第二話
手入れの込んだ庭木に可愛らしい花々。季節を感じされる植物に囲まれながら、思源はこの一帯を囲む高い塀を見上げた。
外敵から守るためとも考えられるそれは、今の思源にとっては捕らえるための檻に他ならない。
思源は自分を着飾っている襦裙を見下ろしてため息をついた。
(どうやって抜けだそうかなぁ)
無骨な皇帝の臣下に担がれ、丸二日馬に揺られた思源は予定通り後宮入りさせられていた。正五品、という妃嬪の中では最下位の位をいただいて、それでも不自由なく過ごさせてもらっている。ついて回る女官も最低限の一人だけだし、たいして能力も高くないからやりやすい。
今のうちに脱走出来たらいいのだが。思源は高く立ちはだかる塀を見て、自身の頼りない運動神経を恨んだ。
そのとき、人の声が遠くから聞こえてくる。
「黒曜宮ってどっちだっけ?」
「わたしもわかんない。先輩たちに訊いてこればよかったね」
「ムリだよ。いつも忙しそうにしてるし、声かけたら嫌そうな顔するじゃん」
思源は慌てて塀から離れた。
誰かにこんなところを見られては疑われかねない。
静かに息を殺していると思源の側に付いていた専属女官が手を挙げて、迷える二人の女官に声をかけた。
「黒曜宮はあっちですよ~!」
白南が指差し教えると、二人の女官はぺこぺこと頭を下げながら小走りで去ってゆく。
「いいことをするって気分がいいです! ここは忙しい上に広いので、新人なら迷うのは仕方ありませんし、こういうのは支え合いです!」
小柄な白南は胸を張って満足げにした。思源は先ほどの二人の会話を思い返しながら、首を傾げる。
「もしかして白南もああだったの?」
「そうですよ! 入ったばかりの時は特に使えないので、わざと無視するいじわるな人もいるんです」
過去の出来事を思い出しているのか、白南はむすっと頬を膨らませた。
「でもそれって効率悪いよね。教育係みたいなものを作ればいいのに」
「皇子さまや公主さまのお勉強係はいらっしゃいますよ?」
「そうじゃなくてさ、各当番の中にそういう役目を作るってこと」
白南は傾げていた首をさらに深く傾ける。思源は白南にもわかるように言葉を選びながら、思いついた考えを口にした。
「厨当番とか洗濯当番で数年働いて慣れてきたころの女官たちに、新人の教育も任せるんだよ。彼女たちの仕事は少しだけ免除してあげてね。そうすれば上下の関係が必然的に作られて見通しがよくなるし、新人たちも困らなくて済む。でしょ?」
白南は少しばかり咀嚼に時間がかかったようだが、理解するとすぐに目を輝かせた。
「はえ~! やっぱり桃夭さまはすごいですっ! 白南、まったく思いつきませんでした!」
「なんとなく思いついただけだよ。実践するならもっと詰めるべきところはあるんだろうけど……」
立派に機能しているように見える宮廷だが、まだまだ体制を整えるべきところはある。国をよりよくするためにも、早く後宮を抜け出したいのだが。
思源が再び脱走について考え始めようとしたとき、男の声を耳にして思源はぴくりと肩を震わせた。
「おい、お前」
この後宮で男の声は滅多に聞かない。しかも今聞いたものは宦官らと違って低く、威圧感のあるものだった。
「今のはお前か?」
木の陰から現した姿に、思源は息を止めた。
通った鼻筋に吊り上がった凛々しい眉、そして分厚い唇をした美丈夫だ。背は思源と比べる間もない長身で、体格もいい。
思源はそんな滅多に見ない精悍な顔つきに目を細めて見下ろされる。
(黄色のお召し物……主上だ)
邪知暴虐、冷酷非道で有名な現皇帝・太鸞凰。若く美形だという話は聞いていたが、玉顔を拝むのは初めてだった。何せ正五品、頻繁に皇帝のお目にかかれるほどの位でもない。
思源は彼の鋭い眼光に慌てて拱手の姿勢をとった。思源の態度に白南も男性の正体を悟り、倣って頭を下げる。
「かまわん、楽にしろ。余は『先ほどの私案はお前のものか』と聞いている。それにさえ答えればいい」
「は……はい。ぼ──私のものでございます、主上」
思源がおそるおそる顔を上げると、皇帝は値踏みの目つきをしていた。
「名はなんという」
「沈──桃夭と申します。先日正五品で後宮に召し上げられました」
皇帝はふむ、と顎に手を添えると、視線の先を白南に変えた。
「そこな女官、書くものを用意しろ」
「は、はいっ!」
白南は自身の袖のまさぐると、木簡と筆を素早く取り出した。二つを皇帝に手渡すと、硯に墨を摺って同じく差し出す。
「なぜ持ち歩いている」
「た……桃夭さまは詩がお好きだとおっしゃるので……」
皇帝は怪訝な表情を隠さず、木簡に筆を滑らせた。
「そうなのか?」
「ほんの趣味程度ですが」
科挙のために日課にしていた癖が抜けないのだ。思源は謙虚に答える。
皇帝はしばらく何かを書きつけると、文字の書かれた木簡を黙って思源に差し出した。
──大学之道、在明明徳(大学の道は、明徳を明らかにするに在り)
書かれているのは儒学の経書の一つ『大学』の冒頭だ。
(この人は何を求めてるんだろう?)
