第6話 初陣の余波
校内の空気が少し重い。
昇降口に新しい簡易ゲートが設置され、金属探知と魔力漏洩センサーが青い光を交互に放つ。
立て札には「事故防止」。
昨日より文字が大きい。
緊張を隠すための掲示なのに、逆に緊張を知らせている。
――森丘での一件は、公には“なかったこと”になった。
だが痕跡は消えない。
廊下の端に、黒いジャケット。
姿勢が乱れない。
視線も動かない。
カナリアだ。
こちらを睨むでも、逸らすでもない。
ただ、そこにいるだけで十分伝わる。
「見ている」と。
俺は足を止めず、視線も合わせない。
余計な反応はしない。
⸻
ホームルームのあと、生活指導の教員に呼び出された。
会議室の白い机。
窓からの光で紙の角が白く光る。
紙の上には昨夜の記録。
「昨夜の外出。危険度Cの依頼だな」
「はい」
「君の数値では、本来は許可しない内容だ」
「承知しています」
「なぜ続ける?」
「やるべきだと思うからです」
短く答える。
言い訳を重ねるほど、足元が崩れる。
教員は小さく息を吐いた。
昔、未来のどこかで、同じ言葉を同じ調子で聞いた記憶がある。
その時、俺は折れた。
今日は折れない。
「命はひとつしかない。無茶はやめろ」
「忘れません」
俺は軽く頭を下げ、すぐに退室した。
善意の言葉でも、何度も浴びれば心が擦り減る。
だから、長居はしない。
⸻
廊下に戻る。
柱の陰には、さきほどの黒い影。
まだいる。
形も位置も変わらない。
視線は合わせない。
速度も変えない。
教室へ戻る。
「顔が固いぞ」
天道 颯斗が机にもたれて、にやりと笑った。
「先生に心配された。……それだけだ」
「だろうな」
彼は肩をすくめ、声を落とす。
「昼に屋上。静と御影も呼ぶ」
「任せる」
短いやり取りで十分だ。
十年分の呼吸合わせが、余計な言葉を要らなくする。
二時間目が終わる。
換気口から冷気が落ちる。
粉っぽい匂い。
風向きが変わった。
午後は崩れる。
そういう予感は、だいたい当たる。
⸻
昼。
屋上は風が強く、鉄柵がきしんだ。
御影 透子は片眼鏡を押し上げ、端末を操作している。
神無月 静は髪を耳にかけ、こちらを見た。
天道は肩を柵に預け、空を一度だけ見上げた。
「まず状況の整理ね」
御影が端末を四分割して腰壁に置く。
救急出動の折れ線。
夜間巡回の増加。
住民通報の断片。
校門脇の停車帯の映り込み。
「公式記録は“異常なし”。でも実際は増えてる。小さな異常が、市内のあちこちで散発。森丘の件は“事故”で処理。代わりに――篠宮、君は“観測対象”になった」
胸ポケットから銀のタグを出す。
小さな光が点滅を繰り返す。
「昨夜、渡された。臨時協力者のタグ。危険度B以上は通報が先。初動は許可された。位置と短文が共有される」
天道が目を細める。
「分隊長が責任を持つって、珍しいな」
「現場の速さを知ってる人よ」
御影が頷く。
言葉の温度は低いが、目は鋭い。
静が一歩近づく。
「そのタグ、私の端末にも共有して。感知は数字より早い時がある」
「頼む」
同期が走り、四人の間に見えない糸が一本通る。
「次の一手は?」
天道の問い。
「午後の演習で型を合わせる。終わったら“風の悪い場所”を回る。駅北は要注意だ」
「了解」
御影が指を三本立てる。
「段取りは三つ。
一、依頼や動線の選定。記録に残りやすく、安全に終えられるもの。
二、連携の同期。篠宮の《武装展開》を軸に、天道の前衛と静の支援を合わせる。
