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第5話 監視の影

朝の空気は薄く冷たく、肺の内側を軽く撫でて通り過ぎた。

校門の上で揺れる校章の旗は、たしかに昨日と同じ角度で風を掴んでいる。

けれど門前の空気だけが、わずかに粘っていた。


正面から門をくぐり、歩幅も速度も変えずに視線だけを滑らせる。

停車帯に映り込みの少ない黒いバン。

フロントガラス上端に貼られた、一般流通ではない薄いセンサー帯。

運転席に人影。シルエットは小さく動かない。匂いはない。

無臭の緊張――現場の匂いだ。


見られている。

昨夜の夜明け前に、決定的になった“関係”。


ここで振り返れば、向こうの台本どおりになる。

だから、前だけを見る。

靴底はコンクリートからリノリウムへ。

廊下の蛍光灯が等間隔に白を落とし、掲示板には「実技講評 本日午後」の赤い貼り紙。

立ち止まらず、教室の扉を開けた。


――


ホームルームは短く終わった。

席替えの相談、卒業式の段取り、冗談と笑い声。

教室はいつもの雑音に満ちていく。


「篠宮」


呼ぶ声は柔らかいのに、床を踏む音は芯が強い。

天道てんどう 颯斗はやとが机にもたれ、眉で笑った。


「寝不足か?」


「少し走っただけだ」


「その“少し”は信用しない」


椅子の背に腕を引っかけ、声を落とす。


「門の外に黒バン。見たな?」


「見た」


「だよな。昼に屋上。静と御影も呼ぶ」


「任せる」


短い会話で十分だ。

十年分の呼吸合わせは、言葉の数を節約してくれる。


――


二時間目の終わり、廊下で生活指導の教員に呼び止められた。

会議室へ通され、白い机を挟んで向かい合う。

窓の外では風見鶏が一回転して、止まった。


「昨夜の外出届、確認した。……依頼は“危険度C”。だが、君の数字はCに届いていない」


「承知しています」


「篠宮、君は――」


善意の口調は石の角を丸くする。

でも、石は石だ。当たれば痛い。


短く頭を下げる。


「助言、感謝します。次からも段取りを重ねます」


擦り合わせる余地のある言葉だけ置いて席を立つ。

長引かせると余計な“感情”が紛れ込む。

網目の細かい場所ほど、身振りは小さく。


廊下に出ると、影が一本、壁から剥がれた。

黒いジャケット。歩幅の乱れのなさ。視線の動かし方だけで結論は出る。


カナリア。


こちらを見るでも、逸らすでもなく、ただ“存在する”距離を保って歩く。

肩の力を抜いたまま教室まで戻る。

背中に載る視線は、重さが一定だ。

重さが一定ということは、いまは“試し”の段階。焦る必要はない。


――


昼。

屋上は風がよく抜け、鉄柵が低くきしむ。


御影みかげ 透子とうこは柵にもたれ、片眼鏡を押し上げて端末を操作。

神無月かんなづき しずかは風に煽られる髪を耳にかけ、

颯斗は柵に肩を預け、空を眺めていた。


「さて、朝の感想戦から」


透子が指先で画面を払うと、分割された四つの小窓にログが流れる。

住民通報の通話断片。夜間巡回の増加。救急の出動履歴。

そして、校門脇の停車帯。


「公式記録は“静穏”。でも実測は“沸騰直前”。森丘の件は“事故”として封じられた。……代わりに、君は“観測対象”に昇格。おめでとう」


皮肉っぽい祝辞に、胸ポケットから薄い銀のタグを取り出す。

中央の小さな楕円の窓が、呼吸みたいに淡く光る。


「昨夜、渡された。臨時協力者のタグ。位置共有と緊急短文送信。危険度B以上はまず通報。やむをえない場合のみ初動許可。ログは残る。責任は……鷹森たかもり りんが取る、らしい」


