前でも後ろでも歩き出せ。
ホームルームが終わり、学業より解放された生徒達で賑わう教室。
部活に急ぐ者もいれば、教室に残って級友と話し込む者もいる。今日は金曜日ということもあって、生徒たちも浮かれているようだ。
居並ぶ机よりもさらに後ろ、掃除用具の詰まったロッカーに背中を預けた郁斗は息を吐き出す。何事もなく放課後を迎え、深く安堵する。これから帰るまでの護衛も気は抜けないが、この閉鎖された空間からは早く抜け出したかった。
霊体のまま暁火に向かおうとした郁斗より先に、帰り支度を整える暁火に誰かが駆け寄る。
「よーっす、暁火ぃ!」
後ろから暁火の両肩に手を置き顔を寄せたのはポニーテールの背が高い女性。
暁火の友人の一人――名前は確か果穂。
「いきなりテンション高いなぁ」
むすっとした顔で暁火が果穂を顧みる。屋敷にいた時には見なかった表情。友人の前であることを鑑みると、こちらの方が素なのだろう。
「ねぇねぇ! 明日来れるんだよね?」
「明日? あー、交流試合のこと?」
「そうそう! 見たいでしょ? 私が華麗に勝つところをさ!」
「勝つ前提かよ」
快活に迫る果穂に、暁火は呆れきった表情をしていたが、すぐに穏やかな笑みとなる。
「まあ、うん。行くよ。だからさっさと部活行きなって。朝練出なかった分、しっかり練習しておいでよ」
「もっちろーん! とりあえずそれだけ確認したくてさ! じゃ、頑張ってくるよー!」
心地よい送り出しの言葉をもらった果穂の顔に大輪の花が咲く。
風に揺れる花片のように身を翻し、彼女は元気な声だけを残して走り去っていく。
そよ風というよりも台風のようだった。
それよりも別の事柄に郁斗はうんざりする。
明日の試合を見に行くと暁火は答えた。つまり護衛は必要だろう。また一つ仕事が増えたわけだ。
「ホント……調子狂うわ」
暁火と行動を共にしてからというものの、振り回されてばかりだ。
「試合見に行くんですか?」
暗い群青の空。夜の手前。山の稜線に微かに夕暮れの名残だけがある帰り道。
郁斗は人気がなくなった頃合いを見て、暁火に問いかけた。
前を行く暁火は途中で買ったパック詰めのたこ焼きを食べている。風に流れてやってくる鰹節とソースの香りが郁斗の空腹を煽った。
口に含んでいた熱々のたこ焼きをよく噛んでから飲み込み、暁火は視線だけを郁斗に向ける。
「行きますよ、そりゃ。前から約束してましたし」
「俺は反対ですよ。危険です」
「どこにいたって危険ですよ、きっと。どこにいたって同じくらい安全で、同じくらい危険は付きまといます」
「屋敷にいれば安全です。例え襲撃があっても対応することができる」
郁斗の説得に言葉に暁火が立ち止まる。振り返った暁火の目は鋭い。
「それはいつまでですか?」
「それは……」
答えられない。郁斗は答えられない。
暁火がもし、組長の座を継がないと決めたとして、この状態はいつ終わるのか。
彼女が組長にならないことを少しでも選びやすくするために、郁斗たちは日常へ戻る手助けをすると約束した。だが、暁火が組長にならなかった場合、夜行組には飯綱会へ対抗する術がない。
また組長になる意志が彼女にはないと飯綱会に伝えたところで、彼らが納得するという保証はない。これまでの行動を見れば、念には念を入れ、暁火を殺しにかかってもおかしくはないのだ。
結局、この一件が何らかの形で収束するまで、暁火は護衛をつけて窮屈に暮らさなければならない。
不甲斐なさに、申し訳なさに、郁斗の顔が歪む。そんな彼を見て、暁火の鋭利な眼光が和らぐ。
「別に責めてるわけじゃないんです。ただ、やっぱりこう、あんな連中の勝手にこっちが合わせるなんておかしいじゃないですか」
まただ。
また、暁火の笑みに不敵な色が宿っている。
力強い輝きを放つ黒曜の瞳。何にも揺るがすことのできない強い決意を感じる。
引き結ぶようにして口角の上がった口元。先代の笑みを思い出さずにはいられない。
いつ如何なる時でも暁火は笑っている。こんな世界に突然放り込まれても、変わらず笑っている。
一度も立ち止まることなく、常に行動し続けている。
郁斗は悟った。
この人はきっと行く先に一点の光明さえなくても、自らが決めた道を進み続けるのだろう。