思源は皇帝の意図を測りかねて首を傾げる。慎重に皇帝の顔を見上げると、彼は片眉を持ち上げた。
「……。失礼ですが、なぜ『大学』を?」
「ほう、なぜこれが『大学』だとわかる?」
思源は即座に首を戻して、顔をさっと青ざめさせた。
隣の白南はその八文字を覗き込んで、ぽかんとしている。
「ご存じなのですか? 桃夭さま」
「ずいぶんと勉強熱心なものだな。女は官吏登用試験を受けられないというのに」
確かに不自然だ。
いくら書物に詳しいといっても、『大学』にまで目を通している人は科挙試験を目指す人以外にかなり少ない。
「そうです、私は官吏を目指していました」
思源は腹を括って口を開いた。
才能があるのに性別の壁のために、挑む権利すら手に入れさせてもらえない。そんな妹の姿を思い出しながら、おそるおそる思いを口にする。
「男女問わず科挙を受けることができる日が来ることを祈って、私は研鑽を積んでまいりました」
きっとふざけたことを言う、と笑うのだろう。
桃夭はそんな心無い言葉を浴びせられてきた。
(なんだか、腹が立ってきたな)
思源は法をいとも簡単に左右できる人物を前に、苛立ちを覚え始める。この問題はこの人が一言「女も試験を受けられるようにしよう」と言うだけで解決する理不尽だ。しかし思源は進言できるような度胸もない。
じっと皇帝の出方を窺っていると、皇帝はそっけなく「ふうん」と相槌を打っただけだった。
拍子抜けして、思源は呆気にとられる。
「まあ、そんなことはどうでもいい。……お前、沈桃夭といったか?」
「は……はい」
「ついてこい。才ある者には正しい待遇をしてやらねばな」
皇帝はにやりと嫌な笑みを浮かべると、どこかへ向かって歩き始めた。
絢爛豪華な金と玉でできた龍の装飾や、封国の歴史を示す壁一面の壮大な絵画。調度品は全て一級品で、部屋に足を踏み入れることさえ憚られる。
思源と白南はまるで異界のような綺羅綺羅しい空間を見渡しながら、室内に敷かれた絹の手織り絨毯におそるおそる足を乗せた。
「この方、本当に皇帝様だったのですね……」
「そうだね」
密かに会話を交わしていると、皇帝が声を上げて人を呼びつけた。
「玉桂、いるか!」
「はい、ただいま」
顔を出したのは切れ長の瞳が特徴的な涼し気な雰囲気の女性だ。皇帝専属女官だろうか、有能そうに見える。
「玉桂、今すぐ琅玕宮の手配をしろ。空席だった賢妃の位を埋めるものが出た」
玉桂と呼ばれる、表情に乏しそうな彼女はひどく動揺したように眉根を寄せた。
思源もまた、驚きを隠せず後ずさる。
そんなみんなの反応を楽しんでいるのか、皇帝は肩を震わせて含み笑いをこぼしていた。
「沈桃夭、といったな。噂通りの聡明さだ。余を失望させなかったこと、褒めて遣わそう」
「あ……ありがたきお言葉」
丁寧に拱手をとるが、思源の声は震えて仕方ない。
「そういうわけで、今日からお前は沈賢妃と名乗れ」
(ああ、やっぱり⋯⋯)
「返事の仕方を忘れたか」
皇帝の声は言葉に反して弾んでいて、言葉のでない思源を追い詰めて遊んでいるようだ。
「あ……ありがたく拝受させていただきます」
思源は大人しく受け入れるしかない、と諦めて、曲げた腰をより深くした。
「すごいです、すごいですっ! 沈才人から沈賢妃ですっ! 白南も桃夭さまのおかげで大出世しちゃいました! 見捨てないでくれてありがとうございます!」
白南は新しく沈賢妃にあてがわれた一室を見渡して目を輝かせぴょんぴょんと飛び跳ねた。
「う、うん……白南はいい子だから……」
思源は引きつった笑顔で答える。
白南を引き続き専属女官として傍に置きたいと願えば、案の定、皇帝には怪訝な顔をされた。
白南は女官歴こそ長いが、到底学があるようには見えないし、見た目通り有能には程遠い。しかし、柔軟さは一番だった。
思源が湯あみは一人でしたいと言えば、素直に従ってくれるし、着替えも自分で事足りると言えば、その間にお茶を汲みに行ってくれたりする。
とにかく相性が良かったのだ。
こっそり安堵していると、不意に殺風景なこの部屋の扉が叩かれた。
入室を促すと、姿を見せたのは玉桂と呼ばれていた、先ほどの切れ長の目の女官だった。
「この度琅玕宮の女官長として配属されました、玉桂と申します。……側には引き続き白南を置かれるとのことですが、他の女官の手配は──」
「白南だけで大丈夫だからお構いなく!」
思源が焦って言葉を遮ると、玉桂は眉をひそめて首を傾げる。
「えっと、ぼ……わたしは平民育ちだから、たくさんの人に囲まれて甲斐甲斐しくされるのは性に合わない……というか」
「そういうものですか」
「そう!」
部屋に配置される人が多くなっては困る。
思源が頷くと、玉桂は少し納得がいっていないようだったが、折れてくれた。
「それでは私は新しく琅玕宮に配属された女官たちに指示を与えて参ります。賢妃さまはごゆっくりおくつろぎください」
「わ、わかった」
玉桂はしずしずと部屋を後にする。
その所作一つ一つは洗練されていて、この人の方が賢妃の名にふさわしそうだ。
(平民出身でちょっと普通よりも勉強できるだけの僕なんかを四夫人の一人にしようなんて、変な皇帝様だなぁ)
しかし──。
思源は椅子に腰掛け、卓子に頬杖をついた。
「桃夭さま、お茶をお入れしますね!」
「うん、お願い」
(とんでもないことになってしまった。僕の行動一つでこんなことになってしまうなんて……脱走計画がまた遠のいちゃったな)
茶を入れている白南に隠れて、ため息をついた。