颯斗が小さく口笛を吹く。


「分隊長が責任を名乗るのは、珍しい気がする」


「珍しい」


透子は画面から目を上げ、短く言った。


「現場の人間は危機の速度を知ってる。だから“使える駒”にタグを配る。篠宮、あなたは“使われる側”でもあるけど、“使う側”にもなれる」


静が一歩近づく。


「タグの共有、私の端末にも許可して。……危険の立ち上がりは、音より速い時がある」


「頼む」


連携が走り、颯斗が腕組みを解いた。


「で、次の一手は?」


「正規の依頼を受ける。低危険度でも“勝ち方”をログに残す。タグを使って、彼らの目の前で“安全な連携”を見せる」


透子が指を三本立てる。


「段取りは三つ。

 一、依頼の選定。死に筋を避け、記録が素直に残るやつ。

 二、連携の型。篠宮の《武装展開》に、颯斗の前衛と静の支援を同期。

 三、視線のコントロール。カナリアに“使い道”を見せつつ、依存はしない」


「了解」


タグを胸に戻し、風を吸い込む。

鉄の匂い、遠くのフライドチキンの匂い、紙とインクの匂い。

世界は相変わらず雑多で、いい。


「小さく変える。確実に」


三人とも、言葉はなく頷いた。


――


放課後。

学内ギルド出張所。

カウンターの向こうで相馬そうま 総司そうじが書類を綴じている。

白い蛍光灯の下、紙のエッジが冷たく光る。


「依頼か?」


「“はじまりの洞”。討伐兼採集。記録に残しやすい案件を」


相馬は俺、颯斗、静の顔を順に見て、最後に透子で止まった。


「監視が厳しい。承知だな?」


「はい」


依頼票に署名。チーム名は空欄。仮の編成で十分だ。

相馬は印を押し、声を落とす。


「……鷹森 凛。お前らの“見張り”のボスだろ。

 あの人は一本筋が通ってる。

 でも、筋が通ってる人間がいつも勝つわけじゃない。

 組織は線が絡まって縄になる。引く手が違えば、同じ縄でも首にかかる」


「肝に銘じます」


プリンターが唸り、受領書が吐き出される。

端末に電子署名。タグが胸で一度だけ小さく震えた。


――


寮の部屋。

机の上に装備を並べる。

防刃コート。軽量合金剣。簡易魔力遮断布。ポーション二本。

テーピング。予備の留め具。


《武装展開》の薄い設計図が意識の端で開く。

投擲盾の戻り角度を二度だけ修正。

ワイヤーの表面処理を“湿度高”モードに。

小盾の中心厚みを一段落として初速を上げる。


机の端に、十年前の自分の走り書き。

「やり直す」。

四文字は、何度見ても重い。

ポケットに滑り込ませ、明かりを落とす。


出る前に扉の前で一拍だけ立ち止まる。

昨夜の帰還直後、寮の裏で俺を待っていた女の横顔を、意識の表面に浮かべた。


鷹森 凛。

監視班カナリア第七分隊長。


――


(昨夜)


森丘の縁、夜明け前。

冷たい霧が低く漂い、鳥の声が遠い。

俺と静は木立の影で息を整え、互いに短く頷いてから街へ戻るルートを選ぶ。

その先の舗装路の曲がり角に、彼女はいた。


薄い防弾ベストの上から黒のジャケット。

髪は肩でまとめ、立ち姿は無駄がない。

目は、こちらの“焦点”だけを測る。


「監視班――鷹森 凛」


静かに名乗り、こちらを見る。


「非公開区域での接触、回収対象……が、状況は例外が重なった。

 君の“使い方”を考える。ひとつ、使わせてほしい」


短い沈黙。どちらも武器に触れない距離。

彼女の後方、木の影に三人。銃ではなく、非致死の拘束具。

準備だけは完全だ。


「条件は?」


問うと、彼女はポケットから銀のタグを出した。


「臨時協力者のタグ。位置と短文。危険度B以上は通報が先。初動は判断を許す。

 ログは残す。責任は私が取る。……ただし、命令ではない。選べ」


返事は決まっていた。だが、即答はしない。

静へだけ視線を流し、彼女の目の色を確認する。揺れていない。なら、いい。


「受け取る」


タグは思ったより重く、冷たかった。

彼女は頷き、短く言う。


「逃げ方がいい。次は、捕まえ方も見せてくれ」


「望むなら」


初めて、彼女は少しだけ笑った。笑いは一瞬で消えた。


――(ここまでが昨夜)


――


現実に戻る。

扉を閉め、鍵を回す。廊下の蛍光灯がわずかに唸る。

靴紐を結び直し、深く息を吸う。


夜は、いつでもこちら側に余白をくれる。

その余白に、手順と呼吸と、わずかな祈りを詰める。


校門を出る。

停車帯の黒いバンは別の場所に移動していた。

同型が一本、通りの向こうをゆっくりと走る。

回り込みはしない。記録だけ残す。今日はそれでいい。


街の灯は、いつもどおりにやさしい。

やさしさは、いつでも薄紙一枚だ。

その薄紙を破らないように、しかし確実に押し広げる方法を、俺は十年かけて覚えた。


ポケットのタグが、呼吸のように明滅する。

網は張られている。だから、使う。

使って、越える。


今夜の依頼は、正規の入口から。

勝ち方を、紙に。安全の形を、目に。前例を、街に。


歩幅を一定に、視線は前へ。

最短で救える命のために、最短で届く手順を選ぶ。

それが、俺の“監視の影”との付き合い方だ。


――第5話 了。

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