誰に何を言われたから、と理由を他人に探すことなく、自分がそうだと思った道を突き進み続けるはずだ。
「埋野さん、貴女はどうするつもりなんですか?」
「まだ自分が何をすべきなのかは分かりません。ただ、それが見えてくるように行動しようと考えてみたんですよ、アタシなりに、ね」
暁火は悪戯っぽくウィンクをしてみせた。
畠山浩輔が営む喫茶店には、いつだって人気がない。
住宅地という立地上、昼下がりには訪れる者もいるが、それ以外の時間帯は大抵寂れている。
畠山はそういった時間、カウンターへ持ってきた椅子に腰掛け、自分の淹れた珈琲を味わいながら本を読んでいる。
今夜もまた、それは変わらない。
時間は午後六時。閉店の九時まで、客が来ることはほとんどない時間帯、来店を告げるベルが鳴った。
顔を上げるとそこには二人の男女。
小さな影と大きな影が並んで入ってくる。
顔を上げた畠山は、読書のためにかけていた眼鏡の位置を正し、眉を上げた。
「おやおや、こんな時間帯に珍しいお客さんだ」
やってきたのは郁斗と暁火だった。
中性的な顔に笑みを宿し、畠山は眼鏡を外し、本を閉じて立ち上がる。
「今夜はどうしたんだい? ディナーかい?」
「いえ、マスターオススメのハヤシライスはまたの機会に頂きます。今晩は珈琲を」
「今さっき、いつもよりも美味しい珈琲が入ったところだよ。アケビちゃんは運がいい」
カップを取り出した畠山は、カウンターに腰掛けた二人を一瞥する。暁火の膝の上には物の怪と思われる、角の生えた赤い小動物。円くなって寛ぎ、随分と懐いている様子だ。
珍しく郁斗が静かだ。どこか思い詰めたような顔もしている。
「どうしたんだい、唐変木。お前も飲むか?」
「へぇ、ここのマスターは植木の水やりに珈琲を使うのかい。頭から熱湯被って死ね」
「熱湯かけられたくらいで死ぬように出来てないのは僕もお前も同じだろ」
嫌味に嫌味を反し、畠山は珈琲を手慣れた手つきで準備していく。
陶磁器が触れ合う澄んだ音は心地よく、BGMとして流されているジャズにもよく馴染んだ。
二人の会話を聞いていた暁火はくすりと笑って、隣の郁斗に視線を向ける。
「相変わらずアタシ以外と話す時はホントぶっきらぼうですね、葉月さん」
「埋野さんだってお友達と話してる時は結構言うこと言ってましたがね」
あまり指摘されたくない部分を指摘され、郁斗は渋い顔で言葉を投げ返す。
今更、気安い口調で話すのも気後れした。その上、普段の口調で話そうものなら、クセになりつつある嫌味を暁火にも向けてしまいそうだ。
「アケビちゃんと、そのがさつ野郎の距離が縮まっていないのは、僕としては好ましいけど、流石にお前の敬語を聞くのもうんざりしてきたな」
「うんざりってなんだよ、うんざりって」
「似合ってないってこと」
言いながら畠山は二つのカップを差し出す。訝しむように目を向ける郁斗に畠山は両手を広げてみせる。
「それはおまけ。うちの店じゃ辛気くさい顔は御法度なんでね」
「そいつぁどうも」
素っ気なくお礼を言った郁斗は、カウンター上の珈琲の一つを暁火に渡し、もう一つを自身の手前に置く。
「なんか共通の話題とかあったら打ち解けるだろう? ないのかい? なんかさ」
「なんでお前にそんな口出しを」
「ま、そんなら僕が勝手に仲良くするわけだけどさ。アケビちゃん、明日予定ないんならさ、僕とどっか出かけない?」
「だからなんでそうなんだよ」
「あ、明日は友達の剣道の試合見に行くんで」
「埋野さんもまともに取り合わないでくださいよ」
それぞれのペースで進んでいく話に、気が滅入ってくる。
畠山はいつも通りであるが、暁火はこの場所に馴染みすぎだ。
彼女の適応能力は目を瞠るものがあり、正直郁斗よりも馴染んでいるとさえ思える。
「まあ、でも実際さ。共通の趣味とかあったら、もう少し打ち解けると思うんだよ。アケビちゃん、ゲームとかやる?」
郁斗の反論を丸っきり無視して、畠山は両手で包み込むようにして珈琲のカップに触れていた暁火に話題を振ると、彼女は驚いたように顔を上げた。
「ゲームは最近丸っきりやってないですねー」
「じゃあ、好きな曲とか歌手とかは」
「最近のは全然、なんですよね」
申し訳なさそうに暁火は苦笑する。
