第3話 放課後の策謀
昼休みのざわめきが引いて、校舎は急に広く感じられた。
トレイを返却して、人気の少ない渡り廊下を抜け、校舎裏へ向かう。
蛍光灯の白が床に薄く伸び、窓の外では雲が早い。足音は自分のものだけだ。
ベンチに、彼女はいた。
御影透子。
片眼鏡型の簡易モニターを指で押し上げ、親指だけで端末を回す癖は相変わらず。
「よう、篠宮。午前の数字は見たわよ」
「最低だったろ」
「うん、気持ちいいくらい最低。で、午後の予定は?」
「情報と物資の手配。夜に森丘地帯へ行く」
透子の目がわずかに細くなる。冗談の色はない。
風の向き、雲の厚み、周囲の物音を一瞬で拾って、危険の濃さを量るあの目だ。
「理由は?」
「兆候の重なり。夜間の微弱フレア、衛星の通過角、地形。……いちばん近いのは“勘”だ」
「ふーん。いいわ、検証しながら走る。ドローンは飛ばせないから、地上センサーの網と気象の垂直断面を重ねる。共有地図は私の権限で限定公開にしておく」
「助かる」
「物資は何が要る?」
「旧式でもいい耐魔繊維のインナー。軽い合金剣。簡易の魔力遮断布。ポーション二本――一本は投与用、もう一本は割って煙幕代わりに使えるやつ」
「学生の財布でいける範囲ね」
透子は端末に指を走らせ、発注を確定する。
通知音が二回。工程番号が短く光って消えた。
「受け取りは学内ギルド出張所。相馬総司がいる時間を選んだ。彼なら話が早い」
「さすがだ」
礼を言うと、透子は肩をすくめて小さく笑う。
「礼は結果で返して。……それと、ひとつ忠告」
「何だ」
「今日は、普段より“見られてる”。測定で騒いだ連中だけじゃない。校門の外にもね」
カナリア。
国家直轄の監視班。
視線を横に滑らせ、校舎の影に沈む駐車帯を一瞥する。鈍いガラスの面が一つ、空を映して揺れた。
「分かってる」
「ならいい。――死なないで」
「絶対に」
透子は立ち上がり、踵を返す。ヒールがコツン、コツン、コツンと三度鳴って遠ざかった。
俺もベンチから離れ、出張所へ向かう。
――
出張所のカウンターは、いつもの消毒液の匂い。
木製のパーティションに掲示物が並び、奥のラックでは箱の角が揃っている。
相馬総司が帳簿を閉じ、顔を上げた。
「おう、篠宮。午前は……まあ、元気出せ」
「元気出してます。受け取りが二件」
伝票を差し出す。相馬は苦い顔で笑い、倉庫へ消えた。
戻ってきた腕には、布袋が二つ。紐の結び目は固く、手際がいい。
「どれも“最小限”。無理はすんな」
「はい」
受け取りのサインを終えた瞬間、端末の通知領域に赤いフラグが一瞬だけ灯る。
【要観察】。――見られている。
相馬は気づかないふりで、声を落とした。
「今日の夕方、森のほうは風が強い。砂に気をつけろ」
「助かります」
互いにそれだけ言って別れた。
言い過ぎないことが、いちばんの善意になる時もある。
――
寮の部屋に戻り、装備を並べる。
防刃コート。軽量の合金剣。簡易の魔力遮断布。ポーション二本。
耐魔インナーを着込み、可動域を確認。肩、肘、膝。
重さの分布が前寄りにならないよう、小物の位置を微調整する。
紐の長さ、鞘の角度、ポーチの留め具――全部、出し入れの手順に合わせて変える。
机に肘をつき、深呼吸。
頭の内側に、薄い設計図の“影”がうっすら浮かんでは消える。
投擲盾もワイヤーも、今はない。
――まだだ。
順番を飛ばせば、どこかが歪む。噛み合ってから増やす。
窓を開けると、風が書類を一枚さらい、床に落とした。
拾い上げると、そこには下手な字で「やり直す」とだけある。
十年前の俺に向けた、十年後の俺のメモ。
苦笑して紙を二つに折り、胸ポケットへしまう。触れると、角が固い。
――
夕方。
校舎の陰が長く伸び、グラウンドの風が乾いた砂を薄く走らせる。
門へ向かう途中、背後に柔らかい足音が重なった。
「篠宮くん」
神無月静。
目元にわずかに熱が残っている。午前の測定に加えて、午後は魔力操作の課題を詰めたのだろう。指先の震えはない。呼吸は整っている。
「放課後、どこへ?」
「少し走る」
「“少し”は信用できない」
言い方が妙におかしくて、笑いそうになった。だが、ここは笑わない。
「――準備が要る。話は夜が明けてからでもいいか?」
静は一拍考えて、こくりと頷く。
「分かった。……気をつけて」
「ありがとう」
それ以上は追及しない代わりに、静の視線が一瞬だけ俺の手元に落ちる。
ポーションの留め具、指の角度、歩幅。全部、見られている。
見られることを自覚すると、動きが整う。整った動きは、崩れにくい。
校門を出ると、道路向かいの停車帯に黒いバン。
煙草の匂いはしない。無臭の緊張だけがある。
窓ガラス越しに、カメラの反射がひとつ。角度は低い。顔を撮る高さじゃない――歩幅を見る位置だ。
――カナリア。
振り向かない。速度を変えない。足音を増やさない。
ただ、歩く。呼吸を整え、肩の高さを一定に保つ。
尾行を“成り立たせておく”のも、時には必要だ。
森丘へ。
夜へ。
最初の一手へ。
――
日が落ち切る前に、目的の分岐へ着いた。
舗装路から土道へ。靴底が少し沈み、音が減る。
草の背が高くなり、匂いが変わる。土と青い葉の匂い。
風は西から北へ。旗はないが、頬の温度差で分かる。
胸ポケットの紙を指で押さえる。
「やり直す」。
たった四文字なのに、胸骨の奥で確かな重さになる。
ここまでは“昼”。
ここから先は“夜の仕事”。
一度だけ深呼吸して、街のほうへ視線を戻す。遠くのビルの赤い点滅、ゆっくり、一定。
――届く。
――間に合う。
言い聞かせる。足の筋肉にそのまま落とし、暗くなる道へ踏み出した。
第3話 了。