百鬼夜行
真夜中に窓の外を見る者など、そうはいない。だからこそ彼らはすぐ傍にある怪異に気付けはしなかった。
草木も眠る丑三つ時。
建ち並ぶ家々の明かりもまばらとなった時間帯。明日も平日であるため、多くの者がすでに眠り、夜更かし好きの若者や持ち帰った仕事を処理する会社員たちだけが細々と机に齧り付いている住宅地。
誰も彼も深い闇に閉ざされた窓の外など見ようとは思わない。
音もなく、光もなく、我が物顔で威風堂々と夜を掻き分け進む存在があるなど夢にも思わず、趣味或いは仕事と向かい合っている。
同じ世界の違う時間で生きる者たちの意識の外側で彼らは凱旋のように進んでいく。
ほんの少し視点を変えれば容易く見える非日常に誰もが気付けない。
アスファルトを踏みしめる数え切れないほどの足。闇に紛れる無数の影が列を成して並び、住宅街の道を埋め尽くしていた。
野良猫たちが道を譲り渡すように逃げ去り、虫の羽音さえもが鎮まる。
万物が息を潜めて、一糸乱れずゆっくりと進む彼らを見つめていた。畏怖と畏敬に頭を垂れているようでさえあった。
遙か上空、頭上では烏や蝙蝠の類が円を描くようにして飛んでいる。
静寂を身に纏い、しかしこの世で最も恐ろしき行列は住宅地を確かな足取りで進んでいく。
煙草の煙に白んだ所内では大の男たちが顔を深刻な顔を突き合わせていた。
応接用の椅子に座った男たちは腕を組み、唸りを上げて考え込んでいる。二つのソファの挟まれたテーブルに置かれた硝子の灰皿には溢れんばかりの煙草。
事務所の最奥に飾られた、『下克上』と達筆で書かれた額を背に座っているのは、黒い髪を後ろに撫で付けた年若い男性。飴色の豪奢な机に頬杖をつき、苛立ったように机を指で叩いている。
テーブルを囲んでいた男は顔を見合わせ、誰もが居心地悪そうに視線を彷徨わせた。
男達の一人が戸惑いながらも、机についた男に向き直る。
「兄貴……一体どうします……?」
その逞しく大きな体と悪相には不釣り合いな弱々しく、躊躇するような問いに兄貴と呼ばれた男は目を見開く。
「どうします、じゃねぇだろうがっ! テメェで考える頭もねぇわけじゃねぇだろうなっ! 今すぐそのドタマかち割んぞっ!」
椅子を蹴立てて立ち上がった男の怒声が、机を叩く打音と共に四人の男の耳に突き刺さる。
男は怒りに紅潮した顔を震わし、血走った目で四人を睨み付ける。
「誰の不始末でこうなったと思ってんだっ! 今すぐあの死に損ないどもをぶっ潰す方法を考えろやっ!」
男が怒声を上げる度にびくりと男達の肩が跳ねる。
鍛え上げられた肉体と厳つい顔を持つ男が揃いも揃って目を固く閉じ、体を小さくしている様は最早情けないを通り越して滑稽でさえある。
兄貴と呼ばれた男は机の引き出しから取り出した葉巻の尻を噛み千切り、乱暴な手つきで火をつけた。たっぷりと吸い込んだ煙を吐き出し、それでも心は落ち着かず、机の端から端へ何度も行き来している。
「誰もあいつら全員始末しろなんて言ってねぇんだ! ただの妖ですらねぇメスガキ一匹殺すって簡単なことがなんでできねぇんだテメェらはっ! 俺はなんか難しいこと言ったか!? テメェらはなんだ俺を破滅させたかったってのか! よかったなぁ! 思惑通りになりそうじゃねぇか!」
男が怒鳴り声を上げ、興奮のあまり肩で息をする。苛立ちと焦燥で精神は疲弊し、余裕もなくなっていた。
途端に廊下へ通じる扉が力任せに押し開けられ、冷風が吹き込んだ。冷気を孕んだ風が室内に押し寄せ、行き場をなくした風が渦を巻き、机に積まれた書類を、煙草の吸い殻を、灰皿を巻き上げて、暴れ回る。
窓硝子は氷結し、机の端の部分は急激に冷えて白んでいく。
乱れる風の甲高い悲鳴めいた音が全員の耳朶を叩いた。
「なんだってんだっ!」
男が叫ぶ。
