9話 勘違い
午後の授業が始まる頃、蒼真はようやくゆっくりと顔を上げた。
まだ頭がぼんやりしているが、朝よりはだいぶマシだった。
ふと、前の席へ視線が向く。
——昨日、自分が染めたアッシュ。
綺麗に光を受けて揺れる髪が、そこにあった。
(……いつ来てたんだ)
そう思ったと同時に、**昨日の夢の“挨拶”**が胸に突き刺さる。
(夢かよ……)
午後の授業は、ただ流れるように終わっていった。
話しかけられることもなく。
話しかける勇気もなく。
そして放課後。
美容学校へ向かうため、蒼真はいつも通り荷物をまとめて立ち上がる。
教室の出口へ向かうと——そこに亜里沙がいた。
目が合った。
ほんの一瞬。
たった一秒もなかったと思うのに。
胸が跳ねる。
だが——
どちらも言葉を出せなかった。
視線がすべるように逸れ、二人はすれ違う。
挨拶の一言すら、出なかった。
(……なにやってんだ俺)
心の中で自分に呟きながらも、走る勇気はなかった。 そのまま、いつもの足取りで美容学校へ向かう。
——夕方。
教室に入ると、開口一番。
「で、どうだったの?」
亜由美がニヤニヤしながら机に寄りかかってくる。
「いや、何が」
「な・に・が、じゃないでしょ!? 日曜だよ日曜! 進展は!? 手とか! 指先とか! 触れた!?」
完全に 恋愛モードの話 である。
蒼真は呆れたように息を吐いた。
「……リタッチしただけ」
「だけぇ!? もったいな!何してんのよ!!」
「いや……普通に終わっただけだし」
「進展ゼロ!? つまんなーい!!」
亜由美は肩を落とし、両手をぶんぶん振る。
「もっとお姉さんがアドバイスしとくべきだったな……ごめん!」
なぜか 謝られた。
蒼真は引きつりながら、視線を逸らす。
「いや……別に謝られても……」
そんなやり取りのまま、夜間の授業が始まった。
シザーの音と、練習用ウィッグの毛が落ちる音だけが静かに響いていた。
夜の授業が終わり、帰り支度をしていると、亜由美がいつもの調子で声をかけてきた。
「いい? 蒼真。今度なにか動きがあったら、絶対お姉さんに報告するんだぞ。いいね?」
どこか使命感のこもった目で見上げてくる。
「……あ、うん」
正直ちょっと押され気味だった。
手を振って別れ、店に戻り、閉店作業を手伝い——
やっと一日が終わる。
ベッドに倒れ込み、スマホを手に取る。
通知は、ない。
(……まぁ、だよな)
ため息が、勝手にこぼれた。
しかし次の瞬間、ハッと思い出す。
(……写真。忘れた)
カラーしたモデルは、あとから見返せるように必ず撮影して記録する。
父にずっと言われていることで、蒼真も理解しているはずだった。
そして——
そこでひらめいた。
(……これ、連絡する理由になるじゃん)
一気に上半身が起き上がる。
勢いのままLINEを開き、メッセージ入力画面を叩き始める。
>「昨日は大変お世話になりました。
> つかぬ事お聞きしますが、あれから髪の調子はいかがでしょうか?
> できれば写真を送っていただけると助かります。」
書いた。
一度深呼吸して画面を見る。
——そして崩れ落ちた。
(かっっっった……ッ!!)
美容学生が担当のお客様に送る業務連絡文。
友達ですらない。
キモいとかじゃなくて “距離感バグってる” 文章。
「いや無理こんなん送れるか……!!」
スマホを枕に放り、両手で顔を覆う。
(……どうしたらいいんだこういう時)
そう思ったとき、脳裏に浮かんだのは——
「今度何かあったら、お姉さんに相談するんだぞ。」
とドヤ顔で言っていた亜由美だった。
(……いや、確かに、今なんだよな)
蒼真はスマホを掴み直し、ためらいなく亜由美へトーク画面を開いた。
「相談したいことあるんだけど。」
送信。
数秒後——
既読。
返信スピードが、やけに早かった。
「相談?なに?」
すぐに返信が返ってきた。
その早さに、蒼真は逆に焦る。
変なことを悟られたくはない。
“恋”とか“気持ち”とか、そういうのはまだよくわからないし、
なにより自分で認めるのが恥ずかしい。
だから、極力ふつうに。
プロらしく。
あくまで「美容師の練習として」の相談という形で。
>「昨日のリタッチ後の写真とり損ねちゃってさ。
> モデルの子に、髪の写真送ってもらおうと思うんだけど……
> キモくない感じで、なんて送ればいい?」
送信。
既読。
(よし……落ち着け俺。これはただの仕事の話……)
数秒後。
>「別に普通に『写真送って』でよくない?」
あっさり。
あまりにも普通の返答。
「そう、だよな……」と小声で呟いた、その瞬間。
——次のメッセージが届いた。
画面に表示されたのは、
昨日染めたばかりの亜里沙の髪。
サイドからの光の反射が綺麗で、柔らかいアッシュが揺れている。
何より——顔まで、少し恥ずかしそうに写っている。
固まった。
(……は?)
なぜ亜由美が亜里沙の写真を持っている?
いや、そんなはず——
受信した名前を、ゆっくり確認する。
画面には、はっきりと表示されていた。
亜里沙
(………………あ。)
血の気が一瞬で引いて、次に一気に戻ってきて、頭の中が爆発した。
(いやいやいやいやいや待て待て待て待て)
俺は今。
“亜由美に相談” してるつもりで
“亜里沙に直接” 聞いた——!?
(ちが……っ、いや、ちが……いや、違わなくない!?いや違えよ俺!?)
脳内がフルワイヤレス混線状態。
そこへ、更に追撃メッセージ。
>「これで大丈夫?
> 写り、暗かったら言ってね。撮り直す〜」
優しい。
優しいのに。
それがさらに刺さる。
(俺……なにやってんだよ……!!!)
枕に顔を埋めて、声にならない叫び。
でも。
でもだ。
心の奥では確かに——
嬉しかった。
亜里沙が撮ってくれたこと。
すぐ送ってくれたこと。
“ただのモデル” じゃない距離になっていたこと。
その事実が、なにより胸に残った。
読んでいただきありがとうございます。




