視界不良
地下の狭い部屋。
清潔な廊下の先に一つだけ使われていなかった部屋がある。
エレベーターから三つ目のウォーターサーバーの先。
軍曹はその部屋をあてがわれていた。
日光が入らない部屋で、黙々と報告書を読み進める。
この生活が始まって数週間ほどが経っていた。
各基地からやってくる原因不明の事故の報告書。
報告書の末尾には決まって同じ文句。
「人員消耗有。されど前線に異常なし」
まるで、誰かが決めたような符号。
毎日のように同じような報告書が軍曹の元に届けられた。
軍曹の部屋は音を立てる物がない。報告書をめくる音が嫌に大きい。
デスクは報告書で山積みだった。
無造作に積まれたその書類の山は、廃墟のビルのようにそそり立っている。
机の端に置いてあるカップを手に取る。
冷たく、冷え切っていたが、それでもコーヒーはコーヒーだ。
手首を回しながら水面を覗き込んだ。
そもそも、本当に謎があるのか…?
軍曹はコーヒーを飲み干すと、読んでいたそれを整理済みの籠にしまって、立ち上がった。
廊下のウォーターサーバーから湯を手に入れるために廊下に出る。
一番手前のウォーターサーバーを使い切り、一つ遠いウォーターサーバーも残りわずか。
補給の日付は、読めないほど薄れていた。
目の前のウォーターサーバーが鈍い音を立てて、湯の供給が止まった。
カップに残された中途半端な湯を見て、軍曹は一番遠いウォーターサーバーを見つめた。
「実地調査?」
電話越しに司令官の声が聞こえた。
「各基地の報告書を確認しましたが何点か気になる事があります。調査に行かせてください」
電話の向こうで、液体を啜る音がした。
書類をめくる気配も聞こえる。
軍曹は、喉の奥がわずかに鳴るのを感じた。
釣られるように手元のカップの中身を啜るが、ぬるく、そして味は何もしなかった。
「分かった。だが、調査については口外するな。問題があれば私の名前を出していい」
「分かりました」
受話器を置こうとすると、また司令官の声が聞こえ、耳に戻した。
「レシートを貰っておけ」
軍曹の返事を待たず、通話は切れた。
受話器から電子音だけが、部屋に響いていた。
軍曹は車に乗り込み、一つだけ部屋から持ってきた報告書を助手席に投げた。
シートベルトをし、ルームミラーを調節する。
自分の顔がひどく不健康に見えた。
車を車庫から出すと、雪がガラスに振ってきた。
効きの悪い暖房をつけると、エンジンがひどく苦しそうな音を立てる。
そのわりには、あまり意味はなかった。
一つの小さい車は基地を去っていった。
雪がいっそう強くなった。
車の窓ガラスの向こうには爆撃の爪痕が現れては消えていった。
ここは、地図から消された町の一つだった。
町の名残は解体もされず、ただそこに横たわっている。
それでも、ときおり車とすれ違う。
遠くにガソリンスタンドが見えた。
残されたガソリンは少ないように見えたが、今は温かいコーヒーの方が必要なものだった。
スタンドに入ると普段着の老婆が近寄ってきた。
「兵隊さんかい?いらっしゃい」
「レギュラー満タン」
慣れない手つきでその老婆はガソリンを給油を始めた。
「窓、ふきますか?」
震える手の中に青いタオルが揺れていた。
「大丈夫です。自販機はありますか?」
「自販機はなくて。お茶なら出せますよ」
「一杯いただけませんか」
石油ストーブの香りがする事務所に案内された。
ストーブの上にはヤカンが煙を吹いて部屋を暖めていた。
「帰省ですか?」
「いえ、仕事です」
差し出された緑茶を啜る。
身体に熱が入っていくのを感じた。
壁には町の歴史と共に写真が並べられていたが、ある時を境に額縁は途切れていた。
「この町も空襲でひどくやられましてね…」
「……そうでしたか」
「若い人たちが軍隊に出兵した翌日に空襲にあってそりゃ大変でした。
女性や子供だけでは手が足りなくて…一日早く来ていれば………」
「ありがとうございました。おいくらですか」
「ガソリン代金と…お茶代でこちらです」
「御馳走様でした。あとレシートください」
ガソリンスタンドを後にする。
雪の中深いお辞儀をする老婆がバックミラー越しに雪の中に消えてゆく。
目的地に近づくにつれて、風は止まり、深々とした重たい雪に変わっていた。
「これか…?」
報告書に記載された住所は、屋根が辛うじて残る廃墟だった。
呼び鈴を鳴らすが帰ってきたのは指先の冷たさだけ。
