第一話
「やめ!」
道場主の掛け声に、わたしは突き付けていた剣を降ろした。先ほどまで剣を交わしていた一つ年下の少年は、床に尻もちをついて情けなくわたしを見上げている。
十六歳とは思えない恵まれた体格と凛々しい顔つきをしているくせに、その顔は悔しさで子どものように歪んでいる。
「桃夭、お前ほんとに女かよ……」
「わたしが女だから手加減をしたって? そんな調子で次の武官試験に受かるのかしら」
吐き捨てられた言葉にわたしがにやりと笑って見せると、少年は苦虫を潰したような表情をして顔を逸らした。そして落とした剣を掴むと、負け犬のごとくすごすごと道場の端へ逃げていく。
(まったく……)
わたしはその背中を目で追いながら、腰に手を当てた。
「桃夭、見事な剣裁きだった」
「師」
背後からの声に振り返ると、無精ひげを生やした道場主が苦笑いを浮かべて立っていた。
「もちろんでしょ。わたしは初めて一人で立った日から剣を握っているんだもの」
肩を落とした少年が荷物を担ぎ、道場を出て行くのを皮切りに、門下生たちがぞろぞろと夕食の時間を思い出して帰っていく。
下は五歳から、上は十六歳まで。しかしみんな男。この道場にいる女はわたし一人だけだ。
「もったいねえなぁ」
「なんの話?」
道場主の呟きを拾う。顔を見上げると、彼はため息をついてわたしの目を見ながら顎でやった。
「お前のことだよ。桃夭が男なら、国で一番の武官になれたろうに」
女は武官になれない。
この封国が始まる以前から変わらない法律の一つだ。
わたしは首を横に振って、今日も元気に帰ってゆく背中を見届ける。
「いいのよ、初めからわかっていたことだし。それに……思源が科挙に合格して外朝で頑張ってくれたら、いつか法律が変わる日が来るかもしれないでしょ?」
聡明な双子の兄を思い浮かべて、わざと明るく言ってみせる。
わたしは、わたしにできることをするだけ。この道場の手伝いも、その一つだ。
「そうだ、思源は元気か」
道場主はその名前を久々に耳にして、ふいに思い出したように尋ねてきた。わたしは迷う必要もなく頷く。
「もちろん、元気にしてるわ。今日も塾で子どもたちに何か教えてる」
「もう少しお金が貯まるのが早ければ、最年少及第も夢じゃなかったんだろうが。文官試験は武官試験と比べて金がかかるな」
「思源は『あと二年もゆっくり勉強をさせてもらえる』って言ってたけど、本当はもっと早く受験したかったはずよ。……さ、母さんが待ってるから、わたしも帰ることにするわ」
わたしは道場の隅に置いていた荷物を担ぎ上げると、眉を下げて悲し気な表情の道場主に微笑みかけた。
「大丈夫よ、師。わたしは思源の夢が叶ってくれたらそれでいいの」
「ただいまー」
家の外まで漂っていた夕食のいい匂いに今晩の献立を予想しながら、扉を引き開ける。玄関のそばでは丸椅子に腰かけた思源が針と布を手に繕い物をしていた。
思源は頭がいいだけでなく、手先も器用だ。目立つほつれを糸で綴じている。
「おかえり」
「もう帰ってたなんて、早かったのね」
いつもならわたしが帰宅して、しばらく経ったころに帰ってくる。場合によればもっと遅くなる日もある。
「今日は子どもたちがみんな優秀だったんだよ」
思源は双子のわたしよりもずっと優し気に微笑ませて言った。本当に生徒思いだ。
「まあ、そりゃ女よりきれいな師に教えられちゃったら、みんなすぐにやる気になっちゃうわよね」
「桃夭もほとんど同じ顔してるけど」
「思源は男の子から告白されたことあるくせに」
軽くからかうと、思源は困ったように眉を下げて笑った。
男の思源にあって、なぜわたしにはないのか。男だらけの道場に約十五年通っているが、生まれてこの方一度も縁がない。
それはわたしの剣の腕のせいか、それとも思源が女子顔負けの魅力を持っているからか、どちらかだ。
「僕はちゃんと男物の服を着ているはずなんだけどね? どう勘違いしたのかなぁ」
そのとき、台所にいる母に名前を呼ばれた。わたしは声を張って返事をする。
「なに? 母さん」
「桃夭、暗くなりきる前に水を汲んできてくれない?」
「僕も手伝おうか」
