表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/8

NO.5

お題:不本意な逃亡犯 制限時間:1時間 に加筆修正



 私が湯船を使えるのは、ご主人がお風呂を終えてからです。

 寝間着に着替えるのを手伝った後で、許可をいただいてから入ります。


 風呂場にて身体を一通り擦った後、手拭を濡らして軽く絞り、首枷を持ち上げて隙間を洗います。最後に枷も擦って汚れを落とします。

 温かな湯に浸かってほっとしながら、私は昔の事を思い出していました。



 この家に来てからしばらくは、ご主人が寝室に入られてから浴室に向かう日々でした。風呂を沸かし直すなど奴隷には贅沢な事ですから、湯船の外で水になりかかったぬるま湯を浴び、身体を擦っていました。

 そうしたある日、風呂から出たご主人に、


「風呂を使え」


 と声をかけられたのです。

 主人が眠るまで尽くすのが兎の仕事です。慌てて首を横に振ると、「命令だ」と仰られました。

 恐縮しつつも浴室へ向かい、私は生まれてお湯を浴びました。

 その日以来、毎日こうしてお湯を使えるようになったのです。



 私は鼻先まで湯に浸かると、溜息をつきました。ぷくぷくと泡が飛び出て水面でぱちぱちと粒が弾けました。


 私は幸せな奴隷です。

 こうして温かな湯に疲れる兎が、この国にどれだけいるでしょうか。


 主人が決まるまでの毎日、収容所で夢見ていたのは兎の国で暮らすことでした。

 戦争に負けたとはいえ、そこで暮らす兎達には、突然の理不尽な暴力に怯えることもなければ、いつ食べられるのか分からない恐怖に怯える事もないのです。

 小さな家に住み、自分が食べたいものを料理し、部屋を整え、ささやかなお洒落を楽しむ。

 叶わぬ夢を思うひとときが、気を紛らわせられる唯一の手段でした。


 気付けば、今の私はいつの間にかその夢を見なくなっていたのです。

 



 風呂から上がり、居間でお酒をたしなむご主人に礼を言い、私は台所へと向かいました。

 ささやかなつまみを作って戻ってくると、テーブルの上のグラスはそのままにご主人の姿が見当たりません。


 皿を置き、グラスの傍を見ると、今日付けの新聞が広げてありました。

 記事の見出しに目を奪われて読んでいると、カチャリと扉が開きました。


 慌ててぺこりとお辞儀をし、出て行こうとすると、「待て」と声がかかりました。


 ご主人はゆっくりと足を引きずりながら、近付いてくると、

「椅子に座れ」

 と仰られました。


 従うと、私の首筋に大きな手が掛かりました。


 動けぬまま、ぎゅっと思わず目を閉じます。

 首枷の隙間にするりと入り込んでくる感触に、思わぞくりと震えてしまい、声が漏れぬよう慌てて息を止めました。


 飴の代わりにされた夜を思い出し、とくとくと緊張で胸が高鳴ります。

 あの日以来、ご主人が私に触れる事はありませんでしたから。


 かしゃり。

 鍵を回す音と共に鎖が外され、鉄の首枷がごとりと床に落ちました。


「――出て行け」


 軽くなった首元を押さえ、私は呆然としてご主人を見上げました。


「あ、の……」


 私は、何か悪い事でもしてしまったのでしょうか。


「お前はもう用無しだ」


 ご主人は私の顔を見ようともせず、空いた椅子に腰掛けながら言いました。


「引き出しの上から二番目に給金を入れている。取ったらとっとと部屋へ戻れ。

 夜明け前に荷物をまとめてこの家を出ろ。仲間のいる国へ行くがいい」


 ――どうして、でしょう。


 そう問いたくともできません。

 けれど奴隷である私には、主人に口答えも質問をする権利もありません。

 ただ言われた事に従うほかないのです。


「失礼します……」


 封筒を手に扉を閉じる前に、ご主人の姿を目に焼き付けようとしました。ですがその顔はそっぽを向いていて、表情までを伺う事はできませんでした。


 私は扉を閉じると荷物をまとめるため、のろのろと自室へと向かいました。




 まだ誰もいない夜明け前の大通り。

 荷物の入ったトランクを両手で持ち、私は一人で歩きます。もこもこと幾重にも服を着込み分厚い外套を着て、大きな帽子ですっぽりと顔を隠して変装します。

 日が昇る前に始発列車に乗ることができれば、狼から襲われる可能性は低いでしょう。


 ふいの強風に帽子を押さえると、マフラーの端がずれ落ち、首がするりと剥き出しになりました。

 すうすうと、何もない首筋に当たる風が冷たくて。


 ――とても、冷たくて。



 マフラーを巻き直し、歩きながら、溢れて止まらぬ涙と鼻水をそのままに、私は歩き続けました。



 私は愚かな兎です。


 愚かなままでいたかったんです。



 ――貴方に、食べてほしかったんです。



 誰もいない車両の中、私は声をあげて泣きました。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