蛇口
掲載日:2025/12/02
うちの台所の蛇口は、父が死んだ日から、ずっと止まらなくなった。
力いっぱい締めても、ひと粒だけ水が落ちる。音は静かで、まるで息みたいだった。
母は気にしないふりをしている。
「古いからねぇ」と笑って、食器を拭きながら水滴の音を数えている。
数える癖なんて、前はなかったのに。
夜になると、滴る速度が少しだけ速くなる。
母はもう寝ていて、家じゅうが暗いのに、蛇口だけが目を覚ましているみたいだ。
三日前から気づいていた。
水じゃない。
蛇口の先の“何か”がわずかに震えている。金属の冷たさじゃない。
呼吸みたいに——吸って、吐いている。
試しに、僕も息を止めてみた。
ひと粒だけ、落ちた。
今日、母は言った。
「あなた、またお父さんの夢を見てたでしょう」と。
僕は首を振った。本当は毎晩見ている。
台所の端に座る父が、蛇口を見つめている夢だ。
今夜、台所に行ってみると、滴る音が止んでいた。
はじめて、完全に。
僕は安堵して、蛇口の下にそっと手を伸ばした。
そこは乾いていて、音もなかった。
そのかわり——
シンクの底にだけ、濡れた足跡がひとつ残っていた。




