12話 ヘアクリップ
翌日・三限目 美術
教室とは別棟の、美術室へ移動する。
蒼真は、いつも通り一人で歩いた。
美術室にはチャイムの鳴る少し前に着き、
誰も座っていない後方の席に、静かに腰を下ろす。
席は自由。
教室とは違って、決まった場所はない。
だからこそ、自然にグループができる。
前の方では、亜里沙がいつもの友達と笑っていた。
その輪の中に、七宮もいた。
「てかさ、ほんと綺麗に染まってるよな。どこのサロン?」
七宮が、軽い調子で言う。
褒め言葉なのはわかる。
けれど、何度目かとなると、少しだけ重さが出る。
「んー、まぁ……内緒。」
亜里沙は笑ってかわす。
けれど七宮は、少しだけ食い下がった。
「えー、なんで内緒なんだよ〜」
その声が、わずかに距離を詰める。
その距離感に、居心地の悪さが混じった。
亜里沙は、ふっと笑って言った。
「……あたし、後ろ行くね。」
近くにいた橘 瑠華が、肩をすくめて言う。
「はいはーい、七宮くん残念〜」
軽い冗談。
場の空気は和やかなまま。
だけど——
後ろの席は、ほとんど埋まっていた。
空いているのは、ひとつだけ。
蒼真の 隣。
亜里沙は、少しだけ立ち止まる。
ほんの、一秒にも満たない迷い。
——それでも、迷わず。
「……ここ、座っていい?」
その声は、いつもより少しだけ静かだった。
蒼真は、わずかに目を丸くする。
けれどすぐ、いつもの落ち着いた声で。
「……うん。」
ささやくみたいに短い返事。
椅子が静かに引かれる音。
机と机の距離が、二人の距離になる。
手を伸ばせば届く距離。
声を落とせば届く距離。
それだけのことなのに——
胸が、ふわりと揺れた。
言葉はない。
目も合わせない。
でも。
昨日までとは、また違っていた。
今日はデッサンの授業で、花を描くらしい。
机を二人一組になるように寄せられて、
小さな花瓶に入った白いカーネーションが置かれた。
蒼真の隣の机が、コトン、と動く。
亜里沙が、何も言わずに自然な動きで席を寄せた。
(……まさか、二人で一つのモチーフか)
予想外で、少しだけ胸が跳ねる。
蒼真は鉛筆を握り、紙に向き合う。
けれど、意識の半分は横にいた。
亜里沙は真剣だった。
姿勢を少し前に倒して、花をじっと見ている。
集中しているときの横顔は、さっきまでの教室の明るさとは少し違っていて。
蒼真は、ほんの一度だけ横目で見た。
そのたびに、心臓が静かに動く。
(……落ち着け)
自分に言い聞かせるように、線を引く。
しかし、また視界の端に亜里沙の動きが入る。
フェイスラインの髪が、頬へ落ちていた。
描きながら、何度も耳にかけ直している。
集中すると、また落ちてくる。
また、かける。
落ちる。
かける。
その仕草が、視界の端で繰り返される。
(……気になる)
気づいたら、手が動いていた。
鉛筆を置き、鞄につけていたクリップをそっと外す。
透明がかった、水色のダッカール。
そして、いつもの癖で口にした。
「……ダッカール、使う?」
「……あ」
無意識だった。
だけど、もう差し出してしまっていた。
(……やば。学校じゃ呼び方が違う。)
美容室の現場、専門学校の実習──
その空気が、そのまま言葉に出てしまった。
けれど亜里沙は、驚いたように目を丸くしたあと、
「へぇ……これ、ダッカールって言うんだ。」
と、声を落として微笑んだ。
驚きでもなく、茶化しでもなく。
ただ、素直に知ったことを味わうみたいに。
「……サンキュー。ありがと。」
いつもの明るさじゃなくて、もう少しだけ柔らかい声。
指先でダッカールを受け取り、
前髪とサイドの髪をそっと留める。
カチッ。
透明な水色のクリップが光を受けて、
亜里沙の髪の色と、そっと混ざり合う。
その輝きは、
蒼真が昨日染めた アッシュの透明感 を
よりくっきりと見せていた。
蒼真は、なにも言わない。
亜里沙も、なにも言わない。
ただ、二人は同じ花を見て、同じ紙に向き合う。
声も、視線も、触れていないのに。
距離だけが、すこし近くなった。
授業の終わり。
二人分のデッサンが机に並ぶ。
亜里沙の線は、素直で綺麗だった。
一方、蒼真の紙は……どこか落ち着きがなかった。
亜里沙は横目でそれを見る。
「……なにそれ。花、迷子になってない?(笑)」
声は、明るくてやわらかい。
からかう、じゃなくて、肩の力が抜ける笑い。
蒼真は、少し耳を赤くしながら視線をそらす。
「……集中、できなかっただけ。」
「ふーん。……そっか。」
それだけのやりとり。
でも、
原因が何か、二人とも言わない。言えない。
だからこそ、確かに近づいていた。
チャイムが鳴る。
椅子が引かれ、ざわめきが戻る。
亜里沙は、何気なく髪を耳にかけながら席を立った。
ダッカールは、そのまま。
気づいていない。
周りも気づかない。
蒼真だけが、ふと視線で追っていた。
(……あ、つけたまま。)
声をかけようと思えば、かけられた。
でも、喉の奥で言葉が止まる。
(……いいか。今じゃなくて。)
ただ、それだけで一日が始まった。
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その日一日
教室でも、廊下でも、少し遠くから見える。
アッシュの髪に、透明な水色がそっと灯っている。
蒼真は、何度も視線をそらした。
でも、気になる。
気づくと見てしまう。
(……なんで、こんなに気になるんだろ。)
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放課後
蒼真は一度だけ、期待してしまった。
「返すね」
「ありがと」
そのどちらでもいい。
でも──
ダッカールは帰ってこなかった。
読んでいただきありがとうございます。




