NO.5
お題:不本意な逃亡犯 制限時間:1時間 に加筆修正
私が湯船を使えるのは、ご主人がお風呂を終えてからです。
寝間着に着替えるのを手伝った後で、許可をいただいてから入ります。
風呂場にて身体を一通り擦った後、手拭を濡らして軽く絞り、首枷を持ち上げて隙間を洗います。最後に枷も擦って汚れを落とします。
温かな湯に浸かってほっとしながら、私は昔の事を思い出していました。
この家に来てからしばらくは、ご主人が寝室に入られてから浴室に向かう日々でした。風呂を沸かし直すなど奴隷には贅沢な事ですから、湯船の外で水になりかかったぬるま湯を浴び、身体を擦っていました。
そうしたある日、風呂から出たご主人に、
「風呂を使え」
と声をかけられたのです。
主人が眠るまで尽くすのが兎の仕事です。慌てて首を横に振ると、「命令だ」と仰られました。
恐縮しつつも浴室へ向かい、私は生まれてお湯を浴びました。
その日以来、毎日こうしてお湯を使えるようになったのです。
私は鼻先まで湯に浸かると、溜息をつきました。ぷくぷくと泡が飛び出て水面でぱちぱちと粒が弾けました。
私は幸せな奴隷です。
こうして温かな湯に疲れる兎が、この国にどれだけいるでしょうか。
主人が決まるまでの毎日、収容所で夢見ていたのは兎の国で暮らすことでした。
戦争に負けたとはいえ、そこで暮らす兎達には、突然の理不尽な暴力に怯えることもなければ、いつ食べられるのか分からない恐怖に怯える事もないのです。
小さな家に住み、自分が食べたいものを料理し、部屋を整え、ささやかなお洒落を楽しむ。
叶わぬ夢を思うひとときが、気を紛らわせられる唯一の手段でした。
気付けば、今の私はいつの間にかその夢を見なくなっていたのです。
風呂から上がり、居間でお酒をたしなむご主人に礼を言い、私は台所へと向かいました。
ささやかなつまみを作って戻ってくると、テーブルの上のグラスはそのままにご主人の姿が見当たりません。
皿を置き、グラスの傍を見ると、今日付けの新聞が広げてありました。
記事の見出しに目を奪われて読んでいると、カチャリと扉が開きました。
慌ててぺこりとお辞儀をし、出て行こうとすると、「待て」と声がかかりました。
ご主人はゆっくりと足を引きずりながら、近付いてくると、
「椅子に座れ」
と仰られました。
従うと、私の首筋に大きな手が掛かりました。
動けぬまま、ぎゅっと思わず目を閉じます。
首枷の隙間にするりと入り込んでくる感触に、思わぞくりと震えてしまい、声が漏れぬよう慌てて息を止めました。
飴の代わりにされた夜を思い出し、とくとくと緊張で胸が高鳴ります。
あの日以来、ご主人が私に触れる事はありませんでしたから。
かしゃり。
鍵を回す音と共に鎖が外され、鉄の首枷がごとりと床に落ちました。
「――出て行け」
軽くなった首元を押さえ、私は呆然としてご主人を見上げました。
「あ、の……」
私は、何か悪い事でもしてしまったのでしょうか。
「お前はもう用無しだ」
ご主人は私の顔を見ようともせず、空いた椅子に腰掛けながら言いました。
「引き出しの上から二番目に給金を入れている。取ったらとっとと部屋へ戻れ。
夜明け前に荷物をまとめてこの家を出ろ。仲間のいる国へ行くがいい」
――どうして、でしょう。
そう問いたくともできません。
けれど奴隷である私には、主人に口答えも質問をする権利もありません。
ただ言われた事に従うほかないのです。
「失礼します……」
封筒を手に扉を閉じる前に、ご主人の姿を目に焼き付けようとしました。ですがその顔はそっぽを向いていて、表情までを伺う事はできませんでした。
私は扉を閉じると荷物をまとめるため、のろのろと自室へと向かいました。
まだ誰もいない夜明け前の大通り。
荷物の入ったトランクを両手で持ち、私は一人で歩きます。もこもこと幾重にも服を着込み分厚い外套を着て、大きな帽子ですっぽりと顔を隠して変装します。
日が昇る前に始発列車に乗ることができれば、狼から襲われる可能性は低いでしょう。
ふいの強風に帽子を押さえると、マフラーの端がずれ落ち、首がするりと剥き出しになりました。
すうすうと、何もない首筋に当たる風が冷たくて。
――とても、冷たくて。
マフラーを巻き直し、歩きながら、溢れて止まらぬ涙と鼻水をそのままに、私は歩き続けました。
私は愚かな兎です。
愚かなままでいたかったんです。
――貴方に、食べてほしかったんです。
誰もいない車両の中、私は声をあげて泣きました。