歪んだ扉をこじ開け、家だった建物に進んでいく。
かつては、家庭と外を区切っていた屋根も、その役目を果たしていなかった。
家の中に雪が静かに降り注いでいた。
玄関で靴を脱がない事に違和感を感じながら家の中を進む。
雪に沈む音に、人工的な、違う音が混ざった。
足でそのあたりを探ると額縁が雪の下にあった。
額縁の中には幼い子供と両親が着飾った様子が映っていた。写真館か何かで撮影したかもしれない。
被っていた雪を手で払い、息を吹きかける。ガラスの上に残った粉雪が解けていった。
それをわきに抱え、家の中を調べて進む。
一階はほとんど原形を保っていなかった。
だが二階への階段を見つけ、不安定ながら階段を進む。
階段は一段一段上がるごとに頼りない音を立てていた。
階段の横の壁には、色々な額縁が飾られていた。
夏休みの絵、七五三、そして空白の空間。
そこだけ壁が焼けていない。
軍曹はわきに抱えていた額縁をあてがう。
収まるべき所に額縁をかけ両手を放す。
サイズはピタリとあった。おそらくはここにかけてあったのだろう。
そこに特別な意味はなかった。そうするべき、と思った。
だが、壁のクロスごと額縁は再び地面に向かい、大きな音を立てて砕けた。
視線を床に落とすと、粉々になったフレームとガラスが写真の上に広がっていた。
また自然と胸元に手が行った。
二階に入ると、子供部屋の入口が見える。
そこだけ天井が残されており、以前の姿が垣間見えた。
足音は雪の音から絨毯を踏む音に変わっていた。
扉を開けると、机も棚もそのままだった。
軍曹はカメラを取り出すと部屋を撮影する。
小学校や中学生のころのスポーツのトロフィー。
くだらないバンドのポスター。
積み上げられた下品な週刊誌。
勉強机の引き出しを開けると、ほとんどゼロ点のテスト用紙が顔を見せた。
名前しか書いてないものもあった。
軍曹は部屋の中をまた違う角度から撮影した。
自分が撮影した写真を手元で確認するため視線を下に移す。
ふと、床を見ると、何かが倒れていた。
また額縁だ。
軍曹はまた、あるべきところを探しベッドのわきに目線を向けた。
彼女との写真やスポーツ大会の写真が雑多にならんでいた。
学校でのはしゃいでいる写真
行事や卒業写真
新品の軍服を着て敬礼している写真。
そして…軍服で二人で肩を組んでいる写真。
胸元には、二人ともお揃いの十字架をつけていた。
部屋は暗く、表情はあまり見えなかった。
軍曹はそれを手に取った。
廊下に出るとその写真を明るい場所で確かめた。
左に映っているのは伍長。
笑顔と白い歯がまぶしかった。
そして反対側に映る、ぎこちない笑顔の男。
それは、自分だった。
耳の奥で、耳鳴りがした。
手を放そうとしても、投げ捨てようとしても、手から離れない。
写真は手に吸い付いてくるようだった。
力が抜け、その場に座り込む。
何かが、ポケットの中で軍曹の太ももを刺した。
手袋を口で脱がし、ポケットに手を入れる。
震える手でそれを取り出す。
それは伍長の死体袋から抜き出した十字架。
手の中で十字架が震えていた。
耳の奥が、妙に静かだった。
軍曹は立ち上がり、着た時よりも少しだけ早い足取りで階段を下りていく。
階段の途中、砕けた家族写真の前に差し掛かった時に、家全体がガタガタと震え始めた。
家の上空を大型の戦闘機が通った。
大きな轟音と共に軍曹は空を見た。
雪が頬に当たる。
突然の音に驚いた、それだけだ。
そう自分の胸元を撫でようとした。
だが、その戦闘機の揺れは家にとどめを刺した。
階段が、軍曹のいる場所から、崩落した。
幸いな事に下は雪で、大きなダメージはなかった。
立ち上がろうとすると、何かが転がってくる音がした。
階段の段を一つ、また一つを軍曹の方に落ちてくる。
動くものがないはずの、この家で。
何かが動いていた。
視線を階段の方に移すと、階段を転がってくる見覚えのある酒が転がってきていた。
軍曹は立ち上がろうとしたが、床は凍り付いたように腰を放してくれない。
一つ、また一つと階段を下り、そして軍曹の足元に落ちてきた。
飲みかけの中身が、軍曹の目の前でこぼれ出していた。
酒が、地面に広がっていった。
お付き合いいただきありがとうございます
次回で最終回です
3月16日07時30分更新予定です。
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