非常事態に机を囲んでいた屈強な男達も即座に立ち上がり身構える。寒風吹き込み扉から鈴を鳴らすような澄んだ音が響く。途端にぴたりと風が止み、下駄がリノリウムの床で軽快な音を立てた。
「あら、たった四人しかいないじゃないの」
這入ってきたのは一人の年若い女性。白い着物に、それとは不釣り合いな紅い髪を結い上げ簪で纏めた女だった。整いすぎた目鼻立ちに白皙の肌、雪で形作ったような冷然とした美しさを孕んだ、稀に見る麗人だった。
着物の生地を千切れんばかりに押し上げる胸の下で腕を組み、切れ長の瞳が所内を見渡す。零れてしまいそうな胸と隙間から覗く谷間はそれだけで十分に扇情的だ。
「雪女……テメェ、夜行組のっ!」
兄貴と呼ばれていた男の手に炎が宿る。
「あら失礼、小物すぎて気付けなかったわ」
女の紅い瞳が一瞬の仄かな光と共に男へと流れた。
途端、男の手に刺すような、焼けるような感触。妖術を宿した手が凍り付いていた。
苦悶の声。じわじわと肌を焼かれるような、先端からそぎ落とされるような感覚に耐えきれず、机に突っ伏して藻掻き苦しむ。
「あまり暴れない方がいいわよ。大事な右手が砕けてなくなってもいいのなら止めやしないけど」
「テメェよくも兄貴をっ!」
部下達の手に光が宿る。無数の鬼火が白い着物の女へと殺到していく。
しかし妖艶に微笑んだ彼女の顔を、背後からぬっと飛び出た木の幹のように太い何かが遮った。
青、赤、緑、色とりどりの炎を受けたそれはしかし表面が煤けるだけで炎を全て弾き返した。
「あら、紳士なのね」
「そんな柄ではない」
女性の声に答えたのは野太く、腹の底に響く男の声。女性が扉の前から退き、ゆっくりと入り口をくぐって出てきたのは七尺に届かんばかりの巨体。木の幹のように思えた浅黒いそれは鍛え抜かれた腕だった。
現れたのは黒い作務衣を着た白髪交じりの大男。巌のような顔の掘りは深く、肉に剃刀で刻んだ裂け目のような双眸の眼光は鋭利。顔全体に無数の傷跡が走り、一際深い傷が左の頬に刻まれている。
鍛錬に余念がないはずの屈強な男衆四人でさえ赤子同然に思えてしまうような、身の丈をさらに上回る威圧感を放っていた。
「クソ! どうなってやがるっ! 外の連中は何やってんだ!」
「全員片付けさせてもらった」
机に突っ伏して凍り付けの腕を押さえる男の叫びに、大男が簡潔な答えを返す。
「何しに来たのか、まで聞かないでよ? 分からないわけないんだから。ねぇ、会長さん?」
「何だってんだっ! テメェらは今動く権利がねぇはずだろうがっ! ルール違反じゃねぇのか!」
物わかりの遅い男に着物の女は喘ぐようなため息を吐き、天井を仰ぐ。
「莫迦げたことしでかすわけね。これだから頭は悪いのにプライドばっかり高い男って嫌いだわ」
次いで扉の奥からさらなる足音。
男たちが皆萎縮する。雪女に大男、今度は一体何が来るのか、考えただけで背筋が凍り付いた。
扉の前に並び立った美女と野獣が両脇に退いて道を開ける。
踏み込んできたのは黒いペニーローファー。子鹿のような脚には黒いストッキング。両の脚が敷居を越え、その者は部屋へと堂々参上した。
赤地のチェックのスカートに白いブラウスと黒いカーディガンを纏った、あまりにもか細く五尺ほどしかない躰。
薄い撫で肩に引っかけられた黒い羽織には家紋が染め抜かれ、裾は床の上を滑っていた。
セミロングの髪は右側だけがピンで留められ、露わになっている小さな耳にはシルバーイヤリングが揺れる。
まだあどけなさの残る顔立ち、学生服に羽織を纏った少女の黒い目はしかし悠然と所内を見渡し、口元にはどこか大胆不敵な笑みがあった。
少女に敬意を払うように左右の美女と野獣が膝をつき、頭を垂れている。