三、視線のコントロール。カナリアに“使い方”を見せるが、依存はしない」
「それでいく」
風の匂いが少し変わった。
遠くの河川敷から、湿った砂の気配。
午後は、急ぐべきだ。
⸻
午後。
屋外演習場。
人工芝と砂の混ざった匂い。
靴裏がわずかに鳴る。
《武装展開》――投擲盾を四枚、膝下に漂わせる。
「この角度が“踏み込み”。
この角度が“退く”。
天道は踏み込みに合わせて入る。
静は退くに合わせて支援を切る。余韻で味方を引っ張らない」
「了解」
「分かった」
狼型のダミーが三体、直列で迫る。
「踏み込み!」
盾が前脚を刈り、天道の刃が一体の首を正確に断つ。
力の通り道がまっすぐで、無駄がない。
「退く!」
盾が戻り、俺は一歩下がる。
静の魔術がすっと切れ、空気のざわめきが収束する。
二体目は突っ込み損ね、三体目だけが前へ転んだ。
「今」
戻った盾の一枚を掌で押し、顎を跳ね上げる角度で再投。
小盾を胸前に展開し、二歩で距離を詰め、喉へ刃を滑らせる。
砂が散り、人工芝が短く軋む。
御影が柵の向こうで小さく拍手した。
「合格。勝ち筋は見えてる」
「まだ甘い」
俺は首を振る。
「戻りが半拍長い。静、魔力の切りをもう一段速く。
天道、斜め下の一歩が重い。床に力を奪われてる。母趾球の抜けを意識」
「おう」
「やってみる」
二巡目。
静は支援を切った直後の“空白”を短くする。
天道の踏み替えは軽く、初速が上がる。
盾の戻りも、指先の角度でわずかに早めた。
――形になってきた。
三巡目。
意図的に失敗を混ぜる。
あえて合図を遅らせ、ずれたリズムから立て直す。
一度崩れた動きでも、二手で戻ること。
それが実戦で生き残る条件だ。
天道が斬り、静が支援を切り、俺が盾で流す。
戻る。
間に合う。
御影が時計を見た。
「記録、保存。……よし」
そのとき、胸のタグが震えた。
小さな光が二度、早く点滅する。
御影の端末にも短文が走る。
【異常出現。駅北・再開発エリア。危険度C上。カナリア到着予測五分】
五分。
十分な時もある。
足りない時もある。
天道は顎で「任せろ」と示す。
静は杖を握り直す。
御影は親指を立て、「通報済み」と目で伝えた。
息を吸い込む。
「行く」
三人が同時に頷く。
走る。
風向きが背から前へ変わる。
街の匂いが一段濃くなる。
⸻
駅北・再開発エリア。
建設途中のビルが骨組みだけを晒し、仮囲いの白い板が風に鳴る。
舗道の真ん中に、影のような裂け目。
そこから赤黒い狼型の魔物が三体、にじみ出ていた。
顎が異様に長く、目は濁っている。
普通の個体よりも攻撃に躊躇がない。
角に市民が三人。
二人はしゃがみ込み、肩を抱き合って震えている。
一人は立ちすくんで、携帯を強く握りすぎている。
泣き声。
押し殺した悲鳴。
靴音が絡まり、逃げ道が狭い。
「天道、前! 静、左カバー!」
「了解!」
「任せて!」
盾を二枚滑らせて足を刈る。
天道が飛び込み、一体を斬る。
刃の通りがよく、粉塵が舞う。
「右、もう一!」
御影の声。
仮囲いの隙間から低い唸りとともに飛び出す影。
ワイヤーを展開し、顎の根元に引っかけて横に“抜く”。
体重の向きをずらせば、勢いは止まる。
天道が一閃で仕留め、静が氷で残滓を固定する。
三体目が市民の方へ進路を取る。
距離が悪い。
このままでは届く。
「退け!」
盾の戻りで、市民の前に薄い壁を作る。
同時に声を投げる。
「こっちへ!」
二人が立ち上がる。
足がもつれる。
それでも前へ。
