第9話「数字の影」
朝。
昇降口のモニターに、テロップが静かに流れていた。声は落ち着いている。けれど右下の数字だけが、昨日より重い。
――10 → 15。
たった五。でも、その五に顔があると知ってしまったら、軽くは見られない。
俺は立ち止まらず、モニターの下をくぐる。校門の外、黒いバン。ガラスの向こうで目がこちらをなぞる。知っている視線だ。カナリアのやり方は無駄がない。見せるところは見せ、黙るところは黙る。
教室に入ると、空気はいつもより薄い。
窓側の席のやつが、小声で言った。
「昨日、駅前でまた騒ぎがあったらしいよ」
「ニュースじゃ“軽傷”って言ってた」
「軽傷ならいいけどさ……」
言葉が弱く流れ、黒板の前で教師の声が上書きする。
「正しい情報に触れなさい。噂に飲まれないように」
正しい情報――それは誰が決めるのか。
俺はノートを開き、線を引く。線は真っ直ぐだが、指先に汗が滲む。窓の外、校門脇。黒いジャケットが一人、姿勢を変えずに立っている。昨日の噴水で見た動きと同じ。視線は、こちらに届く前に滑っていく。けれど「見ている」は消えない。
休み時間、天道颯斗が机に肘を置いた。
「昼、屋上。いつもどおりでいいな」
「ああ」
「あとでちょっと見せたいもんがある。刃の角度の話だ」
「了解」
二時間目は数字。三時間目は文字。
どちらも安心の形をしている。だが、今日の文字は少し凍って見えた。四時間目の終わり、チャイムが鳴る。いつもどおりの音。それでも、胸のタグが別のリズムで一度だけ点滅した。
昼休み。
屋上。風は冷たく、鉄柵が小さく鳴る。御影透子が端末を腰壁に立て、地図を開いた。赤い点が昨日より多い。点と点の隙間が狭い。
「今朝の搬送は十五件。エリアは駅北、港湾、旧市街。時間帯は十八時から二十四時に集中。傾向は昨日と同じ。でも密度が上がってる」
天道が手すりを軽く叩く。
「向こうの“開閉”が速くなってるか、数そのものが増えてるか、だな。どっちでも面倒だ」
静――神無月静は小さく目を閉じ、風を吸い込んでから言った。
「流れが速い。冷えが薄い筋になって、街の中をすばやく移動してる。長くは留まらない。だから見失いやすい」
「短いなら被害は減るのか?」天道が問う。
「違う。短いから“目の前で終わる”。だから通報がぼやける。結果として、軽傷は増える。深い傷は減るかもしれないけど」
御影が頷く。
「数字は“軽傷”でまとめられる。公式の文面が作りやすい。救急搬送の実数は、昨日の倍ペース」
数字は嘘をつかない。けれど、見せ方は嘘をつける。
俺は地図を見たまま言う。
「今夜も回る。順序は昨日と同じ。旧市街→港湾→駅北。初動で止める。カナリアの到着を前提に引き継ぐ。通報文面は統一。“出現位置・数・退避の有無”。感情語は入れない」
「了解」御影がテンプレを更新する。「あと、校門に立ってるカナリアは交代制。顔ぶれが二パターン。昼と放課後で入れ替わる。昨日、噴水に来たリーダー――鷹森凛は、巡回車に同乗。視線が鋭い。私たちに気づいてる」
天道の口角が少し上がる。
「監視は好きにさせとけ。俺たちはやることをやる」
静が俺を見る。
「それでもやる?」
「やる」
短く。迷いはない。
数字が動く限り、手を止める理由はない。
午後。
授業は平らに進む。けれど、教室の中の目はときどき窓の外へ逸れた。スポーツテストの記録に歓声が上がっても、すぐに静かになる。音が伸びない。音の止め方だけがうまくなるのは、街にとっていいことなのか。
終礼。
担任は配布物を配り終えてから、保健室の注意書きについて触れた。
「めまい、耳鳴り、冷え。少しでも異常を感じたら、無理をしないこと。付き添いが必要なら、誰かを呼ぶこと」
配布物が鞄に吸い込まれる音が一斉に重なる。
その音に紛れて、俺のタグがまた一度だけ点滅した。焦りの合図。自分で分かる。
放課後。
昇降口を出て、通学路の角で人だかり。中心に、一人の男子生徒。しゃがみ込み、呼吸が浅い。吐く息が白い。足元に細かい氷の粒。
御影が息を呑む。
「残滓、じゃない。…感応だね」
静が膝をつき、掌をかざす。
「冷えは浅い。すぐに戻る。ここから離れよう」
天道が周囲の目を払うように立ち位置を調整する。
俺は男子生徒の肩に手を置いた。
「歩けるか。保健室まで一緒に行こう」
男子生徒は震えながら頷く。御影がクラスメイトに視線で合図し、二人が付き添う。
列が動き、人だかりがほどける。残った氷の粒は靴で潰れ、音もなく消えた。
「場所、記録」御影が端末に座標を打ち込む。「夜にまた開く可能性」
「俺が先行して嗅ぐ」天道が言う。
静が首を振る。
「今は筋が細い。焦ると見失う。夜の流れに合わせよう」
俺たちはそれ以上言葉を増やさず、準備に頭を切り替えた。
買い物袋には水と栄養バー。ポケットの奥には、追加のワイヤー固定具。キーケースが当たって硬い音が鳴る。