やり取りを聞いていた思源がそう尋ねてくれるが、わたしは思源の手の中にある布を見遣って首を横に振った。
「思源にはそれがあるでしょ、水汲みはわたしがやるわ。それに包子にもご飯あげてこなくっちゃ」
家の裏手にある厩舎にいる唯一の愛馬も、人間と同じようにお腹を空かせている頃だろう。
「わかった。気を付けてね」
思源に見送られて、わたしは草でいっぱいのかごを片手に家を出た。
包子はわたしを見るなり、鼻を鳴らして歓迎してくれる。わたしはよしよしと頭を撫でながら、草を置いてあげた。その間に水も汲みに行く。母さんに頼まれた分と、それから包子の分。
草の隣に水も並べてあげれば、包子はさらに鼻を鳴らしてかぶかぶと水を飲んだ。生まれた日から一緒にいる飼い馬だ。かわいくて仕方ない。
やがて食事を終えた包子は満足げに厩舎の奥へ消えていく。
すっかり空になった器を取り上げたその時、何やら家の辺りから言い争うような人の声が聞こえてきた。かと思えば騒ぎはすぐに収まり、やがてすすり泣く声が聞こえてくる。
わたしが家の裏口を開けた瞬間、心臓が嫌な音を立てた。
そこに人の姿がなかったからだ。
母は煮立った鍋から離れているようだし、先ほどまで思源が座っていた椅子も倒れていて、繕い物も中途半端な状態で放り出されている。
「一体何が……」
呆然としていると、すすり泣きにふと我に返った。見渡すと母が髪を乱して地面に突っ伏している。
「母さん⁉」
汲んだ水を置いて慌てて駆け寄ると、母は肩を震わせて涙を流していた。母は思源と同じで優しいけれど、心の強い人だ。
母さんのこんな姿を見たのは、父さんが亡くなって時以来のことだった。
「母さん、何があったの?」
母はしゃっくりを上げ、涙を拭いながら外を指さす。わたしは怪訝に思って、玄関から外に出た。
夕食時で外に人の姿はほとんどない。思源の姿もない。
「誰もいないけど……」
「皇帝の命令で、思源が連れ去られてしまったの」
「どういうこと?」
「桃夭と勘違いをしていたのよ……っ」
母が泣きじゃくりながら話してくれた内容はこうだった。
曰く、皇帝はここに聡明で美しい娘がいるという噂を聞き付けた。臣下が家へ押しかけると、見目麗しい人が繕い物をしていた。だれも繕い物をする人間が男だとは思うまい。
もちろん思源は自分は男で勘違いだと声を上げた。けれど皇帝の臣下はこう言ったらしい。
「妹思いの兄は武に長けていると聞いた。お前のように、繕い物などするはずがない!」
思源の言葉は後宮に入りたくない言い訳だと思って耳を貸さなかったのだ。
封国の現皇帝は邪知暴虐で有名な、欲張りの化身といっても過言ではない人だ。古今東西から美しく側にあるにふさわしい女性を寄せ集めて後宮に入れている。
思源は勘違いでそのうちの一人にされてしまったのだ。
「なにその噂、めちゃくちゃよ!」
聡明なのは娘でなく息子だし、武に熱中しているのは妹のわたしだ。
「桃夭、どうしましょう……! もし後宮で思源が男だってバレたら、皇帝は酷いお方だって聞くし、最悪──」
考えたくもない結末を思い浮かべて、母は再び目から涙をこぼす。
思源は賢い。きっと後宮争いに巻き込まれても上手く躱すことはできるだろう。
しかし、どうしても冷酷非道な皇帝のうわさが頭によぎる。
最善の策は──わたしには一つしか思い浮かばなかった。
「私……皇都に行って思源を取り返してくるわ」
母は短く息を止めて、真っ赤になった目を見開いた。母さんは首を横に振って口を動かす。でも声は枯れていた。
ごめんなさい、母さん。でも、わたしの覚悟はもう決まっている。
「武官試験は十日後。武官になって宮廷に潜り込むわ。絶対に合格してくる」
「でも武官試験は男子しか」
「兄さんが"桃夭"として連れ去られたなら、わたしは噂通り武に長けた妹思いの"思源"のフリをする。これなら、武官試験は受けられるはずよ」
「桃夭……」
母の震える声に、わたしはにっこり笑ってみせる。
「大丈夫よ、母さん。わたし、もう十五年も剣を握ってるの。思源のためならなんだってやるわ」
母さんのことは長らく一人にさせてしまうけど、命には代えられない。
わたしが胸を叩いてみせると、母は瞼を伏せてためらいがちに頷いた。