最後の一人は足を滑らせ、膝をついた。
狼が喉へ狙いを下げる。
「させない!」
小盾を展開し、顎の側面を押して軌道をずらす。
足を刈り、倒れ込んだ頭を地面に押しつけ、喉へ刃。
感触は軽い。
粉塵が広がる。
静が短く詠唱し、地面に残る魔力のざわめきを凍らせる。
御影は市民の肩を支えながら、最短の退避ルートを指で示す。
「この通りを抜けて、右。照明が多いほうへ。走って」
市民は頷き、泣きながら駆けていく。
足音が遠ざかる。
息を整える。
剣を納める。
タグが震え、「カナリア到着」を示す。
黒い車両が角を曲がり、無駄のない動きで配置につく。
黒いジャケットの隊員が二名、前へ。
後方で装備の確認。
無線の短い声。
先頭の女が一歩出る。
鷹森 凛。
第七分隊長。
彼女は周囲を一度だけ見渡し、残滓と逃げた市民の方向を確認した。
視線が俺たちの影を正確に通過し、留まらない。
現場の空気を読んだ動きだ。
隊員が残滓の確認を終え、簡易バリアで封じる。
記録班が時間と座標を打ち込む。
市民の救護が終わると、現場は静かになった。
鷹森がこちらへ一歩、だけ近づく。
でも、まだ距離はある。
声は届くが、他には届きにくい距離。
「臨時協力、確認。……通報は早かった。助かった」
短い。
それだけ。
それ以上は求めない。
現場の言葉だ。
俺は頷く。
彼女はそれを見て、すぐに視線を外した。
指揮に戻る。
俺たちは影のまま、現場を離れる。
足音を重ねないように。
記録に余計な線を増やさないように。
⸻
帰路。
御影が端末を操作しながら、淡々とまとめる。
「討伐三体、市民三名避難。負傷軽微。現場の二次被害なし。……いい記録になる」
天道が息を吐く。
「俺たちが最初にいたことは、今回も紙には残らないだろうけどな」
「それでも、救えた」
静が言う。
その声は強くないが、まっすぐだった。
「うん。救えた」
俺は同じ言葉を繰り返す。
胸の奥の緊張がゆっくりほどける。
同時に、別の緊張が結び直される。
次に備えるための緊張だ。
「次は、もう少し早く動ける」
「ログが揃えば、動きやすくなる」
御影がうなずく。
タグの点滅が小さく続く。
歩幅は一定。
呼吸も一定。
夜の街は、普段どおりに明かりがついている。
でも、音が僅かに違う。
巡回車の数。
足早な靴音。
ニュースの見出し。
小さなズレが、少しずつ積み上がっていく。
十年前も、そうだった。
こんな小さなズレから始まり、最後は大きく崩れた。
だから、今はここで止める。
ここで、書き換える。
⸻
寮の部屋。
机に肘をつき、掌を見下ろす。
小さな擦り傷。
痛みは浅い。
だが、今日の位置を確かに教えてくれる。
静の言葉がよみがえる。
――助けられる人が増える。
天道の笑い声も思い出す。
――任せろ。
御影の端末の音も残っている。
――記録、保存。
タグの点滅は落ち着いて、呼吸のように一定になった。
目を閉じ、未来の地図と今の床の傷を重ねる。
十年前の自分が書いた紙片を胸ポケットから出す。
「やり直す」。
四文字を、もう一度読み込んでから、丁寧にしまう。
声にする。
「やり直す」
今日は、守れた。
明日も、守る。
そのために、もっと早く、もっと正確に。
数字は最低。
それでも動ける。
動けば、変わる。
タグが小さく点滅を繰り返す。
明日の準備を、頭の中で組み直す。
装備の点検。
連携の改善。
巡回のルート。
通報の文面。
ひとつずつ。
確実に。
新しい一日が、また始まる。
――第6話 了。