寮に一度戻り、荷を軽くする。
《武装展開》の簡易チェック。投擲盾は回収角度を昨夜のまま。小盾は中心厚を一点だけ増し。ワイヤーのコーティングは瘴気対応。動きは最短で、手数は少なく。
夜が落ちる前に集合する。いつもの四人。合図は短い。
まずは通学路の植え込み。静が杖の先で空気を押すようにして、呼吸を整えた。
「…今は開いてない。でも筋はここに残る。時間で開く」
御影は通報テンプレに「感応あり/同行者の有無」の項目を加えた。
「さっきの子、ひとりだったから“同行なし”を選んだ。次に同じ場所で誰かが倒れた時に、誘導の指示が早くなる」
「助かる」俺は短く言い、旧市街へ向けて歩き出す。
旧市街。
シャッターの継ぎ目に砂が溜まり、看板の文字が剥げている。昨日の粉塵は雨で薄れ、戦った場所だけ空気が少し軽い。
静が首を傾ける。
「今日は、ここじゃない。冷えが浅い」
港湾。
コンテナが積み上がり、間の通路に潮と鉄の匂い。風はあるが抜けが悪い。足音が低く返ってくる。
俺たちは足を止めない。今夜は短く開いて、短く閉じる。止まれば置いていかれる。
影の奥で、縦に細い線。冷えが滲み、すぐに引く。
静が目で示す。御影が「筋のみ記録」と打つ。写真は残らない。文字だけが事実を押さえる。
駅北。
噴水の縁に子ども。ベンチに老人。帰宅を急ぐ会社員。
日常は戻るのが早い。昨日の騒ぎの音はもう薄い。けれど、耳を澄ませば、空気が一度だけ凹む。すぐに戻る。短い。
「来るなら遅い時間」静が言う。
「だったら、先に退く」俺は周囲の流れを見ながら言った。「カナリアが来る」
黒い車両が広場に滑り込む。タイミングは正確。
先頭の女――鷹森凛が降りる。歩幅は一定。視線が周囲を掃き、俺たちの影を一瞬だけ撫でる。足は止めない。名も呼ばない。それでも「見ている」は伝わる。
俺たちは視線を低く保ったまま、群衆に紛れて駅から離れた。
御影が端末で送信する。「筋の確認。退避完了。目撃誘導済」。癖のない文面。削った言葉だけが残る。
帰路。
街灯が点き、群青が濃くなる。信号待ちの列が静かに伸び縮みする。
天道がポケットから小さな刃を出し、角度を示した。
「戻りで食われるの、減らせそうだ。顎を弾いた後の刃の角度、五度寝かせる。お前の小盾の中心厚、増やしたぶんが効いてる。合わせると、噛みつきが空を切る」
「試す。ありがとう」
静が笑う。
「みんな、体の動きが“昨日の続き”になってきたね」
御影は端末から顔を上げない。
「数字はまだ増える。それでも“ゼロへ戻す”方法はある。…あると、信じる価値がある」
寮の前で解散した。
部屋に戻る。机に魔石を並べ、今日の順路をなぞる。旧市街。港湾。駅北。
《武装展開》の設計図を意識の端に呼び出す。投擲盾の戻り角度を、濡れた石畳用にわずかに調整。ワイヤーは張力を一点で受けて一点で逃がす。小盾は中心厚の増し分をそのままに、縁の面取りを少し削る。手袋の内側の滑りを抑えるために粉を少量。小さな改善が、次の一秒を救う。
窓の外で、風が葉を鳴らす。サイレンが一度、短く鳴り、すぐ止む。
この街は止め方を知っている。だから、始まりはいつも遅れて届く。
引き出しから紙を取り出す。
「やり直す」。
四文字を机に置く。置き直すたび、少しだけ違う位置になる。完璧な位置はない。だから、毎日置き直す。
「間に合っているか」
声に出して問う。
答えはない。でも、今日救えた呼吸の数だけ、問いは軽くなる。
胸のタグが一度だけ点滅する。呼吸みたいに。落ち着け、という合図にも見える。
端末が震えた。御影から共有。「通報テンプレ改訂 v3」。末尾に“感応者の同行者の有無”“退避誘導者の有無”“写真未添付(理由)”が追加。
――現場で迷わないための、言葉の形。
俺は承認を返し、短く「採用」とだけ打った。
もう一つ、学校からの一斉配信。「来週、防災訓練を実施」。内容は避難経路の確認。抽象的な文言。名指しはない。
それでも、日常が一歩こちらへ寄る。
ようやく、街の側も「走る準備」を始めた。
電気を落とす前、窓の外をもう一度見る。黒い車両が通り過ぎる。ライトは低く、音は最小限。
鷹森が乗っているかどうかは分からない。ただ、「見ている」が続くのは分かる。
なら、こっちも続けるだけだ。
走り方は覚えた。止め方も少し分かってきた。
記録の残し方は毎日更新し、伝え方は無駄を削る。
刃の迷いは仲間が削いでくれる。俺も誰かの迷いを削ぐ。
明日、数字はまた動く。
それでも、ゼロに戻す手順を探す。
数字は最低。
それでも救える。救えた事実を、明日に渡す。
それが、ここで生きるということだ。
「間に合わせる。何度でも」
小さく、はっきりと言って、灯りを落とした。
胸のタグが一度だけ点滅し、静かに落ち着いた。
新しい夜が始まる。
――第9話「数字の影」 了