暁火がCDを一枚しか持っていないことは郁斗もこの前知った。
しかもそれは随分と昔のベスト盤だ。それ以外の曲を暁火は普段聴かない上に、テレビもあまり見るタイプではないようで最近のアーティストのことは全く知らない。
「ていうか、音楽は郁斗も郁斗でアニソンとかしか聴かないから、話題合わないよなぁ」
「おい、人の趣味を勝手にバラすんじゃねぇよ」
「あ、そうだ。漫画とかは? お前、少女漫画もちょっと読むだろう?」
「あー、昔は読んでましたけど、最近は読んでないんですよね」
再びの空振り。もしかすると共通の話題はそもそもないのでは、と思えてさえくる。
「でも葉月さん、少女漫画も読むんですね。なんだか意外です」
「読むには読んでいましたが一作だけですよ。それ以外は丸っきりですし、それももう完結してしまいましたので」
「なんて作品ですか? アタシ知ってるかも、ですよ」
問いかけられて、郁斗は眉根を寄せる。
何かを躊躇うように黙り込み、言葉を探すように頬をかき、やむを得なく口を開く。
彼が言った作品名に、暁火は手を打ち合わせる。
「知ってますよ、それ! 昔読んでました! え、ていうかもう終わったんですか!」
「とっくの昔に完結しましたよ。四、五年も前の作品ですからね、一応言っておきますけど」
「あー、そんな前だったかー。そういえばそれくらいの時に読んでたかも。懐かしいなぁ」
暁火自身、当時は様々なことがあり、すっかり忘れていた作品だ。思い出せば懐かしく、また気に入っていたことを思い出す。
しみじみと語る暁火に対して、郁斗はどこか躊躇いがちに曖昧な笑みを浮かべていた。
「アケビちゃん、こいつ結構漫画は持ってるから、読ませてもらうといいよ。屋敷にいても退屈でしょ?」
「いやぁ、みんなよくしてくれるし結構楽しんでますけど、でもそうですね。葉月さんさえよかったら、是非とも読ませてほしいですね」
「大抵、男性向けなんだけどな」
畠山が少しでも仲良くなるきっかけを、と思って提案しているというのに、頬杖をかいた郁斗の返答はあまりいいものではない。
カウンターを挟んでいなかったら脛に蹴りでも入れているところだった。
「青年向けならいいだろう? 成年向けじゃないならさ」
「なっ! テメッ!」
郁斗は椅子を蹴立てて立ち上がるが、暁火の頭には疑問符が浮いていた。畠山の冗句の意味が伝わっていないのだろう。ここで怒っても、暁火が却って妙に思い追求されることになるかもしれない。
不承不承ながら郁斗は椅子に腰を落とし、仏頂面で腕を組んだ。
「そういえば、ずっと気になっていたんですけど、お客さんいませんね」
暁火は店内を見回し、呟く。思い出せば、初めて来たときも客の姿がなかった。
「ん? ああ。この店はいつもこんなもんだよ。ま、娯楽みたいなもんだからさ」
「それなのに、あんなに上納金払って、大丈夫なんですか?」
分厚い封筒には相当の額が入っていたはずだ。
メニュー表を見る限り価格も高くはない。客足も少ない以上、あれだけの額を払える収入があるようには見えなかった。
「ああ、そのこと。それは大丈夫だよ。僕のこれは副業だから。本職で儲けた分で払ってるし、それに上納金は基本、収入の二割って決まってるからさ」
「え! じゃあ、それだけ儲けてるってことですか!」
「そりゃもううはうはだよ」
畠山は親指と小指で輪を作り、にやりと笑う。中性的な顔に似合わない現実的すぎる言動だ。
「こいつの本職は情報屋なんですよ。各方面に顔が利くし、妖の世界の情勢にも詳しい。花代とかじゃ集められないきわどい情報も集めてくれます」
「金さえ積んでくれれば、魑魅魍魎の痴話喧嘩事情ぐらいまでは、お調べいたしますよ」
「へぇ、なんだか格好いいですね。情報屋って」
目をきらきらと輝かせ、暁火は珈琲に口をつける。
「金に目がなさすぎて、どこにでも情報を売っ払う奴だけどな」
「相変わらず酷いなぁ。いいだろう? 情報は確かなんだから」
先日と同様、二人は嫌味を投げ合っている。
言いたいことを言い合える関係。暁火にとっての果穂や静江のような存在なのだろう。
暁火は二人のやり取りをじっと眺め、また珈琲を啜る。
深い香りと暖かい味わいが体に染み入っていく。
「ん、美味しい」




