選んだ時は正解も不正解もないんだと私は思ってる。小夜子見てたら、そう思わざるを得なかったっていうかね」
「お母さんを?」
「そ。小夜子はさ、いつだって即断即決で自分がいいって思った方に突っ走って、結局それで上手いことやってたんだよ。例え選んだ端から問題が出てきても、何とかしちゃって、結局最後は上手いこと行ってばっかり」
義母は苦笑交じりに肩を竦める。
きっと暁火の実母である小夜子の破天荒な行動を思い出しているのだろう。
埋野小夜子という女性は破天荒だった。型に嵌まらず、他人に媚びることもしない女性で、いつも春風のように颯爽としていた。
年を経て、様々な事柄を知るほどに、記憶に焼き付いた母の強かさを暁火は再認識している。
「きっと、選択に大事なのはさ、正しいことを選ぶことじゃなくて、選んだ選択肢を切り拓いていく力だと思うんだよ」
義母の言葉をきっかけに何かへ思い至ったのか、暁火の目が力強さを取り戻していく。
「選んだものを正解にできる力をあんたはもう身につけてるはずだよ。だから、私はあんたが一人暮らしをするって言った時もきっと大丈夫だろうって思ったから賛成したんだ。あんたは小夜子の娘なんだから、自信持ちな。きっとあんたならいい方向に転がっていくよ」
「そうなのかな、あんまり自覚ないんだけど」
「あんたはそうかもしれないけど、私はあんた見てると小夜子を思い出すよ。だって、あんた何があっても物事をいい方向に捉えて、挫けないでいるんだから。ふて腐れるわけでも、後ろ向きになるわけでもない。だからあんたはいい方向に行く兆しを見失わないし、見落とすようなこともない。常に前を見続けられるのは、間違いなくあんたのすごいところだよ」
「なの、かな」
曖昧な呟きに反して、暁火の笑みは力強い。
いつも通りの不敵でさえある表情に戻っていた。
最早、その瞳に迷いはなかった。
風呂から上がりパジャマに着替えた暁火は体に湯気を立てながら、二階の自室へと入る。電気をつけると、服の詰まった洋服タンスに買い溜めた本の詰まった本棚、古びた勉強机の置かれた四畳半の部屋が露わになる。
家を出た時から変わっていない。まるで時が止まっているかのように、整えられていた。
「叔母さん、ずっと掃除してくれてたのかな」
ぽつりと呟く。
その瞬間、部屋の中心で郁斗と三郎が顕現した。
「ふぅ、流石にこんだけ霊体化していると疲れるな」
息を吐き出し、郁斗は肩を回す。
「もともと霊的な存在なのに疲れるんですか?」
「俺はあまり霊体に馴染みがないものでしてね。意識的にやらないといけないんで、どうにも体が強ばって、あっちこっち凝るんですよ」
「そういうものなんですね」
三郎は三郎でベッドの上で伸びをしている。
屋敷で出会った時のことを考えると、あまり霊体化するのが好きではないのかもしれない。
暁火は首にかけたタオルで髪の毛先の水気を拭う。
「二人ともお腹空いてますよね?」
「まあ、それなりには」
郁斗に続いて、三郎もむーと鳴き声を上げる。恐らく肯定だろう。
暁火は一階の様子のことを考える。義母はまだ眠っていないだろう。
「もう少ししたら、何か作りますんで、それまで待ってもらって大丈夫ですか」
「それはもちろん構いませんよ。なんだか手間をかけてしまい申し訳ありませんね」
「いんですよ。振り回してるのはアタシの方ですし」
暁火の一言に郁斗は目を瞠る。
「振り回してる自覚あったんですね?」
「ないと思ってたんですか?」
「あ、いえ、失礼しました」
暁火に睨まれ、郁斗は諸手を挙げて謝る。
何となく彼女に睨まれると逆らってはいけない気がするのだ。
妖が女子高生に屈服したなど他の妖に笑われかねないが、郁斗の本能が危機を察知したのだからしょうがない。
「ま、アタシがとやかく言えることじゃないんですけどね」
肩を竦め、郁斗から視線を切った暁火は部屋の端に置かれた、背の低い本棚の前でしゃがみ込んだ。
「なんていうか、物の少ない部屋ですね。全部アパートに持っていったんですか?」
「あそこは狭い場所なんで、ほとんどここに置きっ放しですよ?」
当然のように答えられ、郁斗は今一度部屋を見渡す。
洋服タンスは背が低くそこまで服が入っているとは思えない。机の上に置かれているものもない。唯一本棚に詰まった本の数だけは多かった。
押入の中を見れば、まだ他に何か詰まっているのかもしれないが、見えている範囲だけで言えばあまりにも少ない。
元々持ち物の数は少ないとは思っていたが、まさかここまでだとは思っていなかった。
何か理由があるのではないかと頭を悩ませ、切なくなっている郁斗のことなど気付かず、暁火は本棚に伸ばした手を止めて、眉を八の字に曲げていた。
郁斗が先程口にした少女漫画、その目当ての本が本棚にない。二巻と三巻はあるというのに、一巻だけが抜け落ちていた。
「……んー?」
どこに行ってしまったのか。
思い出そうとしても、その消えた一巻そのもののように暁火の記憶は抜け落ちていた。
いつ、どこで、どうしてしまったのか、何も思い出せない。




