15話 ダブチ
亜由美は、蒼真の顔をもう一度じっと見た。
「で? 何があった?」
その声は軽いけれど、
完全に“聞く気”の目だった。
蒼真は口を開きかけて——
その瞬間、教室にチャイムが鳴り響く。
「……あ」
亜由美が時計を見る。
「ちょ、もう休憩終わりじゃん」
不満そうに頬を膨らませてから、
蒼真を指さす。
「いい? これで終わりじゃないからね」
冗談めかした口調だけど、逃がす気はない。
「後でまた聞く。逃げないでよ?」
そう言い残して、
亜由美は自分の席へと戻っていった。
蒼真は小さく息を吐く。
(……逃げられなかったか)
実技授業が終わり、
次は座学の時間。
実技の片付けが終わってからも、
蒼真の頭は切り替わらなかった。
ノートは開いている。
先生の声も聞こえている。
——でも、内容はまったく頭に入ってこない。
ダッカール。
返されていない理由。
昼間、視界に入ったカバン。
考えるなと思うほど、
考えてしまう。
気づけば、授業は終わっていた。
周囲が帰り支度を始める中、
蒼真も鞄を肩にかけ、席を立つ。
そのまま帰ろうとした——その時。
「そうま」
背後から、聞き慣れた声。
振り返ると、
亜由美が腕を組んで立っていた。
逃げ道を塞ぐような位置取り。
「……今、時間あるでしょ?」
それは質問というより、確認だった。
蒼真は一瞬だけ視線を逸らしてから、
小さく頷く。
「……少しなら」
亜由美は、満足そうに笑った。
「よろしい」
そう言って歩き出す背中に、
蒼真はついていくしかなかった。
——ついに、
話さずには済まない時間が来てしまったことを、
感じながら。
美容学校が終わり、
家の店の手伝い。
それは事実だし、逃げ口上でもあった。
「じゃ、お先に——」
そう言って歩き出そうとした瞬間。
「ちょっと待った」
背中から、亜由美の声。
蒼真が振り返るより早く、
亜由美はぐいっと腕をつかんだ。
「……なに?」
「帰る気でしょ」
「いや、今日は店の手伝いが——」
言い終わる前に、亜由美はため息をつく。
「うん、それも大事」
一度は頷く。
けれど、その目はまったく引く気がない。
「でもさ、今ちゃんと吐き出さないと、
技術も気持ちも、全部中途半端になるよ」
蒼真は言葉に詰まる。
「今日さ、ワインディング終わらなかったでしょ」
責める口調じゃない。
ただ、事実を突きつけるだけ。
「仕事に真面目な人が、
仕事で崩れてるの見て、放って帰れないんだけど」
そして、少しだけ声を強める。
「今日はお姉さんに付き合いなさい」
完全に決定事項だった。
蒼真はしばらく黙り込み、
観念したようにスマホを取り出す。
「……一本だけ、電話していい?」
「どうぞ」
父に事情を簡単に伝え、
少し遅くなることを告げる。
通話を切ったあと、
蒼真は小さく息を吐いた。
「……負けた」
亜由美は満足そうに笑う。
「最初から勝負してないよ」
***
向かったのは、学校から少し歩いた先のマックだった。
注文を済ませ、
二人は窓際のカウンター席に並んで座る。
外はもう暗く、
ガラスに店内の明かりが映り込んでいる。
蒼真は紙コップを両手で持ったまま、
しばらく黙っていた。
「……で?」
先に口を開いたのは亜由美だった。
「さっきの続き。何があったの?」
逃げ場は、もうない。
蒼真は視線をストローに落とし、
ゆっくりと言葉を探す。
「……正直、自分でもよくわからない」
声は小さい。
「集中できなかった理由も、
なんで気になってるのかも」
亜由美は急かさない。
黙って聞いている。
「恋とか、そういうの……
よく分からないし」
蒼真は一度、言葉を切る。
「もしそうだったとしても、
……周りに悟られるの、ちょっと恥ずかしい」
認めたくない、というより、
どう扱えばいいのか分からない。
亜由美はそれを聞いて、
少しだけ目を細めた。
「なるほどね」
責めもしない。
笑い飛ばしもしない。
「じゃあさ」
亜由美はストローをくるりと回しながら言う。
「今は“分からない”でいいんじゃない?」
蒼真が顔を上げる。
「分からないままでも、
影響が出るくらい大事なことがある、ってだけ」
それだけ言って、
ポテトを一本つまんだ。
「答え出すのは、まだ先でいいでしょ」
蒼真は何も言えなかった。
けれど胸の奥で、
少しだけ重かったものが、緩んだ気がした。
窓の外では、
車のライトが静かに流れていく。
その光を見つめながら、
蒼真は初めて、自分の気持ちから
目を逸らさずに座っていた。
しばらく沈黙が続いたあと、
蒼真はようやく口を開いた。
「……昨日、美術の授業で」
言い出した瞬間、
自分でも喉が乾くのが分かった。
「ダッカールを貸したんだ」
亜由美は何も言わず、
ポテトを一口かじりながら続きを待っている。
「後で返すとは、言われなかったんだけど……
なんとなく、自分の中で帰ってくるものだと思ってた」
ストローを指でいじりながら、
蒼真は視線を落とす。
「でも、その日は返ってこなかった」
大したことじゃない。
本当なら、気にするほどのことじゃない。
「一日中……その、
亜里沙の頭に、ずっとついてて」
言葉にした途端、
自分でもおかしいと思った。
「次の日には、鞄に……
俺が貸したダッカールがついてた」
亜由美の口元が、わずかに緩む。
「別に、盗られたとかじゃないし。
ダッカールなんて、いくらでも持ってる」
言い訳みたいになっているのは、
蒼真自身が一番わかっていた。
「……なのに」
少しだけ、間を置く。
「なぜか、帰ってこないのが気になる」
そこまで言って、
蒼真は完全に黙り込んだ。
顔が、熱い。
亜由美は一拍置いてから、
楽しそうに笑った。
「そっかぁ〜」
にやにや、という表現がぴったりの顔。
「それはそれは、大変だね」
完全にからかっている。
「……笑うとこじゃない」
蒼真はむすっとするが、
反論は弱い。
「いやいや、だってさ」
亜由美は肘をついて、
蒼真の方を見る。
「本音ちゃんと出てるじゃん」
蒼真は何も言えなかった。
顔は真っ赤だし、
この気持ちを“何か”と認めるのも、
それを他人に悟られるのも、正直恥ずかしい。
亜由美は、ふっと笑って言った。
「じゃあさ」
「ダッカール、返ってこない方がいいかもね」
蒼真が、ぱっと顔を上げる。
「……なんで?」
少しだけ不満そうな声。
亜由美は、わざとらしく首を傾げて、
意地悪に笑った。
「なんでかなぁ〜」
答える気は、なさそうだった。
窓の外では、
夜の街が静かに流れていく。
蒼真はもう一度、
紙コップを握りしめた。
——帰ってこない方がいい。
その言葉の意味を、
まだちゃんと理解できないまま。
でも、胸の奥が、
少しだけざわついたのは確かだった。
読んでいただきありがとうございます。