彼女の右斜め後ろには黒い袴姿の男が一人。大男には劣るものの上背がある反面、体の線は細く、どこか貧弱そうでもある。
目にかかる青い前髪に翳る目は剣呑な蒼炎の輝きを宿していた。それは威圧や威嚇の類ではなく純粋な殺意。炯々とギラつく、あまりにも刺々しい鋭角の眼光だった。
場違いにも思える女子学生の登場に、髪を後ろに撫で付けた男は唖然とし、やがて怒りに顔が歪み、唇がわなわなと震え出す。
「なんでテメェがここにいやがんだ! メスガキッ!」
「口の利き方に気を付けなさいな」
立ち上がった着物姿の女が男を睨む。男の周囲の空気が急激に冷え、漂い出した冷気が頬を撫でた。
「いいよ、菖蒲さん。ここは私がやるから」
雪女を手で制し、女学生が一歩前に出て、男と向かい合う。
男の部下達も身構えるが、少女の背後に控える線が細い男の眼光に射竦められ、一瞬にしてなけなしの戦意さえもが喪失する。
誰もが理解させられた。この場所にいる誰よりも、あの貧弱そうな男が一番危険だと。
「どうも初めまして。飯綱会の会長、塔ヶ岳升臣さん。尤も貴方は私のことをよくご存知のようですが」
「カタギのメスガキが俺に何の用だってんだ!」
男は怒鳴る。片手を凍り付けにされてなお、威圧感のある怒声だ。
しかし、少女は一切動じた様子もなく、挑戦的に笑っている。
「お宅の連中には随分と世話になりましたもので、その落とし前つけて頂きたく馳せ参じました」
「落とし前!? ハッ! 随分と生意気に話すじゃねぇか!」
捲し立てるように男が声を張り上げる。
その最中に少女は背後に控える男に手を伸ばしていた。青年は袂から取り出した何かを少女の手に預ける。
「いいかっ! そもそもテメェがここにくる資格はねぇんだっ! 何よりテメェらはもう組として動けねぇ! こんなことしてどうなるか分かってんだろうな!」
渡された木製の棒のようなものを口に銜えた少女は垂らしていた羽織の紐を慣れない手つきで結び合わせる。
「テメェらが妙な気を起こさなきゃこんなことにはならなかったんだ! ただの人間のガキ使ってまで管理者面したがるとは見下げた野郎どもじゃね――」
男の声が途切れる。
いつの間にか少女が天井ギリギリまで跳躍し、何かを振りかぶっていた。
獣のような瞳、煌めく銀の軌跡。
少女と男の間に合ったテーブルを飛び越え、小さな体が机へと降り立つ。逆手に握ったドスが男の手の甲を突き刺し、テーブルに深々と縫い止める。
悲鳴を上げかけた男の頭を少女の繊手が鷲づかみ、力任せに机へと叩きつけた。
「テメェのモツ食いたくないなら少し黙りな、チンピラ」
机の上にしゃがみ込んだ少女が男の耳元に口を寄せ囁く。
冷たく低い声音に全身の肌が粟立つ。大の大人が、それも今まで多くの修羅場を越えてきた体が少女一人に危機を感じていた。
「領分弁えない手前らが盛大にカマしてくれたモンの始末つけてやるって言ってんだよ、こっちは」
耳元に寄せていた唇が離れる。男の鼻腔をくすぐる甘い香り。そんなものが不釣り合いなほどに、この少女の中身はエゲつないと男は本能で察した。
立ち上がった少女はドスをローファーで踏み、より深く机へと突き立てていく。
「それとアタシはメスガキじゃない。アタシは」
そこで彼女は一度、周囲を見回す。
男の部下達は最早逆らう様子もない。この大立ち回りで完全に戦意を喪失していた。
雪女が、大男が、そして静かに立つ青年が自分の最初の大仕事を見守っている。彼らがいることに少女は薄く笑い、もう一度足下の男に視線を戻した。
息を吸い込む。
ここに辿り着くまでに何度も心の中で繰り返した言葉。
最初の宣言。
これを言えば、本当にもう引き返せない。分かっている。
迷いはない。ただ、感慨深くはあった。
「アタシはこの地区一帯の妖たちを取り仕切る夜行組八代目組長、埋野暁火だっ!」